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第4章 RONDO-FINALE
op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(14)
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(あら……?)
その日リチェルがベッドのシーツを取り替えにイングリットの寝室へ行くと、ベッドにイングリットの姿が見当たらなかった。
新しいシーツを脇に抱えたままキョロキョロと部屋を見回す。執務室に行かれたのだろうか、と辺りを探すと、バルコニーに人影が見えた。
シーツを近くの椅子の背にかけて、奥に取って返すとすぐに厚手の上掛けを手にバルコニーへ向かう。
「奥様」
声をかけると、イングリットが振り向いた。失礼します、と声をかけて後ろから上掛けをかける。雪は降っていないものの、外は寒い。ハーゼンクレーヴァーの敷地は広大で風通りは良く、バルコニーも冷えた。
「お身体が冷えてしまいますから」
イングリットは小さく息をついて、だけどリチェルの手を拒む事はなかった。リチェルが持ってきた上掛けを羽織ると、また庭へと目を向ける。
ベッドから出ていると言うことは、少しは体調が良いのだろうか。本当は室内に戻って欲しいけれど、きっと思うところがあったのだろうとリチェルも後ろに下がって控えておくことにする。
「……部屋にリースを飾ったのはお前?」
不意に声をかけられて、リチェルはキョトンとする。だけどすぐにはい、と頷いた。ポインセチアで彩られたリースは上品で、主人の部屋に飾るには細やかなものだったが、クリスマスの訪れを感じるには十分だった。
「手配はエアハルト様がして下さいました。最近は日がささない事も多いので、少しでもお部屋に彩りがあると気持ちが明るくなる気がして。奥様も好きだったとうかがったのですが、お邪魔でしたか……?」
恐る恐る聞いてみる。
先日使用人から聞いた庭の飾りつけの話をエリーにしたら、そういえば昔は何だかんだで飾り付けてたなぁとエリーが言ったのだ。意外とそういうの好きなんだよねお祖母様、と笑いながら。
イングリットはため息をついたのみで、否定も肯定もしなかった。
「あの、お邪魔なら片付けます」
「……そのままで構いません」
やがてかすかな声でイングリットがそう答えた。その事にホッと胸を撫で下ろす。
リチェルがハーゼンクレーヴァーに入ってからもうすぐ三週間が経とうとしている。イングリットの態度は素っ気ないものの、最初の時ほどそばにいても追い出されなくなってきていた。
『だってリチェル様はお嬢様の実の娘なんですよ?』
不意にバルバラの言葉が蘇った。バルコニーに立つイングリットの後ろ姿は凛としている。背筋は真っ直ぐに伸びていて、一見すればとても病人には見えない。この方が自分と血のつながった家族なのだという事が、リチェルにとってはただ不思議だった。
リチェルだって、本当は何も感じない訳ではないのだ。
母と父を引き離したのも、ドナートの工房にいた人たちを傷つけたのも、目の前の人であるという事は分かっている。本来であればそれはきっと、バルバラが言うとおり怒ってもいい事なのだろう。だけどリチェルにはイングリットを嫌いになることは出来なかった。
(だって、奥様は冷たい人ではないわ)
イングリットに判断を仰ぎにきた人間の前で、彼女は毅然とした態度を崩さない。体調が優れなくても、イングリットは執務を優先した。一度本当に辛そうな時に、お休みになられた方が、とお伝えしたらイングリットは短く答えた。
『今必要でないものをエアハルトは上げてこない』
と。それはきっとエリーへの信頼からくる言葉だろう。
イングリットの態度は、その信頼を示すようだった。
彼女の厳しさは確かに冬を思わせるものだが、イングリットの行動には温度があった。分厚い雪の下、芽吹く命を抱く大地のように、彼女はいつだって何かを守っているようだった。
誰かを嫌うことを、憎むことを、リチェルはしないと決めている。だから目の前にいる人が尊敬できる人で、その人が家族だというなら尚更。
(元気になれるよう、お手伝いするだけだわ──)
リチェルに出来ることは元からそんなに多くないのだから。
「奥様。そろそろ中に入りましょう。冷たい風に当たりすぎると身体に良くありません」
リチェルが声をかけると、イングリットはチラリとこっちを見て、やがて身体の向きを変えた。
部屋への扉を開けて手を差し出すと、イングリットは冷えた手をリチェルの手に重ねて『嫌な季節ね』と呟いた。
「ただ寒いだけで、何も生まない。嫌われ者の季節だわ」
イングリットがそういった私的な言葉を出したのは初めてだった。同時にその言葉はどこか自嘲めいていて、咄嗟に『そうでしょうか?』とリチェルは返していた。
「冬には聖誕祭もあって、子どもたちが喜びます。冬の寒さがあるから、誰かの温もりを、暖炉の暖かさを、近くに感じられます」
そういえばシスター・ロザリアは厳しいところが冬のようだと言われていた事を思い出す。だけどリチェルにとってその厳しさは少しも厭うものではなかった。
「冬の厳しさは、春の喜びを育てるものだと、わたしはそう思います」
リチェルの言葉にイングリットは黙った。偉そうだっただろうか、と気付いた瞬間、イングリットが『そう』と短く答えた。
「お前は、そう思うのね──」
その声はどこか弱々しく、ここではないどこかを思うような声だった。
イングリットはそれ以上何も言わなかった。そのままイングリットがベッドへ戻ろうとしたタイミングで、リチェルは自分がシーツを取り替えにきたことをハッと思い出した。慌ててイングリットに説明すると、イングリットはかすかに笑って『早くなさい』と短く答えた。
その日リチェルがベッドのシーツを取り替えにイングリットの寝室へ行くと、ベッドにイングリットの姿が見当たらなかった。
新しいシーツを脇に抱えたままキョロキョロと部屋を見回す。執務室に行かれたのだろうか、と辺りを探すと、バルコニーに人影が見えた。
シーツを近くの椅子の背にかけて、奥に取って返すとすぐに厚手の上掛けを手にバルコニーへ向かう。
「奥様」
声をかけると、イングリットが振り向いた。失礼します、と声をかけて後ろから上掛けをかける。雪は降っていないものの、外は寒い。ハーゼンクレーヴァーの敷地は広大で風通りは良く、バルコニーも冷えた。
「お身体が冷えてしまいますから」
イングリットは小さく息をついて、だけどリチェルの手を拒む事はなかった。リチェルが持ってきた上掛けを羽織ると、また庭へと目を向ける。
ベッドから出ていると言うことは、少しは体調が良いのだろうか。本当は室内に戻って欲しいけれど、きっと思うところがあったのだろうとリチェルも後ろに下がって控えておくことにする。
「……部屋にリースを飾ったのはお前?」
不意に声をかけられて、リチェルはキョトンとする。だけどすぐにはい、と頷いた。ポインセチアで彩られたリースは上品で、主人の部屋に飾るには細やかなものだったが、クリスマスの訪れを感じるには十分だった。
「手配はエアハルト様がして下さいました。最近は日がささない事も多いので、少しでもお部屋に彩りがあると気持ちが明るくなる気がして。奥様も好きだったとうかがったのですが、お邪魔でしたか……?」
恐る恐る聞いてみる。
先日使用人から聞いた庭の飾りつけの話をエリーにしたら、そういえば昔は何だかんだで飾り付けてたなぁとエリーが言ったのだ。意外とそういうの好きなんだよねお祖母様、と笑いながら。
イングリットはため息をついたのみで、否定も肯定もしなかった。
「あの、お邪魔なら片付けます」
「……そのままで構いません」
やがてかすかな声でイングリットがそう答えた。その事にホッと胸を撫で下ろす。
リチェルがハーゼンクレーヴァーに入ってからもうすぐ三週間が経とうとしている。イングリットの態度は素っ気ないものの、最初の時ほどそばにいても追い出されなくなってきていた。
『だってリチェル様はお嬢様の実の娘なんですよ?』
不意にバルバラの言葉が蘇った。バルコニーに立つイングリットの後ろ姿は凛としている。背筋は真っ直ぐに伸びていて、一見すればとても病人には見えない。この方が自分と血のつながった家族なのだという事が、リチェルにとってはただ不思議だった。
リチェルだって、本当は何も感じない訳ではないのだ。
母と父を引き離したのも、ドナートの工房にいた人たちを傷つけたのも、目の前の人であるという事は分かっている。本来であればそれはきっと、バルバラが言うとおり怒ってもいい事なのだろう。だけどリチェルにはイングリットを嫌いになることは出来なかった。
(だって、奥様は冷たい人ではないわ)
イングリットに判断を仰ぎにきた人間の前で、彼女は毅然とした態度を崩さない。体調が優れなくても、イングリットは執務を優先した。一度本当に辛そうな時に、お休みになられた方が、とお伝えしたらイングリットは短く答えた。
『今必要でないものをエアハルトは上げてこない』
と。それはきっとエリーへの信頼からくる言葉だろう。
イングリットの態度は、その信頼を示すようだった。
彼女の厳しさは確かに冬を思わせるものだが、イングリットの行動には温度があった。分厚い雪の下、芽吹く命を抱く大地のように、彼女はいつだって何かを守っているようだった。
誰かを嫌うことを、憎むことを、リチェルはしないと決めている。だから目の前にいる人が尊敬できる人で、その人が家族だというなら尚更。
(元気になれるよう、お手伝いするだけだわ──)
リチェルに出来ることは元からそんなに多くないのだから。
「奥様。そろそろ中に入りましょう。冷たい風に当たりすぎると身体に良くありません」
リチェルが声をかけると、イングリットはチラリとこっちを見て、やがて身体の向きを変えた。
部屋への扉を開けて手を差し出すと、イングリットは冷えた手をリチェルの手に重ねて『嫌な季節ね』と呟いた。
「ただ寒いだけで、何も生まない。嫌われ者の季節だわ」
イングリットがそういった私的な言葉を出したのは初めてだった。同時にその言葉はどこか自嘲めいていて、咄嗟に『そうでしょうか?』とリチェルは返していた。
「冬には聖誕祭もあって、子どもたちが喜びます。冬の寒さがあるから、誰かの温もりを、暖炉の暖かさを、近くに感じられます」
そういえばシスター・ロザリアは厳しいところが冬のようだと言われていた事を思い出す。だけどリチェルにとってその厳しさは少しも厭うものではなかった。
「冬の厳しさは、春の喜びを育てるものだと、わたしはそう思います」
リチェルの言葉にイングリットは黙った。偉そうだっただろうか、と気付いた瞬間、イングリットが『そう』と短く答えた。
「お前は、そう思うのね──」
その声はどこか弱々しく、ここではないどこかを思うような声だった。
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