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62話『行き違いのひと区切り』
しおりを挟むレオニスの唇が深く重なり、息が奪われるたびに胸の奥がじわりと痺れていく。
手のひらが頬を包み、逃がす隙間も与えない。
角度を変えて、確かめるように、貪るように——またキスが落ちてくる。
「……っ、れ……レオ……ニス……」
名前の形すら唇ごと奪われ、声が音にならない。
湯上がりの火照りと、彼の体温と、深い口付け。
世界の輪郭が甘く滲んでいく。
その瞬間——。
「失礼します、大公様——」
襖が“コン”とわずかに開いた。
そこで視界に飛び込んだ光景に動じないグレイが見えた。
レオニスが私を抱き寄せたまま、熱を帯びた瞳のままゆっくり振り返った。
「……何の用だ、グレイ」
低く落ちる声に、空気がびくりと震える。
レオニスの腕の中で私はさらに強く抱きしめられ、逃げ場がなくなる。
グレイは表情を変えず真面目な声で言った。
「夕食の準備がまもなく整いますので」
レオニスが、深く息を吐いた。
その息が私の耳にかかって、また身体が跳ねる。
「……グレイ」
「はい」
「すぐに行く。下がれ」
グレイは「お時間がございませんので」と念押しし、立ち去っていった。
完全に静寂が戻る。
レオニスはゆっくり私へ視線を戻し——まだ熱の残る私の唇に親指をそっとあてた。
「君といると時間を忘れてしまうな」
「っ……」
息を奪われたまま頷くと、レオニスは微かに笑った。
「……困る、中断されると、余計にしたくなる」
夕食に向かわなければいけないのに、胸の奥の熱だけが、湯気のように逃げずに残っていた。
レオニスの指先はまだ熱を帯び、タオルの端を握る私の手を撫でてくる。
そのたび胸がくすぐったくなるのだから、本当に厄介だ。
「お二人とも、こちらを」
静かな声が差し込む。
振り向けば、グレイと入れ替わりイネスが礼とともに衣を差し出していた。
視線ひとつで状況を察し、必要以上の言葉を挟まない。
「セレーネ様はこちらへ」
淡々としながらも、どこか微笑を含んだ声音。
そのまま歩き出そうとしたときだった。
ほんの一瞬、足首をかばうように、無意識に体重を逃がして歩く。
レオニスの視線が、ふと私の足元で止まった。
「……セレーネ」
呼ばれて、足を止める。
「なに?」
できるだけ、何でもないふりをした。
けれど次の瞬間、レオニスはためらいなく屈み込み、私の足元を覗き込んだ。
「……まだ、腫れているな」
「だ、大丈夫よ。もう随分引いたし……」
「大丈夫ではない」
即座に、低い声で遮られる。
足首のあたりは、湯で温まったせいもあって、うっすら赤みが残っていた。
昨日よりはましでも、触れれば痛みが返ってくる程度には。
レオニスは、その腫れを見つめたまま、唇を引き結ぶ。
「……すまない」
「また、それ……?」
「軽く見ていた。俺の判断が甘かった」
淡々とした口調なのに、どこか自分を責める響きが混じっている。
「レオニス」
思わず名を呼ぶと、彼は顔を上げた。
「もう謝ったでしょう。何度も」
「足りない」
きっぱりと言い切られる。
「この程度で済んだのは運が良かっただけだ。本来なら、もっと酷いことになっていた」
そう言って、彼はそっと私の足首に手を添えた。
触れ方は驚くほど慎重で、痛みを避けるように、確かめるだけの指先。
「……痛むか?」
「……少しだけ」
正直に答えると、レオニスの眉がわずかに寄る。
「やはり」
低く呟き、もう一度、はっきりと告げた。
「本当に、すまない」
その声は、さっきまでの甘さとは違っていた。
冗談も、からかいもない、ただ真剣な謝罪。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……そんな顔しないで」
私がそう言うと、レオニスは少しだけ目を伏せた。
「君が痛みを抱えているのに、平気な顔はできない」
「でも……」
言いかけて、言葉に詰まる。
怒っているわけでも、恨んでいるわけでもない。
ただ、こうして何度も自分のせいだと言われると——。
「……誰のせいでもないよ」
小さく言うと、彼はゆっくりと顔を上げた。
視線が絡む。
レオニスは一拍置いて、静かに続けた。
「それでも、謝らせてほしい。君に向ける言葉は、それしか見つからない」
まっすぐで、不器用で。
逃げ道を作らない言い方。
胸の奥に残っていた怒りや緊張が、静かにほどけていくのを感じた。
「……しつこい」
レオニスの口元が、ほんのわずかに緩む。
「そうだな。だが、君の足が完全に治るまでは、何度でも言う」
「……もう」
ため息をつくと、彼は立ち上がり、私の方へ手を差し出した。
「無理はするな。夕食の席でも、歩くときは俺が支える」
「……大げさ」
「大げさでいい」
そう言って、当然のように私の手を取る。
その手の温度が、まだ少し残っていた熱と重なって——
胸の奥に、静かな安心が広がった。
こうしてまた、謝られて、守られて。
怒る理由は、どこへ行ってしまったのか分からない。
夕食に向かわなければならないのに。
それでも私は、彼の手を振りほどけなかった。
その後、あっという間に私は髪を整えられ、衣を着せられた。
イネスの手際は魔法のようで、湯殿で崩れかけていた心の輪郭までも、すっと引き締めてくれる。
「整いました」
「……ありがとう、イネス」
*
夕餉の間へ入った瞬間、空気はしんと静まった。
母は能天気にこちらへ顔を向け、父は——無表情を装っているものの、目の奥がわずかに強ばっている。
レオニスの腕に軽く触れると、彼は小さくうなずき、私を座へ導いた。
「久しぶりの家族の食事ね」
母の明るい声が空気をぱっと和ませる。
母は相変わらず天真爛漫だ。
彼女の朗らかさは、部屋の壁にまで染み込むようにその場を温かくする。
父が小さく咳払いし、視線をテーブルへ落とした。
——内心は穏やかでないのだと、誰の目にも明らかだった。
すると隣にいたレオニスが背筋を伸ばし、静かに父へ向き直った。
「アーヴィング侯。ご心配をおかけしました」
父の眉がぴくりと動く。
感情はほとんど見えないが、内側では色々な思いが渦巻いているはずだ。
「……セレーネを頼む、という私の言葉の意味を……理解しているのだろうな」
重く沈むような問い。
レオニスはひとつ呼吸を置き、真っ直ぐに父を見る。
「ええ。深く理解しております」
「……そうか」
父の表情は変わらない。
だが、グラスを持つ指がわずかに緩んだ。
そこでレオニスは、さりげなく私へ目配せした。
胸が小さく震えた。
夕餉の前、レオニスが私に何度も繰り返していた言葉が蘇る。
——赦してあげてくれ。
私は深い息を吸い、父の方へ向き直った。
「……お父様」
静かに、はっきりと。
父の肩がわずかに揺れた。
「心配をかけて、ごめんなさい。もう怒ってはいないわ」
その瞬間。
父の目に、見たことのない安堵の色が浮かんだ。
涙ではない、弱さでもない。
ただ、長年張りつめていた糸がふっと緩むような、あたたかい表情だった。
「……そうか」
小さな声で言い、父はそっと視線を逸らした。
その横顔は、いつもの“帝国最大企業の総裁”ではなく——ただの、娘を心配する父のものだった。
母は嬉しそうに手を叩く。
「まあ! よかったわね、あなた!」
「……」
照れ隠しの声音に、場がくすりと笑いで満ちた。
その笑いの中で、レオニスはそっと私の手を握り、誰にも気づかれぬよう力をこめた。
指先へ伝わるそのぬくもりが、胸の奥で静かに溶けていった。
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