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56話 『甘い叱責』
しおりを挟む屋敷の扉が開くと同時に、空気がぴんと張り詰めた。
応接室の前で腕を組んでいた父が、こちらへ鋭い視線を向ける。
「……セレーネ——」
その声が最後まで届く前に、私は父の前へ一歩踏み出した。
そして。
睨みつけた。
怒りでも泣き声でもない。
今まで一度も向けたことのない、冷たい拒絶。
父の顔がはじめて揺らいだ。
「セレーネ……?」
私は答えなかった。
一言も。
ただ、静かに父を見据える。
——どうしてレオニスを殴ったの。
喉まで出かかった言葉が、熱となって胸につかえる。
代わりに、父にわかるように“何も言わない”という選択を取った。
沈黙は、怒りより重い。
そのことを、父も感じ取ったのだろう。
「……セレーネ、私が悪かっ……」
悪いに決まっている。
私はまばたきひとつせず、視線をそのまま父に突き刺し続けた。
父がレオニスを殴ったのは、私の為だとはわかっている。
——でも、暴力は許せない。
その時、レオニスがそっと肩に触れた。
「セレーネ」
その声に、ようやく私は顔を父から背けた。
まるで父など存在しないかのように。
父に向けていた感情をすべて断ち切るように。
父が息を呑む音がした。
「……セレーネ……」
父の問いかけに、私は微動だにせずレオニスの方へ歩み寄った。
「行きましょう、レオニス」
まるで父の許可を必要としないかのように、はっきりと言った。
私は父を置いて、廊下を進んだ。
私が父を完全に無視してレオニスの手を取ると、廊下の空気がひやりと凍った気がした。
父は驚愕と動揺を隠せず、まるで言葉を失ったように私たちを見つめていた。
そのとき——
「——あら、嫌われちゃったわね」
母がまるでティータイムの雑談でもするような軽い声で言い放った。
*
ぷんすかしながら歩く私の後ろで、レオニスの足音が静かに近づく。
次の瞬間——ふわりと、背中に温かい腕が回った。
「…………えっ?」
驚いて振り返ろうとしたけれど、レオニスはそのまま後ろから抱きしめて離さない。
まるで迷子を捕まえたみたいに、ぎゅっと。
「セレーネ」
「レ、レオニス……?」
耳元に、低く落ちる声。
「……俺のために怒っているのか?」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
「ち、ちがっ……! というか……その……っ」
「違わないだろう?」
彼は静かに笑い、さらに腕の力を強めた。
「君が俺以外を睨むのを初めて見た」
「……っ、それは……!」
言い返せない。
本当に怒ったのだ。レオニスの頬を腫らした父に。
そんな自分が急に恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
するとレオニスは、私の肩に額をそっと預けてきた。
レオニスは私を後ろから抱きしめたまま、しばらく黙っていた。
けれど、ふっと息を吐いたあとで言った。
「……嬉しいが、アレは良くない」
「……え?」
てっきり喜んでくれたのだと思っていたので、振り返ることすら忘れて固まる。
レオニスは真面目な声で続けた。
「父上をあのように無視するのは……望ましい態度ではない」
「…………は?」
耳を疑った。
顔を腫らされ、唇まで切れているのに?
「だって……だってレオニス! 殴られたんだよ!?」
必死に訴える私の肩を、レオニスはそっと押さえた。
「……俺が悪いのだから」
「………………は?」
「だから、父上が可哀想だ」
真剣に言うものだから、余計に意味が分からない。
「ちょ、ちょっと待って……どういう理屈?」
「まず、セレーネの父上が俺を殴ったのは、俺が君を傷つけたからだ……それは悪いことに違いない」
「いや、それはレオニスのせいじゃ——」
「俺が悪い」
即答。
しかも微妙に誇らしげですらある。
「それに……」
レオニスは少し照れたように言った。
「君が怒るほど……俺のことを想ってくれたのは、嬉しい。
だが……父上の立場を思うと、あれは気の毒だ」
「いやいやいや!!」
もう頭が追いつかない。
「どう考えてもレオニスが可哀想でしょ!?
殴られてるんだよ!? 顔も腫れてるし! 唇切れてるし!!」
「俺は鍛練している。大したことはない」
「そういう問題じゃないの!!」
思わず叫んでしまう。
レオニスはそれが可笑しかったのか、肩を震わせて笑った。
「俺のために怒ってくれた。
あれほど感情を露わにする君を見たのは——初めてだ」
レオニスは私の頬にそっと触れた。
「父上には申し訳ないが、嬉しかった」
ずるい。
怒りも驚きも全部まとめて胸が熱くなる。
「……でも、父上が嫌われたのは気の毒だ」
私がまだぷんすか怒っているのを見て、レオニスはふっと口元を緩めた。
「……君に無視される辛さは、誰よりもわかるからな」
「…………」
その言葉に、胸の奥が一度止まり、次の瞬間どくんと跳ねた。
「だから、父上には……同情している」
「いや、同情する方向がおかしいよ!?」
私が反論すると、レオニスは目を細めて微笑んだ。
「君に背を向けられるのは……本当に堪えるからな」
低い声に、膝が落ちそうになる。
レオニスはそのまま私の手をそっと包み、指先に少しだけ力を込めた。
「さて……俺はこれから父上と視察に向かわねばならない」
「え……今から?」
「誤解も解いておく。……君が怒ったままだと、俺が困るからな」
ど、どういう意味で……?
レオニスが私の顎をそっと指で持ち上げた。
「夜までには、機嫌を直しておいてくれ」
穏やかな声で告げられた瞬間——唇が重ねられた。
短い。けれど、逃げ道を全部塞ぐみたいに深く、優しく。
触れたところから体温が溶けていく。
離れたあと、レオニスは静かに微笑んだ。
「困った、怒った顔も愛しい」
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