104 / 161
第4章 RONDO-FINALE
op.12 月に寄せる歌(7)
しおりを挟む
「おはようございます」
まだ朝の早い時間にリチェルが工房を訪ねると、昨日会ったカルロが顔を出した。起きたてなのか寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかいて、リチェルの姿を目に留めるとどこか照れ臭そうに笑う。
「おう、おはよう。早いな」
「みなさんの朝食を買ってくるのがお仕事だとマルコさんから聞いていたので、代わりにパンを買ってきたんです」
昨晩はマルコの実家に泊めてもらった。
公言していた通りマルコは家に帰ってこなかったが、マルコの母親は訪れたリチェルを歓迎してくれた。『本当アレはヴァイオリン馬鹿なのよ。迂闊に女の子に勧められないわ』と笑って話すマルコの母親は、それでもその口調の端々に息子への愛情が感じられて、何だか心がポカポカした。
パンを買ってくるのは昨日マルコに頼まれていたのだ。
「……マルコの奴に使いっ走りにされたのか?」
「いえそんな。マルコさんには以前もよくして頂いたので、お手伝いできる事がないかわたしがお聞きしたんです」
「金は?」
「えっと、とりあえず立て替えて……」
「マルコぉ────ッッ!」
突然ドスの聞いた声でカルロが叫んだ。奥の方から『はいっ!』と声が聞こえて、シャツに袖も通していないマルコがすっ飛んでくる。
「何ですかカルロさん! 洗濯ですか⁉︎」
「違うだろこのアホがっ! お前客人に自分の仕事押し付けてんじゃねぇっ!」
その上金まで払わせやがって! とカルロが怒鳴ると、すみませんでした! とマルコが直立不動で謝った。
「や、でもリチェルがお礼に何かしたいって言ったから……」
「金くらい払え!」
「だってお金もらうのいっつも朝じゃないですか。流石にリチェルも一回工房に寄ると思ってたんで」
「言い訳ばっかり……」
すんな! とゲンコツが落ちた。痛ぇっ! とマルコが呻いて、頭を押さえてその場にうずくまる。
「あ、あのカルロさん! 私が頼んだのは本当なんです!」
慌ててマルコのそばに行くと、リチェルは少し躊躇してマルコの頭にそっと手を伸ばす。
「冷たい布、とか……」
「いてて……いいよ慣れてるから。カルロさんのゲンコツ痛いんですよね。それでリチェル飯は?」
「マルコお前!」
「あ、もちろん先に先輩達に配りますよ! リチェル、カゴとって」
「だ・か・ら! 客人に世話をさせるなと──!」
「大丈夫です! 大丈夫ですカルロさん! 何かお役に立てるならそれだけで嬉しいです!」
また握り拳を作ったカルロとマルコの間に立つと、リチェルは懸命に弁明する。その姿を見て、どこか毒気が抜かれたみたいにカルロは息をついた。
「……お前さん、母親にそっくりなのに中身は全く母親に似てないな。性格はミケ譲りか」
「え?」
「いや、こっちの話だ。全く、調子が狂うな……」
そう言ってカルロが不器用にリチェルの頭を撫でる。
持ち上げられた手に一瞬びっくりしたけれど、まるで壊れ物に触れるみたいにリチェルを撫でる手つきは優しくて、リチェルはキョトンとしてカルロを見上げた。
「そう言ってくれるなら、良かったらその朝食お前さんが配ってやってくれないか。お前のことは昨日の内に工房の連中には話してるから、ウロチョロしても誰も怒らねぇよ。心配しなくていい」
そう言ってカルロはリチェルが持ってきた買い物かごを手渡してくれる。
両手でそれを受け取って、仕事をしても良いと言ってくれたのだと理解する。それが嬉しくなって、リチェルはありがとうございます、と笑った。
「じゃあ、まずカルロさんに」
「おう、ありがとな」
焼きたてだったからパンはまだホカホカしていた。
二つばかり片手でパンをつまむと、カルロが『後でちゃんと金もらえよ』と笑う。言葉遣いは乱暴だが、カルロが優しいのはすぐに分かった。はい、と笑ってリチェルはまたカゴに布をかぶせる。
「リチェル! 案内してやるから来いよ」
「あ、はい!」
袖に手を通しながら歩いていくマルコの後ろを慌ててついていく。その首回りが随分黒ずんでいるのが目に留まって、一体何日泊まり込んでいるのだろう、と少し心配になる。
「マルコさん、おうちに帰ってますか?」
「ん? たまに帰ってるよ」
「お洗濯、とか……」
「え、俺臭い⁉︎」
「ち、違うんです! でもお首回りが汚れているので……!」
「あー、洗濯出すの忘れちゃうんだよね。俺もたまに洗うんだけど、自分の着てるやつ脱がないじゃん。げ、今日当番俺だ」
「代わりにお洗濯しましょうか?」
「マジで⁉︎ やった!」
嬉々としてマルコが上着を脱ごうとするので『ご飯を配り終わったらにしましょう』と慌てて止めた。
それもそうか、とマルコは頷いて案内がてら、工房の職人達にリチェルを紹介してくれた。朝ご飯を順番に手渡しながら、古くからいる人ほどリチェルに対して優しい目線を向けるのを感じた。
目に見えない決まり事を守るみたいに、誰も父のことを口にしなかったが、リチェルが挨拶をした時に一瞬表情が和らぐ。もちろんみんながカルロみたいではなく、ほとんど喋らない人もいたが、ぶっきらぼうでも不思議と冷たいとは感じなかった。
それが何を意味しているのかは、深く考えなくても分かる。
リチェルの父は、きっとこの工房のみんなに好かれていたのだ。
だから娘であるリチェルにも、この工房の人たちは良くしてくれるのだ。
そう考えると、胸の奥がじんと温まった。それが何だか、泣き出したいくらい嬉しくて──。
(ここにいられるのは短い期間だけど。せめてその間だけでも……)
自分のできることを精一杯やろう、と心の底からそう思った。
◇
ドナートの親方の手が空いて、ようやくリチェルが呼ばれたのは昼を回った頃だった。
「初めまして。リチェルと申します」
父がお世話になっていた人だからと、いつもより丁寧に頭を下げる。
先に聞いていた通り、親方は気難しさが顔に出ているような人だった。作業部屋に入ると、ニスの匂いと、かすかに新しい木の匂いがした。まだ弦も張られていない、表面が木のままのヴァイオリンが机の上に置かれている。
ドナートは立ったままのリチェルを見て、椅子を顎でしゃくると、座んな、と短く言った。
「オルランド・ドナートだ。ここじゃみんな親方って呼ぶ」
「は、はい。えっと、オヤカタさん?」
何と呼べばいいか迷ってそう呼ぶと、ドナートが『ドナートでいい』と素気なく告げる。
「はい、ドナートさん。あの、お忙しい中お時間を取っていただいてありがとうございます」
椅子に腰を下ろして、もう一度頭を下げるとドナートはじっとリチェルを見て、目を細めた。
「……不思議なもんだ。まるで十六年前にころっと戻ったみたいだ」
ドナートの言葉にキョトンとする。
そう言えばカルロもリチェルの事を知っていたし、母親に似ていると言っていた。恐らくこの工房の人たちは母の事も知っているのだろうと思ってはいたが、ドナートの口ぶりからすると母もこの工房にいた事があるのだろうか。
「お前のその羽織ってるやつな」
「はい」
返事をしてリチェルは肩にかけたショールをキュッと握る。
「お前の母親が残してったもんだ。大切なものだったらしいんだが、ミケの部屋に置いたままになってたんだよ」
「…………」
どう言う事だろう、と思う。
ドナートの言葉はある日リチェルの母親が急にいなくなったような、そんな言葉だ。どこから話したもんか、とドナートは口ごもる。
「リチェル、だったな。お前さん、どこまで父親のことを知ってる?」
「……あの、実はほとんど知らないんです」
名前さえ知らなかった。
孤児院に毎年寄付をしていてくれた事と、八年前に亡くなった事。それだけ先日聞いたのだとそう答えて、リチェルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
この工房の人たちは、きっと父のことを大事に思っていてくれたのに──。
リチェルの告白に、ドナートは小さく『そうか』と呟いただけだった。
「じゃあまずは名前だな。お前の父親の名前はミケーレ。ミケーレ・パストーリ。この工房でヴァイオリンを作ってた。みんなミケって呼んでたよ」
ドナートは淡々と事実だけを口にする。
「そして母親だな。母親の名前はリーゼロッテ。ミケはリゼルと呼んでいたな。だけどアイツの名前はここじゃずっと『リチェル』だった」
「え──?」
驚きに目を見開く。
と言うことは、あの時カルロがリチェルの名前を呼んだのは、娘であるリチェルの名を知っていたからではなく、リチェルの母親こそが同じ名前だったと言うことになる。どう言うことだろう、とリチェルは目を丸くする。
「お前さん、どのくらい知りたい? 正直お前さんにとって酷な内容も混ざる。ミケはもう死んでいて、リーゼロッテの行方は分からん。昔話を聞いたところで、何も得にならんぞ?」
静かな声だった。だけどその声がとても真剣なのが分かった。
だから安易に答えてはいけないと思って、リチェルはドナートの問いをもう一度自分に向かって問いかけ直す。
自分のことを、知りたいのか?
(今までの、わたしなら……)
きっと、知らなくても良いと思っていた。
両親の存在はリチェルにとってはとても希薄だ。生まれた時からそばにおらず、名前も知らない。だけど──。
きっと、リチェルは愛されていた。
父はずっと孤児院に寄付をしてくれていて、この工房の人達はリチェルに優しい。カルロの反応を見る限りでは、きっと母も悪い印象を与えてはいないのだろう。
だとしたら、自分を愛してくれた人達から目を背けることはしたくなかった。例えその中に、リチェルにとって不都合な事実があったとしても。
(だって、シスター・ロザリアの事だって、知れて良かったと思ったわ)
全部知ってもリチェルは変わらずシスターに感謝をしている。彼女の愛情を信じている。むしろ知らなかった時より、ずっとずっとリチェルにとっては大事な人になった。
「……知りたい、です」
だから、父と母のことも。
自分をこの世界に生み出してくれた人達のことを。
知らないから分からないではなく、知った上できちんと感謝をして、愛せるようになりたいとそう思う。
「教えてください」
そう言って、リチェルは頭を下げる。
ドナートは黙ってリチェルを見ていたが、やがてふっと息を吐くように呟いた。
「……長い話になる」
そう前置きして、ドナートは両親のことを話し出した。
元々話すのは得意でないのだろう。ドナートの声は低くかすれていて、聞き取り辛かった。だけど不思議とリチェルの耳はその声をよく拾った。静かな作業部屋の空気の中、ポツポツと空気に情景が落ちるみたいに思い出が広がっていく。
ある日突然父が母を拾ってきたこと。
母が良い家のお嬢様だったこと。
器量の良い性格ですぐに工房に馴染み、この工房の人達みんなが母を愛してくれたこと。
父と母が結ばれたこと。
そして、母がリチェルを妊娠したこと──。
まだ朝の早い時間にリチェルが工房を訪ねると、昨日会ったカルロが顔を出した。起きたてなのか寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかいて、リチェルの姿を目に留めるとどこか照れ臭そうに笑う。
「おう、おはよう。早いな」
「みなさんの朝食を買ってくるのがお仕事だとマルコさんから聞いていたので、代わりにパンを買ってきたんです」
昨晩はマルコの実家に泊めてもらった。
公言していた通りマルコは家に帰ってこなかったが、マルコの母親は訪れたリチェルを歓迎してくれた。『本当アレはヴァイオリン馬鹿なのよ。迂闊に女の子に勧められないわ』と笑って話すマルコの母親は、それでもその口調の端々に息子への愛情が感じられて、何だか心がポカポカした。
パンを買ってくるのは昨日マルコに頼まれていたのだ。
「……マルコの奴に使いっ走りにされたのか?」
「いえそんな。マルコさんには以前もよくして頂いたので、お手伝いできる事がないかわたしがお聞きしたんです」
「金は?」
「えっと、とりあえず立て替えて……」
「マルコぉ────ッッ!」
突然ドスの聞いた声でカルロが叫んだ。奥の方から『はいっ!』と声が聞こえて、シャツに袖も通していないマルコがすっ飛んでくる。
「何ですかカルロさん! 洗濯ですか⁉︎」
「違うだろこのアホがっ! お前客人に自分の仕事押し付けてんじゃねぇっ!」
その上金まで払わせやがって! とカルロが怒鳴ると、すみませんでした! とマルコが直立不動で謝った。
「や、でもリチェルがお礼に何かしたいって言ったから……」
「金くらい払え!」
「だってお金もらうのいっつも朝じゃないですか。流石にリチェルも一回工房に寄ると思ってたんで」
「言い訳ばっかり……」
すんな! とゲンコツが落ちた。痛ぇっ! とマルコが呻いて、頭を押さえてその場にうずくまる。
「あ、あのカルロさん! 私が頼んだのは本当なんです!」
慌ててマルコのそばに行くと、リチェルは少し躊躇してマルコの頭にそっと手を伸ばす。
「冷たい布、とか……」
「いてて……いいよ慣れてるから。カルロさんのゲンコツ痛いんですよね。それでリチェル飯は?」
「マルコお前!」
「あ、もちろん先に先輩達に配りますよ! リチェル、カゴとって」
「だ・か・ら! 客人に世話をさせるなと──!」
「大丈夫です! 大丈夫ですカルロさん! 何かお役に立てるならそれだけで嬉しいです!」
また握り拳を作ったカルロとマルコの間に立つと、リチェルは懸命に弁明する。その姿を見て、どこか毒気が抜かれたみたいにカルロは息をついた。
「……お前さん、母親にそっくりなのに中身は全く母親に似てないな。性格はミケ譲りか」
「え?」
「いや、こっちの話だ。全く、調子が狂うな……」
そう言ってカルロが不器用にリチェルの頭を撫でる。
持ち上げられた手に一瞬びっくりしたけれど、まるで壊れ物に触れるみたいにリチェルを撫でる手つきは優しくて、リチェルはキョトンとしてカルロを見上げた。
「そう言ってくれるなら、良かったらその朝食お前さんが配ってやってくれないか。お前のことは昨日の内に工房の連中には話してるから、ウロチョロしても誰も怒らねぇよ。心配しなくていい」
そう言ってカルロはリチェルが持ってきた買い物かごを手渡してくれる。
両手でそれを受け取って、仕事をしても良いと言ってくれたのだと理解する。それが嬉しくなって、リチェルはありがとうございます、と笑った。
「じゃあ、まずカルロさんに」
「おう、ありがとな」
焼きたてだったからパンはまだホカホカしていた。
二つばかり片手でパンをつまむと、カルロが『後でちゃんと金もらえよ』と笑う。言葉遣いは乱暴だが、カルロが優しいのはすぐに分かった。はい、と笑ってリチェルはまたカゴに布をかぶせる。
「リチェル! 案内してやるから来いよ」
「あ、はい!」
袖に手を通しながら歩いていくマルコの後ろを慌ててついていく。その首回りが随分黒ずんでいるのが目に留まって、一体何日泊まり込んでいるのだろう、と少し心配になる。
「マルコさん、おうちに帰ってますか?」
「ん? たまに帰ってるよ」
「お洗濯、とか……」
「え、俺臭い⁉︎」
「ち、違うんです! でもお首回りが汚れているので……!」
「あー、洗濯出すの忘れちゃうんだよね。俺もたまに洗うんだけど、自分の着てるやつ脱がないじゃん。げ、今日当番俺だ」
「代わりにお洗濯しましょうか?」
「マジで⁉︎ やった!」
嬉々としてマルコが上着を脱ごうとするので『ご飯を配り終わったらにしましょう』と慌てて止めた。
それもそうか、とマルコは頷いて案内がてら、工房の職人達にリチェルを紹介してくれた。朝ご飯を順番に手渡しながら、古くからいる人ほどリチェルに対して優しい目線を向けるのを感じた。
目に見えない決まり事を守るみたいに、誰も父のことを口にしなかったが、リチェルが挨拶をした時に一瞬表情が和らぐ。もちろんみんながカルロみたいではなく、ほとんど喋らない人もいたが、ぶっきらぼうでも不思議と冷たいとは感じなかった。
それが何を意味しているのかは、深く考えなくても分かる。
リチェルの父は、きっとこの工房のみんなに好かれていたのだ。
だから娘であるリチェルにも、この工房の人たちは良くしてくれるのだ。
そう考えると、胸の奥がじんと温まった。それが何だか、泣き出したいくらい嬉しくて──。
(ここにいられるのは短い期間だけど。せめてその間だけでも……)
自分のできることを精一杯やろう、と心の底からそう思った。
◇
ドナートの親方の手が空いて、ようやくリチェルが呼ばれたのは昼を回った頃だった。
「初めまして。リチェルと申します」
父がお世話になっていた人だからと、いつもより丁寧に頭を下げる。
先に聞いていた通り、親方は気難しさが顔に出ているような人だった。作業部屋に入ると、ニスの匂いと、かすかに新しい木の匂いがした。まだ弦も張られていない、表面が木のままのヴァイオリンが机の上に置かれている。
ドナートは立ったままのリチェルを見て、椅子を顎でしゃくると、座んな、と短く言った。
「オルランド・ドナートだ。ここじゃみんな親方って呼ぶ」
「は、はい。えっと、オヤカタさん?」
何と呼べばいいか迷ってそう呼ぶと、ドナートが『ドナートでいい』と素気なく告げる。
「はい、ドナートさん。あの、お忙しい中お時間を取っていただいてありがとうございます」
椅子に腰を下ろして、もう一度頭を下げるとドナートはじっとリチェルを見て、目を細めた。
「……不思議なもんだ。まるで十六年前にころっと戻ったみたいだ」
ドナートの言葉にキョトンとする。
そう言えばカルロもリチェルの事を知っていたし、母親に似ていると言っていた。恐らくこの工房の人たちは母の事も知っているのだろうと思ってはいたが、ドナートの口ぶりからすると母もこの工房にいた事があるのだろうか。
「お前のその羽織ってるやつな」
「はい」
返事をしてリチェルは肩にかけたショールをキュッと握る。
「お前の母親が残してったもんだ。大切なものだったらしいんだが、ミケの部屋に置いたままになってたんだよ」
「…………」
どう言う事だろう、と思う。
ドナートの言葉はある日リチェルの母親が急にいなくなったような、そんな言葉だ。どこから話したもんか、とドナートは口ごもる。
「リチェル、だったな。お前さん、どこまで父親のことを知ってる?」
「……あの、実はほとんど知らないんです」
名前さえ知らなかった。
孤児院に毎年寄付をしていてくれた事と、八年前に亡くなった事。それだけ先日聞いたのだとそう答えて、リチェルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
この工房の人たちは、きっと父のことを大事に思っていてくれたのに──。
リチェルの告白に、ドナートは小さく『そうか』と呟いただけだった。
「じゃあまずは名前だな。お前の父親の名前はミケーレ。ミケーレ・パストーリ。この工房でヴァイオリンを作ってた。みんなミケって呼んでたよ」
ドナートは淡々と事実だけを口にする。
「そして母親だな。母親の名前はリーゼロッテ。ミケはリゼルと呼んでいたな。だけどアイツの名前はここじゃずっと『リチェル』だった」
「え──?」
驚きに目を見開く。
と言うことは、あの時カルロがリチェルの名前を呼んだのは、娘であるリチェルの名を知っていたからではなく、リチェルの母親こそが同じ名前だったと言うことになる。どう言うことだろう、とリチェルは目を丸くする。
「お前さん、どのくらい知りたい? 正直お前さんにとって酷な内容も混ざる。ミケはもう死んでいて、リーゼロッテの行方は分からん。昔話を聞いたところで、何も得にならんぞ?」
静かな声だった。だけどその声がとても真剣なのが分かった。
だから安易に答えてはいけないと思って、リチェルはドナートの問いをもう一度自分に向かって問いかけ直す。
自分のことを、知りたいのか?
(今までの、わたしなら……)
きっと、知らなくても良いと思っていた。
両親の存在はリチェルにとってはとても希薄だ。生まれた時からそばにおらず、名前も知らない。だけど──。
きっと、リチェルは愛されていた。
父はずっと孤児院に寄付をしてくれていて、この工房の人達はリチェルに優しい。カルロの反応を見る限りでは、きっと母も悪い印象を与えてはいないのだろう。
だとしたら、自分を愛してくれた人達から目を背けることはしたくなかった。例えその中に、リチェルにとって不都合な事実があったとしても。
(だって、シスター・ロザリアの事だって、知れて良かったと思ったわ)
全部知ってもリチェルは変わらずシスターに感謝をしている。彼女の愛情を信じている。むしろ知らなかった時より、ずっとずっとリチェルにとっては大事な人になった。
「……知りたい、です」
だから、父と母のことも。
自分をこの世界に生み出してくれた人達のことを。
知らないから分からないではなく、知った上できちんと感謝をして、愛せるようになりたいとそう思う。
「教えてください」
そう言って、リチェルは頭を下げる。
ドナートは黙ってリチェルを見ていたが、やがてふっと息を吐くように呟いた。
「……長い話になる」
そう前置きして、ドナートは両親のことを話し出した。
元々話すのは得意でないのだろう。ドナートの声は低くかすれていて、聞き取り辛かった。だけど不思議とリチェルの耳はその声をよく拾った。静かな作業部屋の空気の中、ポツポツと空気に情景が落ちるみたいに思い出が広がっていく。
ある日突然父が母を拾ってきたこと。
母が良い家のお嬢様だったこと。
器量の良い性格ですぐに工房に馴染み、この工房の人達みんなが母を愛してくれたこと。
父と母が結ばれたこと。
そして、母がリチェルを妊娠したこと──。
0
あなたにおすすめの小説
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
拾われ子のスイ
蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】
記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。
幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。
老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。
――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。
スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。
出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。
清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。
これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。
※週2回(木・日)更新。
※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。
※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載)
※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す
RINFAM
ファンタジー
なんの罰ゲームだ、これ!!!!
あああああ!!!
本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!
そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!
一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!
かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。
年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。
4コマ漫画版もあります。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
公爵家の秘密の愛娘
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。
過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。
そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。
「パパ……私はあなたの娘です」
名乗り出るアンジェラ。
◇
アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。
この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。
初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。
母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞
🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞
🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇♀️
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる