Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第4章 RONDO-FINALE

op.12 月に寄せる歌(7)

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「おはようございます」

 まだ朝の早い時間にリチェルが工房を訪ねると、昨日会ったカルロが顔を出した。起きたてなのか寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかいて、リチェルの姿を目に留めるとどこか照れ臭そうに笑う。

「おう、おはよう。早いな」
「みなさんの朝食を買ってくるのがお仕事だとマルコさんから聞いていたので、代わりにパンを買ってきたんです」

 昨晩はマルコの実家に泊めてもらった。
 公言していた通りマルコは家に帰ってこなかったが、マルコの母親は訪れたリチェルを歓迎してくれた。『本当アレはヴァイオリン馬鹿なのよ。迂闊に女の子に勧められないわ』と笑って話すマルコの母親は、それでもその口調の端々に息子への愛情が感じられて、何だか心がポカポカした。

 パンを買ってくるのは昨日マルコに頼まれていたのだ。

「……マルコの奴に使いっ走りにされたのか?」
「いえそんな。マルコさんには以前もよくして頂いたので、お手伝いできる事がないかわたしがお聞きしたんです」
「金は?」
「えっと、とりあえず立て替えて……」
「マルコぉ────ッッ!」

 突然ドスの聞いた声でカルロが叫んだ。奥の方から『はいっ!』と声が聞こえて、シャツに袖も通していないマルコがすっ飛んでくる。

「何ですかカルロさん! 洗濯ですか⁉︎」
「違うだろこのアホがっ! お前客人に自分の仕事押し付けてんじゃねぇっ!」

 その上金まで払わせやがって! とカルロが怒鳴ると、すみませんでした! とマルコが直立不動で謝った。

「や、でもリチェルがお礼に何かしたいって言ったから……」
「金くらい払え!」
「だってお金もらうのいっつも朝じゃないですか。流石にリチェルも一回工房に寄ると思ってたんで」
「言い訳ばっかり……」

 すんな! とゲンコツが落ちた。痛ぇっ! とマルコが呻いて、頭を押さえてその場にうずくまる。

「あ、あのカルロさん! 私が頼んだのは本当なんです!」

 慌ててマルコのそばに行くと、リチェルは少し躊躇してマルコの頭にそっと手を伸ばす。

「冷たい布、とか……」
「いてて……いいよ慣れてるから。カルロさんのゲンコツ痛いんですよね。それでリチェル飯は?」
「マルコお前!」
「あ、もちろん先に先輩達に配りますよ! リチェル、カゴとって」
「だ・か・ら! 客人に世話をさせるなと──!」
「大丈夫です! 大丈夫ですカルロさん! 何かお役に立てるならそれだけで嬉しいです!」

 また握り拳を作ったカルロとマルコの間に立つと、リチェルは懸命に弁明する。その姿を見て、どこか毒気が抜かれたみたいにカルロは息をついた。

「……お前さん、母親にそっくりなのに中身は全く母親に似てないな。性格はミケ譲りか」
「え?」
「いや、こっちの話だ。全く、調子が狂うな……」

 そう言ってカルロが不器用にリチェルの頭を撫でる。
 持ち上げられた手に一瞬びっくりしたけれど、まるで壊れ物に触れるみたいにリチェルを撫でる手つきは優しくて、リチェルはキョトンとしてカルロを見上げた。

「そう言ってくれるなら、良かったらその朝食お前さんが配ってやってくれないか。お前のことは昨日の内に工房の連中には話してるから、ウロチョロしても誰も怒らねぇよ。心配しなくていい」

 そう言ってカルロはリチェルが持ってきた買い物かごを手渡してくれる。
 両手でそれを受け取って、仕事をしても良いと言ってくれたのだと理解する。それが嬉しくなって、リチェルはありがとうございます、と笑った。

「じゃあ、まずカルロさんに」
「おう、ありがとな」

 焼きたてだったからパンはまだホカホカしていた。
 二つばかり片手でパンをつまむと、カルロが『後でちゃんと金もらえよ』と笑う。言葉遣いは乱暴だが、カルロが優しいのはすぐに分かった。はい、と笑ってリチェルはまたカゴに布をかぶせる。

「リチェル! 案内してやるから来いよ」
「あ、はい!」

 袖に手を通しながら歩いていくマルコの後ろを慌ててついていく。その首回りが随分黒ずんでいるのが目に留まって、一体何日泊まり込んでいるのだろう、と少し心配になる。

「マルコさん、おうちに帰ってますか?」
「ん? たまに帰ってるよ」
「お洗濯、とか……」
「え、俺臭い⁉︎」
「ち、違うんです! でもお首回りが汚れているので……!」
「あー、洗濯出すの忘れちゃうんだよね。俺もたまに洗うんだけど、自分の着てるやつ脱がないじゃん。げ、今日当番俺だ」
「代わりにお洗濯しましょうか?」
「マジで⁉︎ やった!」

 嬉々としてマルコが上着を脱ごうとするので『ご飯を配り終わったらにしましょう』と慌てて止めた。

 それもそうか、とマルコは頷いて案内がてら、工房の職人達にリチェルを紹介してくれた。朝ご飯を順番に手渡しながら、古くからいる人ほどリチェルに対して優しい目線を向けるのを感じた。

 目に見えない決まり事を守るみたいに、誰も父のことを口にしなかったが、リチェルが挨拶をした時に一瞬表情が和らぐ。もちろんみんながカルロみたいではなく、ほとんど喋らない人もいたが、ぶっきらぼうでも不思議と冷たいとは感じなかった。

 それが何を意味しているのかは、深く考えなくても分かる。

 リチェルの父は、きっとこの工房のみんなに好かれていたのだ。
 だから娘であるリチェルにも、この工房の人たちは良くしてくれるのだ。

 そう考えると、胸の奥がじんと温まった。それが何だか、泣き出したいくらい嬉しくて──。

(ここにいられるのは短い期間だけど。せめてその間だけでも……)

 自分のできることを精一杯やろう、と心の底からそう思った。



   ◇



 ドナートの親方の手が空いて、ようやくリチェルが呼ばれたのは昼を回った頃だった。

「初めまして。リチェルと申します」

 父がお世話になっていた人だからと、いつもより丁寧に頭を下げる。
 先に聞いていた通り、親方は気難しさが顔に出ているような人だった。作業部屋に入ると、ニスの匂いと、かすかに新しい木の匂いがした。まだ弦も張られていない、表面が木のままのヴァイオリンが机の上に置かれている。

 ドナートは立ったままのリチェルを見て、椅子を顎でしゃくると、座んな、と短く言った。

「オルランド・ドナートだ。ここじゃみんな親方って呼ぶ」
「は、はい。えっと、オヤカタさん?」

 何と呼べばいいか迷ってそう呼ぶと、ドナートが『ドナートでいい』と素気なく告げる。

「はい、ドナートさん。あの、お忙しい中お時間を取っていただいてありがとうございます」

 椅子に腰を下ろして、もう一度頭を下げるとドナートはじっとリチェルを見て、目を細めた。

「……不思議なもんだ。まるで十六年前にころっと戻ったみたいだ」

 ドナートの言葉にキョトンとする。
 そう言えばカルロもリチェルの事を知っていたし、母親に似ていると言っていた。恐らくこの工房の人たちは母の事も知っているのだろうと思ってはいたが、ドナートの口ぶりからすると母もこの工房にいた事があるのだろうか。

「お前のその羽織ってるやつな」
「はい」

 返事をしてリチェルは肩にかけたショールをキュッと握る。

「お前の母親が残してったもんだ。大切なものだったらしいんだが、ミケの部屋に置いたままになってたんだよ」
「…………」

 どう言う事だろう、と思う。

 ドナートの言葉はある日リチェルの母親が急にいなくなったような、そんな言葉だ。どこから話したもんか、とドナートは口ごもる。

「リチェル、だったな。お前さん、どこまで父親のことを知ってる?」
「……あの、実はほとんど知らないんです」

 名前さえ知らなかった。
 孤児院に毎年寄付をしていてくれた事と、八年前に亡くなった事。それだけ先日聞いたのだとそう答えて、リチェルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 この工房の人たちは、きっと父のことを大事に思っていてくれたのに──。

 リチェルの告白に、ドナートは小さく『そうか』と呟いただけだった。

「じゃあまずは名前だな。お前の父親の名前はミケーレ。ミケーレ・パストーリ。この工房でヴァイオリンを作ってた。みんなミケって呼んでたよ」

 ドナートは淡々と事実だけを口にする。

「そして母親だな。母親の名前はリーゼロッテ。ミケはリゼルと呼んでいたな。だけどアイツの名前はここじゃずっと『リチェル』だった」
「え──?」

 驚きに目を見開く。
 と言うことは、あの時カルロがリチェルの名前を呼んだのは、娘であるリチェルの名を知っていたからではなく、リチェルの母親こそが同じ名前だったと言うことになる。どう言うことだろう、とリチェルは目を丸くする。

「お前さん、どのくらい知りたい? 正直お前さんにとって酷な内容も混ざる。ミケはもう死んでいて、リーゼロッテの行方は分からん。昔話を聞いたところで、何も得にならんぞ?」

 静かな声だった。だけどその声がとても真剣なのが分かった。

 だから安易に答えてはいけないと思って、リチェルはドナートの問いをもう一度自分に向かって問いかけ直す。

 自分のことを、知りたいのか?

(今までの、わたしなら……)

 きっと、知らなくても良いと思っていた。
 両親の存在はリチェルにとってはとても希薄だ。生まれた時からそばにおらず、名前も知らない。だけど──。

 きっと、リチェルは愛されていた。

 父はずっと孤児院に寄付をしてくれていて、この工房の人達はリチェルに優しい。カルロの反応を見る限りでは、きっと母も悪い印象を与えてはいないのだろう。

 だとしたら、自分を愛してくれた人達から目を背けることはしたくなかった。例えその中に、リチェルにとって不都合な事実があったとしても。

(だって、シスター・ロザリアの事だって、知れて良かったと思ったわ)

 全部知ってもリチェルは変わらずシスターに感謝をしている。彼女の愛情を信じている。むしろ知らなかった時より、ずっとずっとリチェルにとっては大事な人になった。

「……知りたい、です」

 だから、父と母のことも。
 自分をこの世界に生み出してくれた人達のことを。

 知らないから分からないではなく、知った上できちんと感謝をして、愛せるようになりたいとそう思う。

「教えてください」

 そう言って、リチェルは頭を下げる。
 ドナートは黙ってリチェルを見ていたが、やがてふっと息を吐くように呟いた。

「……長い話になる」

 そう前置きして、ドナートは両親のことを話し出した。
 
 元々話すのは得意でないのだろう。ドナートの声は低くかすれていて、聞き取り辛かった。だけど不思議とリチェルの耳はその声をよく拾った。静かな作業部屋の空気の中、ポツポツと空気に情景が落ちるみたいに思い出が広がっていく。

 ある日突然父が母を拾ってきたこと。
 母が良い家のお嬢様だったこと。
 器量の良い性格ですぐに工房に馴染み、この工房の人達みんなが母を愛してくれたこと。
 父と母が結ばれたこと。

 そして、母がリチェルを妊娠したこと──。





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