326 / 363
後日談 黛家の妊婦さん4
(186)今夜のメニューは
しおりを挟む
前話の続きです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シャワーを浴び終わった黛は、バスローブのフードで頭の水気を拭きながら扉を開けた。するとスパイシーな良い香りが漂って来る。
「カレー?」
香りは、七海が温めている鍋から立ち上っていた。
黛はキッチンに入ると、彼女の背後に歩み寄りピタリと体を寄せる。そうして、丸くせり出したお腹に手を這わせた。
キッチンのようなパブリックスペースで纏わり付いても、七海が眉をしかめることがないのは、龍一が不在だからだ。空気を読まずに我を通すのが常の黛だが、同居してそろそろ一年、恥ずかしがり屋の妻の機嫌を察する技を、少しづつ身に付けつつある。
「潜水艦のポークカレーなんだって」
「これも海軍カレー? 久し振りだな」
耳元の黛の声が、ワクワクと浮き上がって響く。お気に入りだった海軍カレーシリーズの登場を、黛も喜んでいるようだ。
一時期、唯の父親の影響で海軍カレーに嵌っていた七海だが、ネットに掲載されているレシピの中には簡単なものもあれば、手間のかかるものもある。材料を揃えるのが面倒で、お腹が大きくなってからは、暫く手の込んだメニューからは遠ざかっていたのだ。
「最近ネットに上がった新メニューらしいよ。唯が、おすそ分けしてくれたの」
「へー」
「うん、そろそろ良い感じ」
カレーが温まったのを見計らい、七海は鍋の火を落とした。カレー皿を取り出そうと、背後にある食器棚を振り返ろうとして、背中にぴったりと張り付く大きな障害物に視線を向ける。
「えーと……龍之介? ちょっと離れてくれる?」
黛がくっついたままでも全くできない、と言うほどのことも無いが、このままだとちょっとばかり作業がやりづらい。黛だってお腹が空いているだろう、出来る限り夕食を手早く提供した方が良い筈だ、と七海は考えた。
「なんで?」
だと言うのに、黛からはとぼけた回答が返って来た。
「……動きづらいです」
分かり切ったことを聞かれた七海が眉を顰めると、漸く黛は「なるほど」と頷いて、一歩離れてくれた。しかし一歩離れた場所で突っ立ったまま、開放された七海が食器を手に炊飯器からご飯をよそうのを、ニヤニヤして眺めている。
七海は少し気味悪く思ったものの、せっかくだからとカレーを盛りつけた皿を押し付けることにした。家事全般を放棄している黛だって、猫の手くらいには役に立つだろう。
「はい、これテーブルに運んでね」
するとカレー皿を受け取った夫は、神妙な表情で大人しくそれらを運び始めた。七海はその背中を見送ってから、既にガラスの器に盛り付けて冷蔵庫に入れて置いたサラダと、スプーンや箸、麦茶の入ったコップをお盆に載せて後に続いた。
「このサラダね、おばあちゃんのお手製なんだ。最近作り置きおかずを沢山作って持って来てくれるから、近頃全然、自分で料理してないの! 今日はメインのカレーも唯のお手製だし。もともと料理くらいしか家事してないのにね」
テーブルにカトラリーなどを並べながら、七海は自嘲気味に肩を竦めて見せる。産休中の専業主夫(仮)だと言うのに、唯一のちゃんとした『お仕事』である料理をする必要もなくなってしまえば、暇を持て余してしまう。ソファで縫物をしていたのは、そのためだ。手芸の得意な唯に手ほどきを受けて、赤ちゃん用のスタイ(よだれかけ)を縫っていたのだ。座って作業できるし時間を忘れて没頭できるので、思っていたよりなかなか楽しい。
ただ、手芸の類はこれまで家庭科の授業でしか経験して来なかった七海の縫い目は、唯の作った参考作品のものとは雲泥の差である。女子力の違いを思い知らされ、少々複雑な気分になるのだが……。
配膳を終えて席に着くと、既にカレー皿を運び終わって席に着いている黛が、再びニヤニヤとこちらを眺めているのに気が付いた。
どうも様子がおかしい。いや、これまで黛の行動や言動に対して理解が及ばず、微妙な気持ちにさせられることはよくあることだったが。最近は七海も慣れて(慣らされて?)来たのか、それほどおかしいと思うこともなくなって来たのだ。
「……あの……どうしたの?」
七海は思った。研修先が変わってから、黛は更に忙しくなった。睡眠時間も十分確保できない日もある。体も精神も、人一倍頑丈……と言うか鈍感に出来ている彼も、流石に追い詰められているのではないか、と。
先ほどから様子がおかしく感じるのは、そのせいではないか。ハードな仕事に従事する医師がうつ病にかかることも多いのだと、何かで目にしたことがある。唯我独尊、傍若無人が服を着ているような黛に限って……と他人事のように、その記事についてはスルーしてしまったが。
七海は俄かに夫の心の健康が、心配になって来た。
「ん?」
「……ニヤニヤして……何か変だよ?」
身を乗り出して真顔で問いかける妻に、黛はちょっと目を瞠って。
「いや……うん」
そしてちょっと照れくさそうに、笑った。
「こんな良い妻を持って、俺ってかなり幸せ者だなって。しみじみ思ってさ」
「……は……?」
七海の頭には、純粋な疑問符が浮かんだ。
今日の夕飯のメインは、唯からおすそ分けして貰ったカレーだ。付け合わせのサラダはお祖母ちゃんのお手製。つまり、夕食のメニューで唯一七海が作ったと胸を張って言えるのは―――コップに入った麦茶くらいのものだ。
更に言うと……ここ最近、お腹が重くて作る料理も手の掛からない煮込み系の料理くらい。黛に持たせるお弁当だって、ほぼお祖母ちゃんが最近定期的に届けてくれるおかずを詰めているだけ。これの何処が『良い妻』なのだろう?? と。
ポカンとしている七海を余所に、黛はウキウキと手を合わせた。
「じゃ、いただきまっす!」
「……あ、いただきます」
どうやら今のところ、七海の夫にうつ病の心配は無用らしい。
お腹を空かせた黛がガツガツとカレーとサラダを平らげるのを、何だか腑に落ちない気持ちで眺めつつ、七海はちょっとホッとしたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
補足:七海が察することのできなかった黛の思考回路を解説します。
「やっぱりウチってホッとするな! それもこれも七海が家にいるからだな……!」
「周りが心配して料理を持って来てくれるなんて、しかもそれで料理をしなくても夕食が揃っちゃうなんて―――七海の人徳だな! その恩恵にあずかれる俺って、やっぱ幸せ者だな……!」
「俺の嫁、最高……!」
興味の無い女子に纏わり付かれて疲れた後なので、しみじみと染み入るように実感しているところです。
今回もオチヤマなしのノロケ話でスミマセン(;´∀`)
お読みいただき、誠にありがとうございました!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シャワーを浴び終わった黛は、バスローブのフードで頭の水気を拭きながら扉を開けた。するとスパイシーな良い香りが漂って来る。
「カレー?」
香りは、七海が温めている鍋から立ち上っていた。
黛はキッチンに入ると、彼女の背後に歩み寄りピタリと体を寄せる。そうして、丸くせり出したお腹に手を這わせた。
キッチンのようなパブリックスペースで纏わり付いても、七海が眉をしかめることがないのは、龍一が不在だからだ。空気を読まずに我を通すのが常の黛だが、同居してそろそろ一年、恥ずかしがり屋の妻の機嫌を察する技を、少しづつ身に付けつつある。
「潜水艦のポークカレーなんだって」
「これも海軍カレー? 久し振りだな」
耳元の黛の声が、ワクワクと浮き上がって響く。お気に入りだった海軍カレーシリーズの登場を、黛も喜んでいるようだ。
一時期、唯の父親の影響で海軍カレーに嵌っていた七海だが、ネットに掲載されているレシピの中には簡単なものもあれば、手間のかかるものもある。材料を揃えるのが面倒で、お腹が大きくなってからは、暫く手の込んだメニューからは遠ざかっていたのだ。
「最近ネットに上がった新メニューらしいよ。唯が、おすそ分けしてくれたの」
「へー」
「うん、そろそろ良い感じ」
カレーが温まったのを見計らい、七海は鍋の火を落とした。カレー皿を取り出そうと、背後にある食器棚を振り返ろうとして、背中にぴったりと張り付く大きな障害物に視線を向ける。
「えーと……龍之介? ちょっと離れてくれる?」
黛がくっついたままでも全くできない、と言うほどのことも無いが、このままだとちょっとばかり作業がやりづらい。黛だってお腹が空いているだろう、出来る限り夕食を手早く提供した方が良い筈だ、と七海は考えた。
「なんで?」
だと言うのに、黛からはとぼけた回答が返って来た。
「……動きづらいです」
分かり切ったことを聞かれた七海が眉を顰めると、漸く黛は「なるほど」と頷いて、一歩離れてくれた。しかし一歩離れた場所で突っ立ったまま、開放された七海が食器を手に炊飯器からご飯をよそうのを、ニヤニヤして眺めている。
七海は少し気味悪く思ったものの、せっかくだからとカレーを盛りつけた皿を押し付けることにした。家事全般を放棄している黛だって、猫の手くらいには役に立つだろう。
「はい、これテーブルに運んでね」
するとカレー皿を受け取った夫は、神妙な表情で大人しくそれらを運び始めた。七海はその背中を見送ってから、既にガラスの器に盛り付けて冷蔵庫に入れて置いたサラダと、スプーンや箸、麦茶の入ったコップをお盆に載せて後に続いた。
「このサラダね、おばあちゃんのお手製なんだ。最近作り置きおかずを沢山作って持って来てくれるから、近頃全然、自分で料理してないの! 今日はメインのカレーも唯のお手製だし。もともと料理くらいしか家事してないのにね」
テーブルにカトラリーなどを並べながら、七海は自嘲気味に肩を竦めて見せる。産休中の専業主夫(仮)だと言うのに、唯一のちゃんとした『お仕事』である料理をする必要もなくなってしまえば、暇を持て余してしまう。ソファで縫物をしていたのは、そのためだ。手芸の得意な唯に手ほどきを受けて、赤ちゃん用のスタイ(よだれかけ)を縫っていたのだ。座って作業できるし時間を忘れて没頭できるので、思っていたよりなかなか楽しい。
ただ、手芸の類はこれまで家庭科の授業でしか経験して来なかった七海の縫い目は、唯の作った参考作品のものとは雲泥の差である。女子力の違いを思い知らされ、少々複雑な気分になるのだが……。
配膳を終えて席に着くと、既にカレー皿を運び終わって席に着いている黛が、再びニヤニヤとこちらを眺めているのに気が付いた。
どうも様子がおかしい。いや、これまで黛の行動や言動に対して理解が及ばず、微妙な気持ちにさせられることはよくあることだったが。最近は七海も慣れて(慣らされて?)来たのか、それほどおかしいと思うこともなくなって来たのだ。
「……あの……どうしたの?」
七海は思った。研修先が変わってから、黛は更に忙しくなった。睡眠時間も十分確保できない日もある。体も精神も、人一倍頑丈……と言うか鈍感に出来ている彼も、流石に追い詰められているのではないか、と。
先ほどから様子がおかしく感じるのは、そのせいではないか。ハードな仕事に従事する医師がうつ病にかかることも多いのだと、何かで目にしたことがある。唯我独尊、傍若無人が服を着ているような黛に限って……と他人事のように、その記事についてはスルーしてしまったが。
七海は俄かに夫の心の健康が、心配になって来た。
「ん?」
「……ニヤニヤして……何か変だよ?」
身を乗り出して真顔で問いかける妻に、黛はちょっと目を瞠って。
「いや……うん」
そしてちょっと照れくさそうに、笑った。
「こんな良い妻を持って、俺ってかなり幸せ者だなって。しみじみ思ってさ」
「……は……?」
七海の頭には、純粋な疑問符が浮かんだ。
今日の夕飯のメインは、唯からおすそ分けして貰ったカレーだ。付け合わせのサラダはお祖母ちゃんのお手製。つまり、夕食のメニューで唯一七海が作ったと胸を張って言えるのは―――コップに入った麦茶くらいのものだ。
更に言うと……ここ最近、お腹が重くて作る料理も手の掛からない煮込み系の料理くらい。黛に持たせるお弁当だって、ほぼお祖母ちゃんが最近定期的に届けてくれるおかずを詰めているだけ。これの何処が『良い妻』なのだろう?? と。
ポカンとしている七海を余所に、黛はウキウキと手を合わせた。
「じゃ、いただきまっす!」
「……あ、いただきます」
どうやら今のところ、七海の夫にうつ病の心配は無用らしい。
お腹を空かせた黛がガツガツとカレーとサラダを平らげるのを、何だか腑に落ちない気持ちで眺めつつ、七海はちょっとホッとしたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
補足:七海が察することのできなかった黛の思考回路を解説します。
「やっぱりウチってホッとするな! それもこれも七海が家にいるからだな……!」
「周りが心配して料理を持って来てくれるなんて、しかもそれで料理をしなくても夕食が揃っちゃうなんて―――七海の人徳だな! その恩恵にあずかれる俺って、やっぱ幸せ者だな……!」
「俺の嫁、最高……!」
興味の無い女子に纏わり付かれて疲れた後なので、しみじみと染み入るように実感しているところです。
今回もオチヤマなしのノロケ話でスミマセン(;´∀`)
お読みいただき、誠にありがとうございました!
40
あなたにおすすめの小説
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
【完結】 メイドをお手つきにした夫に、「お前妻として、クビな」で実の子供と追い出され、婚約破棄です。
BBやっこ
恋愛
侯爵家で、当時の当主様から見出され婚約。結婚したメイヤー・クルール。子爵令嬢次女にしては、玉の輿だろう。まあ、肝心のお相手とは心が通ったことはなかったけど。
父親に決められた婚約者が気に入らない。その奔放な性格と評された男は、私と子供を追い出した!
メイドに手を出す当主なんて、要らないですよ!
【完結】 私を忌み嫌って義妹を贔屓したいのなら、家を出て行くのでお好きにしてください
ゆうき
恋愛
苦しむ民を救う使命を持つ、国のお抱えの聖女でありながら、悪魔の子と呼ばれて忌み嫌われている者が持つ、赤い目を持っているせいで、民に恐れられ、陰口を叩かれ、家族には忌み嫌われて劣悪な環境に置かれている少女、サーシャはある日、義妹が屋敷にやってきたことをきっかけに、聖女の座と婚約者を義妹に奪われてしまった。
義父は義妹を贔屓し、なにを言っても聞き入れてもらえない。これでは聖女としての使命も、幼い頃にとある男の子と交わした誓いも果たせない……そう思ったサーシャは、誰にも言わずに外の世界に飛び出した。
外の世界に出てから間もなく、サーシャも知っている、とある家からの捜索願が出されていたことを知ったサーシャは、急いでその家に向かうと、その家のご子息様に迎えられた。
彼とは何度か社交界で顔を合わせていたが、なぜかサーシャにだけは冷たかった。なのに、出会うなりサーシャのことを抱きしめて、衝撃の一言を口にする。
「おお、サーシャ! 我が愛しの人よ!」
――これは一人の少女が、溺愛されながらも、聖女の使命と大切な人との誓いを果たすために奮闘しながら、愛を育む物語。
⭐︎小説家になろう様にも投稿されています⭐︎
妹がいなくなった
アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。
メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。
お父様とお母様の泣き声が聞こえる。
「うるさくて寝ていられないわ」
妹は我が家の宝。
お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。
妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる