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1巻
1-2
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真宮部長は紺のピンストライプのスーツに薄い青のシャツ、斜めストライプのネクタイがいかにもエグゼクティブという雰囲気を醸し出しており、理知的な彼に似合っていた。彼もまた女性の注目を浴びていた。
目が合ったので、軽く会釈をする。
彼も目で挨拶してくれた。
「葉月も綺麗になったなぁ。そろそろ結婚してもいい年頃だな」
私をしげしげ見ていたお祖父様のいきなりの言葉に、微笑みが引き攣った。
今のところ、婚約者候補は一柳さんしか聞いていない。
(ということは……)
隣では一柳さんが笑みを深めた。
「水鳥川会長、ご無沙汰しております。肇社長はこの間ぶりですね」
「あぁ、一柳くん、久しぶりだな。相変わらず、世間を賑わしているな」
「賑わすつもりはないのですが、僕がなにかするとすぐ騒がれちゃうんですよね」
一柳さんはハハッと朗らかに笑った。
彼は大胆な企業戦略と発言でしばしばワイドショーや週刊誌で取り上げられている。女性問題もチラホラ聞く。堅実経営をしていたお祖父様はあまり一柳さんとは合わないようだけど、お父様とは仲がいいらしい。
「ちょうどいい。紹介しよう。今度うちに来てもらった真宮理人くんだ。とても優秀で、シルバーブレインから引き抜いたばかりでな。葉月の相手にいいかと思っているんだ」
さらりとお祖父様が言って、一柳さんは目を剥き、私は目を瞬いた。今日はお祖父様に驚かされてばかりだ。
(真宮部長が……?)
「でも、婚約者は僕では……⁉」
チラリとお父様の顔を見て、一柳さんはお祖父様に詰め寄るような素振りを見せた。
「君も婚約者候補ではあるが、真宮くんも候補だ」
お祖父様はそっけなく返して、私にそのつもりでいるようにと言った。
お父様も真宮部長も黙っていたので、承知しているらしい。
(最初からそういうことだったの……?)
真宮部長が親しげだったのも、気を遣ってくれたのも、アシスタントに使ってくれたのも?
なんだかもやもやとした気分になる。
結局、真宮部長も私の立場が目当てだったのかしら。
それでも、逆らうという選択肢はないので、私は「わかりました」とうなずいた。
横から舌打ちするような音が聞こえた気がしたけど、ぼんやりしてしまって、その後の会話は耳に入らなかった。
いつものパーティーが始まって、お祖父様、お父様の挨拶から来賓の挨拶と続き、私はその側で微笑み続けた。
歓談の時間になると、お祖父様とお父様のもとには、挨拶の列が続いた。
私は少し離れたところで、時折挨拶してくる人に応えていた。
パーティーも終盤近くなり、真宮部長がやってきた。お皿を二枚持っている。
「どうせお嬢様のことだから、なにも食べてないんじゃないか? これうまいぞ?」
そう言って、渡されたお皿にはローストビーフが乗っていた。
「ありがとうございます」
お礼は言ったものの、先程のことがあるから、素直に顔が見られない。
真宮部長はなんとも思っていないようで、いつもの調子で普通に話し続ける。
「それにしても、毎年こんなに盛大にやっているのか? 金あるなぁ」
「そうですね。もうずっと毎年ここでやっている恒例行事です」
「そんなところのお嬢様やってるのも大変だな」
なにげなく言われて、驚いた。
うらやましがられたり、やっかまれたりすることはあっても、大変だと言われたことはなかったから。
(でも、この人は水鳥川興産の社長になりたいのよね……)
彼の言葉をまともに受け取ることはないと思った。
「あ、デザートが出てきた。取りに行かないか? ここのスイーツは美味しいって噂だから、楽しみにしていたんだ」
「真宮部長は甘党なんですか?」
この間の秘蔵のチョコといい、デザートを見て頬を緩める様子といい、信用ならないと思ったばかりなのに、つい可愛らしいと思ってしまう。
「いや、甘いのも辛いのもいける。うまいものが好きなんだ。しかも、無料だ!」
それがこの人の作戦かも、と思うのに、超エリートで高給取りの人とは思えない無邪気な発言に、思わずクスッと笑ってしまった。
真宮部長に連れられて、初めてビュッフェコーナーに行った。
カラフルなマカロンとプチシュー、チョコレートの粒に彩られたプレートに、小さなグラスに入っているパフェやゼリー、一口サイズのタルトにミニケーキが乗っているプレート。
目にも美味しそうなスイーツの数々に心が躍る。
私も実はケーキに目がない。
ガトーショコラにショートケーキ、ティラミスにストロベリータルト、キャラメルムース……こんなにあると目移りしてしまうわ。
人目がなければ、全部制覇したいところだった。
「もしかして、お嬢様も甘党か? 今まで見た中で、一番うれしそうな顔してる」
そう言われて、慌てて表情を整えた。
(そんなにわかりやすかったかしら?)
「どれがいいんだ? 取ってやるぞ?」
「だ、大丈夫です! 自分で取りますから」
部長にそんなことはさせられないと、急いでお皿を取った。
悩んだ末、ミニケーキを四つ取る。
真宮部長はほぼ全種類をお皿に乗せていて、ついうらやましげに見てしまう。
「欲しかったら、取ればいいのに。お嬢様は遠慮がちだな。欲しいものは欲しいって言えよ」
そう言われて、もう一つだけケーキをお皿に乗せた。
真宮部長はそれをおもしろそうに眺めていたけど、今度はなにも言わなかった。そして、ミニケーキを大きな一口で食べて、満足そうに笑みを浮かべた。
私もつられて、まずショートケーキを口に入れた。繊細なスポンジが、ふわっと軽い生クリームと共に口の中でとろける。そこに苺の甘酸っぱさが加わり、絶妙な美味しさだった。
(今までこれを食べ逃していたなんて……)
ケーキのひとつひとつが職人技の冴え渡る上質な味わいで、至福のケーキに舌鼓を打って、ひととき自分の立場を忘れた。
「ご歓談中ではございますが……」
司会者の言葉に、はっと我に返る。
「私、戻りますね」
お皿をテーブルに置くと、急いで主催者側の場所へ戻った。
◇◆
パーティーが終わり、てっきりいつものようにお父様と一緒に帰るものだと思っていたら、「寄るところがあるからお前はタクシーで帰りなさい」と言われた。
お祖父様とお父様に挨拶をして、パーティー会場を出たところで、一柳さんに捕まった。
「葉月さん、ちょっとこっちに来てくれる?」
呼ばれて近寄ると、いきなり肩に手を回されて、出口と反対方向に引っ張られる。
そのなれなれしい様子に不快感を覚える。
ひとつ廊下の角を曲がっただけで、人気のない場所になり、ゾワッとした。
身じろぎをして彼の腕を外し、距離を取ろうとすると、今度は腕を掴まれ、体を引き寄せられた。
「ちょっと話があるんだ」
「なんですか? 手を離してください。話ならロビーで……」
「内密な話だから」
ニヤリと笑った一柳さんはそう言って、そばの部屋に連れ込もうとした。
内密な話だとしても、こんなふうに強引に誰もいない部屋に連れ込まれるのは嫌だ。
身の危険を感じて、足を踏ん張り、「離してください! 声をあげますよ⁉」と強めの口調で言い、睨む。それでも、一柳さんは怯むことなく、嫌な笑みを深めた。
「婚約者なんだからいいだろ? 肇社長も了承済みだよ」
「え……」
そう言われて、力が抜けそうになる。
(お父様が……⁉)
お父様は一柳さんを気に入っているけど、真宮部長を気に入っている様子ではなかった。
むしろ、お祖父様が推しているから気に入らないのかもしれない。お祖父様とお父様は表面上にこやかにしていても、しばしば対立しているのを知っている。お祖父様の推す真宮部長が婚約者に決まったらやりにくいから、こういう強引な手に出たのかもしれない。
実の父親に道具のように使われて、わかってはいたけれど、胸に悲しみが広がる。
「誰か……!」
大声をあげようとしたら、口を塞がれた。首を振ってもその手を外すことはできず、私は必死で抵抗しながら、誰かが通りかかるのを祈った。
ジリジリと部屋の中に引っ張られる。
(もうダメ……)
力の限界を感じてあきらめかけたとき、ふいに後ろから別の誰かの手が腰に回ってきて、グイッと引き戻された。
同時に、その人の手が一柳さんの腕を掴み、私から引き剥がす。
「婚約者だろうとなんだろうと、嫌がる女性に手を出すのは犯罪だ」
最近、聞き馴染んできた声が硬く冷たく頭の上から降ってきた。
見上げると、真宮部長だった。
私は彼の胸に守られるように、腕の中に収まっていた。
「お前には関係ないだろ! 僕と彼女の問題だ!」
「彼女は俺の大事な部下だ。それに俺はあんたと同じ婚約者候補だって紹介されただろ? 関係おおありだ」
「でも、僕は肇社長の公認だ!」
頭が真っ白になっていた私は、その言葉で混乱から覚めた。
(一柳さんとは絶対イヤッ!)
気がつくと口が動いていた。
「私、決めました! 真宮部長を婚約者にします! だから、あなたはもう私とは無関係です」
「なっ……。そんなことは勝手に決められないはずだ!」
「お祖父様にお願いします。今のことを言われたくなかったら、もう私に関わらないでください!」
一柳さんはグッと黙り込んだ後、ギロッと凄まじい視線で私を睨んで、プイッと去っていった。
(よかった……)
その後ろ姿を見て、ほっとして足が崩れ落ちそうになる。
「おっと」
真宮部長が私を抱え直し、へたり込みそうな体を支えてくれた。
彼のシャツに縋った手が震えている。
「大丈夫か?」
真宮部長は落ち着かせるように私の背中をポンポンと叩いてくれ、顔を覗き込んできた。いつもは鋭い眼光が心配そうな色に染められている。
泣きそうな気持ちを抑え、小さくうなずいた。
それでも、真宮部長はしばらくそのままで、髪や背中を撫でてくれていた。
手の震えが治まって、気が鎮まってくると、今の状態がとても恥ずかしくなってきた。
「真宮部長、もう大丈夫です。ありがとうございました」
力が抜けそうになる足をなだめ、そっと身を離すと、頭を下げる。そのまま視線が上げられない。
(勝手なことを言っちゃった。部長はなんて思ったかしら……)
思わず口走ってしまった言葉が、思い切りこの人を巻き込んでしまったことに気づき、うろたえる。
「お嬢様もなにかと大変だな」
労るような眼差しに涙が出そうになる。
でも、これもこの人の思惑通りなのかしら? そんなことも思ってしまう――
「それで、さっきの話だが……」
「ごめんなさい! 勝手なことを言ってしまって。でも、あの……」
ここで前言を翻せば、一柳さんがまた近づいてくる。今度はもっと悪質な手を使ってきそうだから、それは絶対に避けたい。
真宮部長に、しばらくは婚約者のふりをしてもらわないと!
そう思い、彼に頼み込もうとしたとき、逆に提案された。
「場所を変えないか? ここで話す内容でもないだろ?」
「はい。そうですね」
「ここは俺の家が近いんだが、来るか?」
確かに、ホテルのロビーや喫茶店で話す内容ではない。
私は即座にうなずいた。
真宮部長の家は、確かに近くて、タクシーで十分もかからなかった。
着いたそこは、都心だけど、落ち着いた界隈の低層マンション。
オートロックを解除して、招き入れられる。
彼の部屋は広いものの2DKで、外資系エリートに持つイメージよりシンプルな気がした。全体的に物も少ない。
なんとなく湾岸のタワーマンションに住んでいるイメージだったのに。
でも、いきなり来た割に部屋は片づいていて、彼のきちんとした性格を窺わせた。少しだけ彼の香りがして、一人暮らしの男の人の部屋に来たと改めて感じ、ドキリとする。
「庶民的で悪いな。タワマンも勧められたけど、あれって少しの風でむちゃくちゃ揺れるし、バカ高いし、俺には合わないって思ってな」
私がそれとなく部屋を見ていると、真宮部長はそう言った。心を読まれたようで驚いた。イメージと違うと言われ慣れているのかもしれない。
(誰に……?)
つい女の人の影を想像してしまって、首を振る。
(私には関係ないわ。今から頼もうとしていることには関係ない)
なんとしても、真宮部長に婚約者のふりをしてもらわなきゃ。
そのためにはこの人を説得しなければならない。
緊張している私を横目に、部長は自然な様子でジャケットをハンガーにかけて、ネクタイを取った。
「まぁ、座れよ。麦茶でも飲むか?」
「麦茶?」
「あぁ、俺が好きなんだ。コーヒーもあるがそっちがいいか?」
「麦茶でいいです」
彼はうなずくと、冷蔵庫から瓶に入った麦茶を出してグラスに注いだ。
ペットボトルかと思ったのに、自分で作っているのかなと思うと微笑ましくなった。少し肩の力が抜ける。
真宮部長はテーブルにグラスをふたつ置くと、私が座っている二人がけのソファーに座った。
この人と並んで座ることは今までなくて、その近さに心臓が騒いだ。
「それで?」
その近い距離で、彼は私を見た。
私は息を吸い込むと、息を吐く勢いで思い切って言った。
「部長、私と婚約していただけないでしょうか?」
私の言葉に、真宮部長は片眉を上げて、おもしろがるような表情をした。
「まず、部長はやめてくれ。プライベートに仕事を持ち込みたくない」
「すみません。では、真宮さん、お願いします」
「婚約者の割に硬くないか?」
頭を下げてお願いする私に対し、真宮さんはソファーの背に肘をついて、頬杖をついた。
より顔が近くなる。
「じゃあ、引き受けてくれるんですか!? ……理人さん?」
「んー、俺は候補っていうからとりあえず受けただけで、まだ人生を決めることは考えてないんだけど、お嬢様?」
にやっと笑って、真み……理人さんは言った。
そう言われて、肝心なことを言っていないのに気づく。
「違うんです! 本物の婚約者じゃなくて、仮の……そう、契約の婚約者になってほしくて……」
「契約?」
理人さんはさして驚いた様子もなく、ニヤニヤと言葉を繰り返す。自宅にいるせいか、仕事を離れたせいか、理人さんの態度はいつもよりくだけていて、不遜だ。
「私、一柳さんとは絶対に結婚したくないんです。だから、理人さんに仮の婚約者になってもらって時間を稼いで、本当の結婚相手を探したいと思うんです」
「まぁ、あいつと結婚して幸せになれる気はしないな」
共感が得られて、ほっとする。
気がつくと膝で握っていた手が震えていた。
「それじゃあ……」
「期間は?」
「え、えっと、一年でどうでしょう?」
「婚約者って発表するのか?」
「大々的にはちょっと難しいかもしれません。非公式の婚約者という扱いになると思います。私も相手を探すのに不便になるので」
「俺のメリットは?」
次々と質問されて、あまり細かくは考えてなかった私は口ごもる。
(でも、引き受けてもらわないと!)
追い詰められていた私は柄にもなく、挑むように理人さんに言った。
「私の婚約者という立場を最大限に利用すればいいです。理人さんもなにか目的があって、私の婚約者候補になったんでしょ?」
私の婚約者候補として入社してきた割には、私を口説くでもなく、「仮の婚約者」と言われて困る様子もない。つまり、理人さんは私と本当に結婚したいわけではなさそうだ。そこを押すしかないと思った。
私の言葉に理人さんはフッと笑った。
「お嬢様は内気なのか大胆なのか、わからないな」
考え込むように私を見て、理人さんは首を傾げる。
「そうだな……確かに、俺も調べたいことがあって水鳥川興産に就職したから、都合はいいかもな」
調べたいこと?
疑問に思ったものの、ひとまず了承が得られそうで、私は期待を込めて理人さんを見つめる。
でも、彼は意地悪そうな表情を浮かべて、さらに質問してきた。
「婚約となると、その間、女遊びもできないなぁ。あんたが相手してくれるのか?」
思いもよらない質問に息を呑んだ。
(女遊び……。それって、体を要求しているの?)
有能な上司と思っていた人から出た言葉とは思えない。
それとも、いつものようにからかわれているの?
どちらにしても、私の結婚は政略結婚にしかならない。どうせ愛のない人とそういうことをするのだから、初めては、少しでも嫌じゃない人がいい。
そう思い、私はうなずいた。
「お望みなら」
そんな答えが返ってくるとは思わなかったみたいで、理人さんは目を丸くした。常に余裕そうな彼の表情を崩したことで、ちょっと胸がすく。
「意外と度胸あるよな、お嬢様?」
理人さんはそう言って、黙考した。その後、すっと視線を上げ、私の目を見つめた。
「よし、契約成立だ。その証に抱かせろよ、お嬢様?」
彼はその整った顔をニッと崩して笑い、私の唇を奪った。
そのあまりに流れるような動作に、私は身動きひとつできなかった。そんなふうに笑うとまるでイタズラっ子のようだとぼんやり思う。完璧な上司の、魅惑的な男の顔――
彼の少し冷たい唇は、もう一度戻ってきて、私の思考を攫う。
やわらかいそれが、私の唇を挟むように動いたかと思うと、にゅるりと熱い舌が入ってきた。
キスしたのも初めてなのに、こんなのどうしていいのかわからず、私は固まった。
私の反応に構わず、彼の舌は好き勝手に私の口の中を探り、上顎をくすぐるように擦った。
ずくん、と感じたことのない感覚が生まれて、私は喘ぐ。
縋るように彼の腕を掴んでしまった。
少し顔を離した理人さんは湿った唇を指で拭って、私を見下ろす。
切れ長で鋭い目が検分するように私を見ている。
鋭く見えるのは、長くまっすぐ生えた睫毛が目の輪郭を濃く縁取っていて、目を酷使した後のようなクマがあるからかもしれない。
それでも、魅力的なその顔は、彼が通るだけで女性がざわめくほどで、彼と結婚したいという女の人なんて星の数ほどいそう――
(それなのに、なぜ私の契約を受けてくれたのかしら?)
そんな私の疑問も、理人さんが耳もとに唇を寄せてからは、まともに考えられなくなった。
「葉月……」
ささやく声に、初めて名前を呼ばれた。
首筋にキスしながら、私の後頭部に手を這わせた彼は、髪をまとめているピンの存在に気づいて、ひとつひとつ外していった。
その手つきは丁寧で、パサリパサリと髪が流れるように落ちてくる。
全部ピンが外れると、理人さんは唇を離して、私を見た。
私の髪を手で梳くように広げ、髪が手から流れ落ちていく様子を楽しんでいる。
「綺麗な髪だな」
そうつぶやかれて、胸がキュッとなる。
(そんなリップサービスいらないのに……)
手を引かれ、スマートに寝室に誘導され、ベッドに押し倒された。
私の真上にシャープな彼の顔が見える。
ちょっと長めの前髪が垂れて、私にかかりそうな距離。
「葉月……」
色気の滴る声で、もう一度、名前を呼ばれた。
とくんと鼓動が乱れた。
耳に口づけられ、耳殻を食まれて、首を竦める。その首もとにも舌を這わされる。
「ん、やぁっ」
くすぐったいような逃げ出したいような感覚に、自然に鼻にかかったような甘ったるい声が洩れる。
それが合図のように、彼の手まで動き出し、私の体の線を撫でた。その手つきは優しく、大事なものに触れるようで、そんなふうにされると、私の体になにか価値があるかのように思えてくる。
(心がないなら、乱暴にしてくれてもいいのに)
かえって切なくなって、心の中で文句をつけた。
理人さんは何度も首もとに口づけていたかと思ったら、ふいにそこに顔を埋めて、「くっ、くくっ、あはは」と笑い出した。
呆気にとられた私は、彼の震える背中を見つめることしかできない。
ひとしきり笑った後、理人さんは顔を上げて、至近距離から私を見た。
強い眼差しが私を射抜く。
「お嬢様の覚悟を知りたかっただけなのに、全然止めないんだな」
「えっ?」
「止めないどころか、あまりに色っぽい顔をするから、その気になっちまったじゃないか。責任取れよ、葉月。俺は据え膳は食うたちだ」
そう言うと、彼は噛みつくようなキスをした。
先ほどよりも乱暴に口の中を探られ、深く舌を絡められる。そうしながら、理人さんは私のドレスを脱がせ、器用に自分の服も脱いでいく。
そういえば、ずっと服を着たままだった。
(どういうこと? 本当はする気がなかったってこと? どこかで止めればよかったの? どこで? キスされたところで? 寝室に連れてこられたとき?)
混乱のまま、疑問でいっぱいのまま、口を吸われ、ブラを外され、ショーツを脱がされる。
そして、結局、もう手遅れで、この人を本気にさせてしまったことに気がついた。
目が合ったので、軽く会釈をする。
彼も目で挨拶してくれた。
「葉月も綺麗になったなぁ。そろそろ結婚してもいい年頃だな」
私をしげしげ見ていたお祖父様のいきなりの言葉に、微笑みが引き攣った。
今のところ、婚約者候補は一柳さんしか聞いていない。
(ということは……)
隣では一柳さんが笑みを深めた。
「水鳥川会長、ご無沙汰しております。肇社長はこの間ぶりですね」
「あぁ、一柳くん、久しぶりだな。相変わらず、世間を賑わしているな」
「賑わすつもりはないのですが、僕がなにかするとすぐ騒がれちゃうんですよね」
一柳さんはハハッと朗らかに笑った。
彼は大胆な企業戦略と発言でしばしばワイドショーや週刊誌で取り上げられている。女性問題もチラホラ聞く。堅実経営をしていたお祖父様はあまり一柳さんとは合わないようだけど、お父様とは仲がいいらしい。
「ちょうどいい。紹介しよう。今度うちに来てもらった真宮理人くんだ。とても優秀で、シルバーブレインから引き抜いたばかりでな。葉月の相手にいいかと思っているんだ」
さらりとお祖父様が言って、一柳さんは目を剥き、私は目を瞬いた。今日はお祖父様に驚かされてばかりだ。
(真宮部長が……?)
「でも、婚約者は僕では……⁉」
チラリとお父様の顔を見て、一柳さんはお祖父様に詰め寄るような素振りを見せた。
「君も婚約者候補ではあるが、真宮くんも候補だ」
お祖父様はそっけなく返して、私にそのつもりでいるようにと言った。
お父様も真宮部長も黙っていたので、承知しているらしい。
(最初からそういうことだったの……?)
真宮部長が親しげだったのも、気を遣ってくれたのも、アシスタントに使ってくれたのも?
なんだかもやもやとした気分になる。
結局、真宮部長も私の立場が目当てだったのかしら。
それでも、逆らうという選択肢はないので、私は「わかりました」とうなずいた。
横から舌打ちするような音が聞こえた気がしたけど、ぼんやりしてしまって、その後の会話は耳に入らなかった。
いつものパーティーが始まって、お祖父様、お父様の挨拶から来賓の挨拶と続き、私はその側で微笑み続けた。
歓談の時間になると、お祖父様とお父様のもとには、挨拶の列が続いた。
私は少し離れたところで、時折挨拶してくる人に応えていた。
パーティーも終盤近くなり、真宮部長がやってきた。お皿を二枚持っている。
「どうせお嬢様のことだから、なにも食べてないんじゃないか? これうまいぞ?」
そう言って、渡されたお皿にはローストビーフが乗っていた。
「ありがとうございます」
お礼は言ったものの、先程のことがあるから、素直に顔が見られない。
真宮部長はなんとも思っていないようで、いつもの調子で普通に話し続ける。
「それにしても、毎年こんなに盛大にやっているのか? 金あるなぁ」
「そうですね。もうずっと毎年ここでやっている恒例行事です」
「そんなところのお嬢様やってるのも大変だな」
なにげなく言われて、驚いた。
うらやましがられたり、やっかまれたりすることはあっても、大変だと言われたことはなかったから。
(でも、この人は水鳥川興産の社長になりたいのよね……)
彼の言葉をまともに受け取ることはないと思った。
「あ、デザートが出てきた。取りに行かないか? ここのスイーツは美味しいって噂だから、楽しみにしていたんだ」
「真宮部長は甘党なんですか?」
この間の秘蔵のチョコといい、デザートを見て頬を緩める様子といい、信用ならないと思ったばかりなのに、つい可愛らしいと思ってしまう。
「いや、甘いのも辛いのもいける。うまいものが好きなんだ。しかも、無料だ!」
それがこの人の作戦かも、と思うのに、超エリートで高給取りの人とは思えない無邪気な発言に、思わずクスッと笑ってしまった。
真宮部長に連れられて、初めてビュッフェコーナーに行った。
カラフルなマカロンとプチシュー、チョコレートの粒に彩られたプレートに、小さなグラスに入っているパフェやゼリー、一口サイズのタルトにミニケーキが乗っているプレート。
目にも美味しそうなスイーツの数々に心が躍る。
私も実はケーキに目がない。
ガトーショコラにショートケーキ、ティラミスにストロベリータルト、キャラメルムース……こんなにあると目移りしてしまうわ。
人目がなければ、全部制覇したいところだった。
「もしかして、お嬢様も甘党か? 今まで見た中で、一番うれしそうな顔してる」
そう言われて、慌てて表情を整えた。
(そんなにわかりやすかったかしら?)
「どれがいいんだ? 取ってやるぞ?」
「だ、大丈夫です! 自分で取りますから」
部長にそんなことはさせられないと、急いでお皿を取った。
悩んだ末、ミニケーキを四つ取る。
真宮部長はほぼ全種類をお皿に乗せていて、ついうらやましげに見てしまう。
「欲しかったら、取ればいいのに。お嬢様は遠慮がちだな。欲しいものは欲しいって言えよ」
そう言われて、もう一つだけケーキをお皿に乗せた。
真宮部長はそれをおもしろそうに眺めていたけど、今度はなにも言わなかった。そして、ミニケーキを大きな一口で食べて、満足そうに笑みを浮かべた。
私もつられて、まずショートケーキを口に入れた。繊細なスポンジが、ふわっと軽い生クリームと共に口の中でとろける。そこに苺の甘酸っぱさが加わり、絶妙な美味しさだった。
(今までこれを食べ逃していたなんて……)
ケーキのひとつひとつが職人技の冴え渡る上質な味わいで、至福のケーキに舌鼓を打って、ひととき自分の立場を忘れた。
「ご歓談中ではございますが……」
司会者の言葉に、はっと我に返る。
「私、戻りますね」
お皿をテーブルに置くと、急いで主催者側の場所へ戻った。
◇◆
パーティーが終わり、てっきりいつものようにお父様と一緒に帰るものだと思っていたら、「寄るところがあるからお前はタクシーで帰りなさい」と言われた。
お祖父様とお父様に挨拶をして、パーティー会場を出たところで、一柳さんに捕まった。
「葉月さん、ちょっとこっちに来てくれる?」
呼ばれて近寄ると、いきなり肩に手を回されて、出口と反対方向に引っ張られる。
そのなれなれしい様子に不快感を覚える。
ひとつ廊下の角を曲がっただけで、人気のない場所になり、ゾワッとした。
身じろぎをして彼の腕を外し、距離を取ろうとすると、今度は腕を掴まれ、体を引き寄せられた。
「ちょっと話があるんだ」
「なんですか? 手を離してください。話ならロビーで……」
「内密な話だから」
ニヤリと笑った一柳さんはそう言って、そばの部屋に連れ込もうとした。
内密な話だとしても、こんなふうに強引に誰もいない部屋に連れ込まれるのは嫌だ。
身の危険を感じて、足を踏ん張り、「離してください! 声をあげますよ⁉」と強めの口調で言い、睨む。それでも、一柳さんは怯むことなく、嫌な笑みを深めた。
「婚約者なんだからいいだろ? 肇社長も了承済みだよ」
「え……」
そう言われて、力が抜けそうになる。
(お父様が……⁉)
お父様は一柳さんを気に入っているけど、真宮部長を気に入っている様子ではなかった。
むしろ、お祖父様が推しているから気に入らないのかもしれない。お祖父様とお父様は表面上にこやかにしていても、しばしば対立しているのを知っている。お祖父様の推す真宮部長が婚約者に決まったらやりにくいから、こういう強引な手に出たのかもしれない。
実の父親に道具のように使われて、わかってはいたけれど、胸に悲しみが広がる。
「誰か……!」
大声をあげようとしたら、口を塞がれた。首を振ってもその手を外すことはできず、私は必死で抵抗しながら、誰かが通りかかるのを祈った。
ジリジリと部屋の中に引っ張られる。
(もうダメ……)
力の限界を感じてあきらめかけたとき、ふいに後ろから別の誰かの手が腰に回ってきて、グイッと引き戻された。
同時に、その人の手が一柳さんの腕を掴み、私から引き剥がす。
「婚約者だろうとなんだろうと、嫌がる女性に手を出すのは犯罪だ」
最近、聞き馴染んできた声が硬く冷たく頭の上から降ってきた。
見上げると、真宮部長だった。
私は彼の胸に守られるように、腕の中に収まっていた。
「お前には関係ないだろ! 僕と彼女の問題だ!」
「彼女は俺の大事な部下だ。それに俺はあんたと同じ婚約者候補だって紹介されただろ? 関係おおありだ」
「でも、僕は肇社長の公認だ!」
頭が真っ白になっていた私は、その言葉で混乱から覚めた。
(一柳さんとは絶対イヤッ!)
気がつくと口が動いていた。
「私、決めました! 真宮部長を婚約者にします! だから、あなたはもう私とは無関係です」
「なっ……。そんなことは勝手に決められないはずだ!」
「お祖父様にお願いします。今のことを言われたくなかったら、もう私に関わらないでください!」
一柳さんはグッと黙り込んだ後、ギロッと凄まじい視線で私を睨んで、プイッと去っていった。
(よかった……)
その後ろ姿を見て、ほっとして足が崩れ落ちそうになる。
「おっと」
真宮部長が私を抱え直し、へたり込みそうな体を支えてくれた。
彼のシャツに縋った手が震えている。
「大丈夫か?」
真宮部長は落ち着かせるように私の背中をポンポンと叩いてくれ、顔を覗き込んできた。いつもは鋭い眼光が心配そうな色に染められている。
泣きそうな気持ちを抑え、小さくうなずいた。
それでも、真宮部長はしばらくそのままで、髪や背中を撫でてくれていた。
手の震えが治まって、気が鎮まってくると、今の状態がとても恥ずかしくなってきた。
「真宮部長、もう大丈夫です。ありがとうございました」
力が抜けそうになる足をなだめ、そっと身を離すと、頭を下げる。そのまま視線が上げられない。
(勝手なことを言っちゃった。部長はなんて思ったかしら……)
思わず口走ってしまった言葉が、思い切りこの人を巻き込んでしまったことに気づき、うろたえる。
「お嬢様もなにかと大変だな」
労るような眼差しに涙が出そうになる。
でも、これもこの人の思惑通りなのかしら? そんなことも思ってしまう――
「それで、さっきの話だが……」
「ごめんなさい! 勝手なことを言ってしまって。でも、あの……」
ここで前言を翻せば、一柳さんがまた近づいてくる。今度はもっと悪質な手を使ってきそうだから、それは絶対に避けたい。
真宮部長に、しばらくは婚約者のふりをしてもらわないと!
そう思い、彼に頼み込もうとしたとき、逆に提案された。
「場所を変えないか? ここで話す内容でもないだろ?」
「はい。そうですね」
「ここは俺の家が近いんだが、来るか?」
確かに、ホテルのロビーや喫茶店で話す内容ではない。
私は即座にうなずいた。
真宮部長の家は、確かに近くて、タクシーで十分もかからなかった。
着いたそこは、都心だけど、落ち着いた界隈の低層マンション。
オートロックを解除して、招き入れられる。
彼の部屋は広いものの2DKで、外資系エリートに持つイメージよりシンプルな気がした。全体的に物も少ない。
なんとなく湾岸のタワーマンションに住んでいるイメージだったのに。
でも、いきなり来た割に部屋は片づいていて、彼のきちんとした性格を窺わせた。少しだけ彼の香りがして、一人暮らしの男の人の部屋に来たと改めて感じ、ドキリとする。
「庶民的で悪いな。タワマンも勧められたけど、あれって少しの風でむちゃくちゃ揺れるし、バカ高いし、俺には合わないって思ってな」
私がそれとなく部屋を見ていると、真宮部長はそう言った。心を読まれたようで驚いた。イメージと違うと言われ慣れているのかもしれない。
(誰に……?)
つい女の人の影を想像してしまって、首を振る。
(私には関係ないわ。今から頼もうとしていることには関係ない)
なんとしても、真宮部長に婚約者のふりをしてもらわなきゃ。
そのためにはこの人を説得しなければならない。
緊張している私を横目に、部長は自然な様子でジャケットをハンガーにかけて、ネクタイを取った。
「まぁ、座れよ。麦茶でも飲むか?」
「麦茶?」
「あぁ、俺が好きなんだ。コーヒーもあるがそっちがいいか?」
「麦茶でいいです」
彼はうなずくと、冷蔵庫から瓶に入った麦茶を出してグラスに注いだ。
ペットボトルかと思ったのに、自分で作っているのかなと思うと微笑ましくなった。少し肩の力が抜ける。
真宮部長はテーブルにグラスをふたつ置くと、私が座っている二人がけのソファーに座った。
この人と並んで座ることは今までなくて、その近さに心臓が騒いだ。
「それで?」
その近い距離で、彼は私を見た。
私は息を吸い込むと、息を吐く勢いで思い切って言った。
「部長、私と婚約していただけないでしょうか?」
私の言葉に、真宮部長は片眉を上げて、おもしろがるような表情をした。
「まず、部長はやめてくれ。プライベートに仕事を持ち込みたくない」
「すみません。では、真宮さん、お願いします」
「婚約者の割に硬くないか?」
頭を下げてお願いする私に対し、真宮さんはソファーの背に肘をついて、頬杖をついた。
より顔が近くなる。
「じゃあ、引き受けてくれるんですか!? ……理人さん?」
「んー、俺は候補っていうからとりあえず受けただけで、まだ人生を決めることは考えてないんだけど、お嬢様?」
にやっと笑って、真み……理人さんは言った。
そう言われて、肝心なことを言っていないのに気づく。
「違うんです! 本物の婚約者じゃなくて、仮の……そう、契約の婚約者になってほしくて……」
「契約?」
理人さんはさして驚いた様子もなく、ニヤニヤと言葉を繰り返す。自宅にいるせいか、仕事を離れたせいか、理人さんの態度はいつもよりくだけていて、不遜だ。
「私、一柳さんとは絶対に結婚したくないんです。だから、理人さんに仮の婚約者になってもらって時間を稼いで、本当の結婚相手を探したいと思うんです」
「まぁ、あいつと結婚して幸せになれる気はしないな」
共感が得られて、ほっとする。
気がつくと膝で握っていた手が震えていた。
「それじゃあ……」
「期間は?」
「え、えっと、一年でどうでしょう?」
「婚約者って発表するのか?」
「大々的にはちょっと難しいかもしれません。非公式の婚約者という扱いになると思います。私も相手を探すのに不便になるので」
「俺のメリットは?」
次々と質問されて、あまり細かくは考えてなかった私は口ごもる。
(でも、引き受けてもらわないと!)
追い詰められていた私は柄にもなく、挑むように理人さんに言った。
「私の婚約者という立場を最大限に利用すればいいです。理人さんもなにか目的があって、私の婚約者候補になったんでしょ?」
私の婚約者候補として入社してきた割には、私を口説くでもなく、「仮の婚約者」と言われて困る様子もない。つまり、理人さんは私と本当に結婚したいわけではなさそうだ。そこを押すしかないと思った。
私の言葉に理人さんはフッと笑った。
「お嬢様は内気なのか大胆なのか、わからないな」
考え込むように私を見て、理人さんは首を傾げる。
「そうだな……確かに、俺も調べたいことがあって水鳥川興産に就職したから、都合はいいかもな」
調べたいこと?
疑問に思ったものの、ひとまず了承が得られそうで、私は期待を込めて理人さんを見つめる。
でも、彼は意地悪そうな表情を浮かべて、さらに質問してきた。
「婚約となると、その間、女遊びもできないなぁ。あんたが相手してくれるのか?」
思いもよらない質問に息を呑んだ。
(女遊び……。それって、体を要求しているの?)
有能な上司と思っていた人から出た言葉とは思えない。
それとも、いつものようにからかわれているの?
どちらにしても、私の結婚は政略結婚にしかならない。どうせ愛のない人とそういうことをするのだから、初めては、少しでも嫌じゃない人がいい。
そう思い、私はうなずいた。
「お望みなら」
そんな答えが返ってくるとは思わなかったみたいで、理人さんは目を丸くした。常に余裕そうな彼の表情を崩したことで、ちょっと胸がすく。
「意外と度胸あるよな、お嬢様?」
理人さんはそう言って、黙考した。その後、すっと視線を上げ、私の目を見つめた。
「よし、契約成立だ。その証に抱かせろよ、お嬢様?」
彼はその整った顔をニッと崩して笑い、私の唇を奪った。
そのあまりに流れるような動作に、私は身動きひとつできなかった。そんなふうに笑うとまるでイタズラっ子のようだとぼんやり思う。完璧な上司の、魅惑的な男の顔――
彼の少し冷たい唇は、もう一度戻ってきて、私の思考を攫う。
やわらかいそれが、私の唇を挟むように動いたかと思うと、にゅるりと熱い舌が入ってきた。
キスしたのも初めてなのに、こんなのどうしていいのかわからず、私は固まった。
私の反応に構わず、彼の舌は好き勝手に私の口の中を探り、上顎をくすぐるように擦った。
ずくん、と感じたことのない感覚が生まれて、私は喘ぐ。
縋るように彼の腕を掴んでしまった。
少し顔を離した理人さんは湿った唇を指で拭って、私を見下ろす。
切れ長で鋭い目が検分するように私を見ている。
鋭く見えるのは、長くまっすぐ生えた睫毛が目の輪郭を濃く縁取っていて、目を酷使した後のようなクマがあるからかもしれない。
それでも、魅力的なその顔は、彼が通るだけで女性がざわめくほどで、彼と結婚したいという女の人なんて星の数ほどいそう――
(それなのに、なぜ私の契約を受けてくれたのかしら?)
そんな私の疑問も、理人さんが耳もとに唇を寄せてからは、まともに考えられなくなった。
「葉月……」
ささやく声に、初めて名前を呼ばれた。
首筋にキスしながら、私の後頭部に手を這わせた彼は、髪をまとめているピンの存在に気づいて、ひとつひとつ外していった。
その手つきは丁寧で、パサリパサリと髪が流れるように落ちてくる。
全部ピンが外れると、理人さんは唇を離して、私を見た。
私の髪を手で梳くように広げ、髪が手から流れ落ちていく様子を楽しんでいる。
「綺麗な髪だな」
そうつぶやかれて、胸がキュッとなる。
(そんなリップサービスいらないのに……)
手を引かれ、スマートに寝室に誘導され、ベッドに押し倒された。
私の真上にシャープな彼の顔が見える。
ちょっと長めの前髪が垂れて、私にかかりそうな距離。
「葉月……」
色気の滴る声で、もう一度、名前を呼ばれた。
とくんと鼓動が乱れた。
耳に口づけられ、耳殻を食まれて、首を竦める。その首もとにも舌を這わされる。
「ん、やぁっ」
くすぐったいような逃げ出したいような感覚に、自然に鼻にかかったような甘ったるい声が洩れる。
それが合図のように、彼の手まで動き出し、私の体の線を撫でた。その手つきは優しく、大事なものに触れるようで、そんなふうにされると、私の体になにか価値があるかのように思えてくる。
(心がないなら、乱暴にしてくれてもいいのに)
かえって切なくなって、心の中で文句をつけた。
理人さんは何度も首もとに口づけていたかと思ったら、ふいにそこに顔を埋めて、「くっ、くくっ、あはは」と笑い出した。
呆気にとられた私は、彼の震える背中を見つめることしかできない。
ひとしきり笑った後、理人さんは顔を上げて、至近距離から私を見た。
強い眼差しが私を射抜く。
「お嬢様の覚悟を知りたかっただけなのに、全然止めないんだな」
「えっ?」
「止めないどころか、あまりに色っぽい顔をするから、その気になっちまったじゃないか。責任取れよ、葉月。俺は据え膳は食うたちだ」
そう言うと、彼は噛みつくようなキスをした。
先ほどよりも乱暴に口の中を探られ、深く舌を絡められる。そうしながら、理人さんは私のドレスを脱がせ、器用に自分の服も脱いでいく。
そういえば、ずっと服を着たままだった。
(どういうこと? 本当はする気がなかったってこと? どこかで止めればよかったの? どこで? キスされたところで? 寝室に連れてこられたとき?)
混乱のまま、疑問でいっぱいのまま、口を吸われ、ブラを外され、ショーツを脱がされる。
そして、結局、もう手遅れで、この人を本気にさせてしまったことに気がついた。
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