死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第1部

#11 わたしを忘れないで

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「グレイに謝るのは、明日になさっては。今日はとことん頭を冷やしてください」
 皮肉めいたそれを真に受ける気力もなく、僕は自分のベッドに倒れ込んだ。
「では、おやすみなさい」
 僕が力のない返事をした頃、レイセン君はもう部屋を出て行ってしまった。
 この世界で目覚めてから、初めて喧嘩というものをした。
 大丈夫、すぐに仲直りできる。と何度もレイセン君に諭された。
 ただ、僕は皆と少し違う。それは精神的な面でもあり、身体的にも、広義の意味で違うということだ。
 彼の言う普通が、僕にさえ通用すればいいのだけれど。
 グレイ、僕たちは仲直りできるはずだよね。
 明日謝ろう、絶対に。だから今日は、もう寝よう。

 ***

「ご主人様、早く起きてください、ご主人様」
 やけに慌ただしいレイセン君の声が脳裏に響き渡る。
 昨晩のこともあり、真っ先に嫌な予感を察すると共に目が冴えた。レイセン君の形相はいつもより増して恐ろしい。
「グレイが、亡くなりました」
 彼の台詞が、僕の頭の中で残響のように繰り返された。
「あ、嘘だ……」
「嘘ではありません。まずは、着替えを済ませて、それから彼に会いに行きましょう。詳しいことは後ほど」
「今グレイは!? どこにいるの!?」
「自室のベッドで。今はベンティスカが……」
 レイセン君の言葉が全て聞き取れないうちに、別の部屋から、女性の哀哭が耳に劈く。
 その光景が目に浮かぶようで、僕は耐えられず目を瞑った。
「先に言っておきますが。……貴方のせいではありませんよ」
 レイセン君の一言が冷たくて、痛い。泣きそうになりながら目尻を拭って、いつも通りの支度を済ませた。
「私は先に行って様子を……」
「待ってレイセン君、僕も一緒に行く。すぐに着替えるから」

 一人が怖くて、気持ちの整理もつかないまま、とうとうここまでやって来てしまった。僕はグレイの部屋の前で立ち止まったまま、その扉を開けることができなかった。
 レイセン君が僕の様子を察してドアをノックした。
 返事はない。彼は無言で扉を開けると、僕を手招いた。
「失礼します。……ベンティスカ、気分は如何ですか」
「……さっきよりは、落ち着いた、つもり……」
 ベンティスカは嗚咽を漏らしながら、赤くなった目尻を抑えていた。彼女はまだ寝巻のままだった。
「ご主人様、これが最後です。グレイに……」
 僕は、事実を目の当たりにするのが恐ろしくて後退りしてしまう。
 グレイの眠ったような死に顔が目に飛び込んできて、居ても立っても居られなくなりグレイに齧りついた。
「嘘だよね。僕まだグレイに謝ってないよ、グレイが死んじゃったら許してもらえないじゃん‼ ねえ早く目を覚ましてよ‼」
 ああ、胸が痛い。痛いよ、グレイ。
「……グレイ、昨日は、ごめんなさい、本当に……」
「大丈夫。きっと黒猫さんは許してくれるよ。だって優しいもん」
「どうして……この指輪は人を生かすものじゃなかったの……? どうして、グレイは死んでしまったの?」
 僕はグレイの指をぼう、と眺めた。そこに薄らと存在感を主張するものを睨み付ける様に。
「……元々グレイは何か病に侵されていたのでしょうね。顔をご覧ください」
 グレイの口元から、もう時間が経って黒くなりかかった血の跡が流れていた。真っ白だったシーツの上にも、血飛沫のようにそれは広がっていた。
 そんなことにも気が付けないほどに、僕は心を取り乱していたのか。
 また茫然としながら、目線を手元に戻す。
 指輪の色が、違うような気がした。疲れているからそう見えるだけ、だろうか。
 遂に自力で見つけた彼の変化に少しばかり目を見開いた。
「ねえ、レイセン君。グレイの指輪、こんなに色、薄かったっけ……」
「これは……元々の色が褪せてしまった様にも感じます」
「あ、ほんとだ。昨日見たときは、もっと紅かったよ」
「ええ。ですが、グレイの死と、この指輪に何か関係があるとは……少し調べ物をしてきます」
 部屋には僕とベンティスカ、そしてグレイが取り残された状態となった。そういえば、僕は面と向かってベンティスカと話をしたことがない。けれど、こんな状態では何を話していいのかもわからなかった。
「……」
「ねえ、この指輪、わたしがもらってもいい? これから先も、黒猫さん……グレイと一緒にいたいの……」
「ああ……えっと、それなら大丈夫、かな」
 僕にエンゲイジリングの処分を決める権利はあるのだろうか。
 ベンティスカはその答えを待ちわびていたかのように、微笑む。そして、グレイの指先から指輪を取ると、自身の掌に乗せ、しっかりと握った。
「ありがと。元々、魔法使いさんの指輪なの?」
「うーん、僕のっていうより……いつの間にか持ってたんだよね」
 僕の曖昧な答えに首を傾げながら、ベンティスカは自らの左手と、色褪せた指輪をまじまじと見つめていた。
「そう……。グレイがね、結婚しようって言ってこの指輪を渡してくれたの。……嬉しかったなあ」
 ベンティスカのライムグリーンの瞳は、窓の外を悲しげに見つめていた。
 僕はとてもいたたまれない気持ちになりながら、窓から入り込む冷たい風を一心に浴びた。

 港町の朝にはひどく静寂が漂っていて、吹く風が肌に沁み渡る。
 僕達はグレイを弔う為に、棺の代わりとして小舟を用意した。そこに彼を乗せ、その周りに、ベンティスカが急いで摘んできた野花を添えていった。
「やっぱりお別れは、さみしいよ。ねえ、本当は演技だったり?」
 ベンティスカはグレイに語りかけるように呟きながら、寒々とした雰囲気を気にもせず、黙々と花の冠を編んでいた。
「ふふ、でーきた」
「これを、グレイに?」
「うん、きっと似合うよ」
 グレイの頭にそれをふわりと添える。花の名は「勿忘草」と言うらしい。その名のついた色が、全体的に黒でまとまった少年に良く映える。
「二人とも、そろそろ……」
「ごめん、あと少しだけ」
 ベンティスカの頬を涙が伝う。花冠を纏ったグレイの髪が、太陽の光を浴びて一際美しく、僕にはグレイが天使のように見えた。

「兵隊さん。舟、出してもいいよ」
「心の準備は、よろしいですか」
「うん、もう泣かない」
 レイセン君が頷き、舟を固定していたロープの紐を解く。それから、浮き沈みを繰り返す舟を、力一杯に押した。少しずつ、僕達から離れてゆく。
「……グレイ」
 ベンティスカが名前を呼んだその人は、日の出に向かって進み始めた。もう戻ってくることはない。
「グレイ、わたしはあなたの事、絶対に忘れたりしない‼ だからグレイも、わたしを忘れないで……」
 そして僕達は、グレイの死を受け入れた。

 ***

「お気持ちは重々承知しておりますが、食事だけはきちんと取ってください。これでも減らしたつもりなんですよ」
 朝食が全く喉を通らない。
 それどころか、フォークを持つ手すらも動かない。それは僕だけではなく、ベンティスカや、催促しているレイセン君本人も同じようようだった。
 僕はこの悲しみを、いつか忘れることができるのだろうか。けれど、忘れたくはない。この気持ちを失ってしまったら、僕は僕でいられなくなる気がした。
「そうだよね、ちゃんと食べないと……むぐむぐ」
 最初に乗り出したのはベンティスカだった。グレイがいた数日間、賑わっていたな、と今更ながら、猫耳フードの少年がいない朝に、違和感にも似た虚無を覚えた。
 僕もベンティスカに続き、わざとらしく大食らいになって肉にかぶりついた。
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