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第1部
#14 驟雨の夜
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貸切状態の宿屋の調理場。
レイセン君とベンティスカはエプロンを身につけ、採ってきたジェムの砂埃を払った。それからフライパンと、適当に開いていた店で手に入れた型と、染色液を用意していた。
チョコレートが作れそうな下準備だなあと、思わずそちらを脳内に思い浮かべてしまう。
「これで?」
「あとは私にお任せください。……上手くいけば、これで出来るはずです」
熱したフライパンに、角砂糖よりも少し大きめのジェムをぽんと放り投げる。すると結晶はみるみる溶け、そのまま液体となって残った。
「うわあ……‼ すごい‼ チョコレートよりも溶けるのが早いなんて‼」
「ああ、昔はそういった諺があったみたいですよ」
「え? なになに?」
「さあ……何と言ったか……」
レイセン君はベンティスカの質問を鼻先であしらうと、液体となったジェムを型に流し入れる。とろみがかった透明な水が、しっかりと型に嵌った。それから紅色の染色液を三滴垂らすと、それを吸い込むようにジェムは色を変えた。
「……これで、後は冷えるのを待つだけです」
「どれくらいかかるの?」
「朝には固まっているでしょう。……貴方の部屋に持っていきますか?」
「うん、そうする‼」
ベンティスカは両手で大事そうに型を包み込み、足取り軽く階段を駆け上がっていった。
「……まさか、本当にできるなんて。意外でした。もしかしたらこの後……」
「レイセン君、やっぱり作り方知らなかったんだね……」
「ええ、初めて作りました」
「すごいよ君は……あはは」
果たして作り方もわからないのに、本当にエンゲイジリングの形を作れるのだろうか。そんな僕の心配も杞憂に終わった。
レイセン君はくす、と口元を緩め、エプロンのリボンを絞め直すと、また調理場のキッチンで足を止めた。
「さあ、お待たせしました。ご主人様が一番楽しみにしていた、夕食の時間ですよー」
「僕が食いしん坊みたいな言い方するのやめてよー」
「ボクも手伝う」
今まで椅子に腰かけて舟を漕いでいたセナが、急に立ち上がりレイセン君の横についた。
「今日はビーフシチューとサラダ、それから、ジュレと檸檬のムースを乗せたデザートを作りましょう」
「じゃあ、ボクは野菜とデザートに使う果物切るね」
「任せました」
セナは盲目であるにもかかわらず、適切な調理方法で次々と料理を完成に近付けていった。
レイセン君の腕前は言うまでもない。二人は調理場でのみ相性抜群のようで、どこか楽しそうに、しかし料理には一切手を抜くことなく進めていった。
そういえば、何故レイセン君は、僕やグレイが手伝うと言ったときはあんなに懸念していたのに、セナのことはすんなりと受け入れたのだろう。何故だか悲しくなってきたから、これ以上は考えないことにする。
出来上がった食事が次々とテーブルに並べられた。僕の胃袋が喜びの声を上げる。
いつの間にかベンティスカも、ビーフシチューの芳しい香りに引き寄せられるように椅子に座っていた。
「わたしも手伝えばよかった」と半ば後悔した面持ちだった。
「いただきます! ……うん……美味しい~!!」
「ホント? ボクが作ったんだよそれ。えへへ」
「今日は助かりました。少なくとも、普段のご主人様よりは」
レイセンはセナに頷き賛同すると、辛辣な言葉を発した。
「うっ……それは言わなくていいよ!」
「ふふ……魔法使いさんは、料理苦手?」
「食べるのは好きなんだけど、作るのは……別かなあ……」
「そういえば……話は変わりますが、今日の夜は豪雨がやってきそうですね」
レイセン君の双眸は、確かに僕を見ていた。
***
いつも通り皿洗いを手伝い、いつも通りお風呂に入り、いつも通り寝る──フリをして、パジャマから普段の衣服に着替える。ここまでは完璧。あとはセナが僕の部屋を訪れるのを待ち、誰にも見つからずにこの宿屋を出るだけ。
自身の策士振りを発揮できたと、我ながら感心してつい口角が上がってしまう。
「アクアさん、来たよ」
セナが扉を開ける。ローブに身を包み、その裾からは白いロングスカートが顔を覗かせる。手首にカンテラを提げ、その手に包丁を持った幼子は僕の側へと駆け寄った。
作戦開始。直ぐに動くと怪しまれるから、三十分はこの部屋で待機する。
「ねえ……アクアさん」
「何?」
「探し物……探しに、行くんだよね」
「そうだよ」
「もし、ボクが見つけたら……指輪、作って欲しいな!」
実はもうあるんだよ、あげようか。──なんて言える訳もなく。セナの縋るような瞳に呑まれ、決して堅いとは言えない口を開いた。
「わかった。でもその代わり、僕が見つけたらもう少し先延ばしだよ?」
「それでもいい。勿論、アクアさんの手作り」
「え……僕が作るの?」
「うん! アクアさんのじゃないと、嫌だ」
「そっか。……じゃ、約束ね」
「やったあ!!」
セナが握った拳の小指を突き出して僕に差し出す。僕も同じように手で形を作り、小指同士を絡めた。セナの小さな手が、僕の手と交わり一層縮んで見えた。
窓の外は、街灯柱に支えられた照明街灯の仄かな明かりのみだった。僕とセナは顔を見合わせ、目で合図をした。
なるべく音を立てないよう、慎重に扉へ近づく。ドアノブを捻り、廊下に誰もいないのを確認する。セナに目配りをし、部屋を後にした。
僕の部屋は宿屋の一番奥で、向かいには二階へと続く階段がある。宿を出るためには、進行方向の斜め前にある、レイセン君の部屋を通らなければならない。固唾を呑んで、玄関口へと忍び歩く。悪事を働いた盗賊宛らのスリルを味わった。
レイセン君の部屋を通り過ぎると、調理場と居間が一つになった広間に出る。ここまで来れば、あとは外へ続く扉まで一直線だ。
「……や、やった! なんとか出られたね……」
「あはは。バレなくてよかった……。やっと、アクアさんと二人きりだ」
「うん。さ、行こ……折角ここまで来れたのに、見つかったら水の泡だからね」
セナは嬉しそうに頷いた。
「よおし、スペリォールの館はあっちだよ。セナ、カンテラ貸して」
二人で手を繋いで、夜の港町を走り抜ける。微かに漂う海の匂いに振り返ると、水面は月の明かりをぼんやりと写し出す鏡のようだった。
「うーんと、確かこの辺りだったんだけど……」
「なになに?」
以前妖樹を訪れた際に、スペリォールの館が現れたのは、この近辺のはずだ。今にも魔獣が咆哮を上げて襲いかかってきそうな、悲鳴にも似た風音が鳴り止まない妖樹のただ中で、僕は足を止めた。
「風だ……。セナ、来るよ!」
足元から旋風が巻き起こる。館が出現する前兆だ。
次第に風脚は強くなり、僕は突風にさえ飛ばされてしまいそうなセナの体を引き寄せた。
風が去ると、館は朽ち果てた瓦礫となって姿を現した。つい先日来たばかりだというのに、倒木からは蔦や苔などが生い茂っており、中には花が咲いている物もあった。
「セナ、もう大丈夫だよ。ここがスペリォールの館。僕が探し物をするって言ってた場所だよ」
「で、何を探せばいいの??」
「本だよ。辞書だから、多分厚みがあると思……」
セナは僕が説明をしている途中で、館の方へ走って行ってしまった。セナの指輪に対する欲は量り知れない。
「ぜったい、アクアさんより先に見つけるんだ……」
「あはは……。よおし、僕も頑張るぞ!」
僕は気合い十分に瓦礫の山を掻き分け、幾つかの書物が下敷きになった場所を見つけた。おそらくここが図書館であった部屋なのだろう。
一冊ずつ手にとっては題名を確認し、木の破片が邪魔でどうにも取り出せそうにない時には、装飾品と化した杖を使って掘り起こす。
僕がただひたすら木を叩き割る音だけが、夜の森に繰り返し反響した。
「あ、あれだ……。セナ! 見つけたよ!!」
「えーー? 見つけちゃったのー?」
「でも、ちょっと一人じゃ取り出せそうになくて……ここまで来てくれる?」
「……はーい……」
僅かな隙間から、至って平凡なタイトルの古ぼけた辞書を発見する。
本棚と思しき木片を無計画に打ちつけていたせいで、中途半端に粉砕した鋭い木片が牙を向いている。この牙をすり抜けるには、僕の身体では大きすぎた。僕は細い穴に大事なものを落としてしまった時のように、歯痒い気分に陥っていた。
唇を尖らせたセナに、探していた書物の在処を伝える。セナの小柄な体型を活かし、その細い腕を伸ばすと、いとも容易く辞書を拾うことに成功した。
「なんか、ちょっと湿っぽいよ……」
「ありがとうセナ。もうここに用はないから、帰ろっか」
「うん! ボクが一番に見つけられなかったのは悔しいけど、二人きりでデートできたのは嬉しい……ふふ」
そういえば帰り道もなくなってしまったんだ。どうやって帰ろうか、もういっそ野営してしまおうか。
「港町に戻ろう」
瓦礫の山を背後に歩き出した直後――殺気の様な、突き刺さる視線を感じた。恐る恐る振り向く。紅い魔法陣――悪魔だ。全身が震え上がり、言葉も発せずに口を開けていた。
「そこにいるの、誰!!」
人一倍周囲の変化に敏感なセナが、魔法陣に向かって包丁の先を向けた。
『ッハハハハハ!!!! まさかこんな所に俺の餌が二人もいるなんてなア』
狂気じみた笑みを浮かべる黒いローブの化物が、そこに立っていた。鎌を持つ手に皮膚はなく白骨化している。引き攣った顔の半分は溶け、その間を縫うように骸骨が見えている。
「アクアさんは早く行って! こいつはボクが殺る……」
「そんな……駄目だ! 危険すぎるよ!!」
『まア、どっちも殺すけド?? 特にそっちのゾンビちゃんは殺さなキャ……ネェ』
「……どういう意味」
『しらばっくれてんじゃねえヨ!! お前は父さんだけじゃなく、兄さんまで殺しタ!! ……大好きな……兄さん……。だから殺ス!! 死ねええええエエエエエエエ!!!!』
「させない!」
駛走するセナと、悪魔との一騎打ちが始まった。悪魔が鎌を振り回す――セナの首元を執拗に狙っている。セナは目に見えぬ速さで迫りくる攻撃を受け流すことに精一杯で、攻撃の余地がない。僕はなす術もなくセナを見守ることしかできなかった。
『ハハハ! いいね、いいねエ!! いつまで受け止めてくれるのかナー?? アっハハハハ!!!!』
「ッ……!! あ」
セナの手から包丁が弾き飛ぶ――。回転しながら地面に突き刺さり、静止した。
「セナ!!」
「アクアさん……! 逃げ────」
振り向いたセナの顔が――無い。
今にも倒れそうな、覚束ない足取りでゆらゆらと歩み寄ってくるセナの体――僕の目の前で立ち止まって――その手が、頬に触れた。
「あ……ああ…………セナ……」
切れ目から湧き出す血で、セナの純白なスカートは赤く染まっていった。それからセナは僕の方へ倒れ込んで、動かなくなった。
『ザマァ見ろ!! ハハハ!!! 死んだ死んだ死んだーー!!』
「…………許さない」
『あン? なあニ? 悪いけド、あんたみたいな非力ごときに、この第六の悪魔は倒せないカラ』
無慈悲な鎌の先から滴る血を見た。
僕は、心の底からふつふつと煮え滾るような憤怒を、何としてもこの悪魔にぶつけなければならない。セナの体を寝かせ、立ち上がった。
「許さない! セナを…………返せええええええええ!!!!」
セナの包丁を地べたから抜いて、悪魔に向かって振り翳す。僕は自分でも気がつかないうちに、悪魔の目前まで駆け出していた。包丁は悪魔の肩に突き刺さり、そこでふと我に帰る。――もうお終いだ。僕の心は達成感に満たされていた。
『……急所外しちゃいましタ? ……ざあんねん。じゃ、死――』
悪魔の足元から赤い煙が見え隠れしている。――その刹那、悪魔の体を火柱のような赤い炎が包み込み、盛んに燃え始めた。
『ア、アア、アアアアアア!? アツい!! 熱、いよア、アァァ……‼』
悪魔は真っ黒な灰となって消えた。
雨が降ってくる。大きな雨粒が僕の頬を撫でた。僕は、セナの死体を交互に見つめて呆然と立ち尽くした。
「セナ……ごめんね。君を、守れなかった……」
篠突く雨が、僕の慟哭を掻き消した。
僕はそれから、セナの体を抱き上げ、頭の側まで魂の抜けた人形のように足を動かした。雨に濡れて冷たくなったセナの体は綿のように軽かった。
「こんな姿は嫌だよね……。痛いかもしれないけど、我慢してね」
何も答えないセナの体と頭を寄せ、ポシェットから黄金の針と白銀の糸を取り出す。
セナの亡骸を見て耐えられる心を、僕は持ち合わせていなかった。針の穴に糸を通そうと試みるも、目尻は熱く、セナの顔はぼやけ、指の先から頭の先まで震えが止まらなかった。
何度も目蓋を拭っては、喉の奥から湧き上がる声を押し殺して、やっとの思いでセナを繕った。
「ご主人様」
閉ざされたはずの妖樹。その外方から現れたのは、紛れもなく僕が求めていた人物──レイセン君だ。剣を引き摺り、雫の滴る銀色の髪から覗く、眉根を寄せたその顔に僕は縋ったはずだった。
「どうして……もう少し、早く来てくれなかったかなあ……」
「……ご無事で何よりです。貴方だけでも……」
レイセン君は僕の肩に手を乗せると、今まで隠れて見えなかったセナの死体を目の当たりにして驚いた様子だった。
僕はあろう事かその手を振り払っていた──針を持つ利き手で。何よりも先に、己の腕が勝手に動いていた。
「無事なもんか!! 君があんな紙寄越すから、セナは死んだ。全部君のせいだ……」
考えなしに行動することがどれだけ愚かであるか、思い知った。
我に返ると、レイセン君が臍を噛んで、普段は隠れている右目を抑えていた。赤い涙が頬を伝う。
「レイセン君!! ……ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。すぐ治すから……!!」
「確かに、私のせいです。余計なことを口走ってしまったせいで。まさか、貴方がここまでするとは思っていなかった……今も」
私が馬鹿でした。そう自責するレイセン君は、治癒魔法によって癒えた右目を差し置いて、若干短くなってしまった前髪をかき分けていた。
「レイセン君……傷は大丈夫なの」
「……もう帰りましょう。衣服がずぶ濡れではありませんか」
「……君もね。……最後に、我儘なのはわかってるけど……セナに、エンゲイジリングあげてもいいかな」
僕は、僕を愛した人に、碧い指輪を贈った。はじめからこうしたかったという思いと、そうすることができなかった後悔が僕の心を染めた。それからセナを木の幹に座らせ、港町に戻るとレイセン君に告げた。
「これ以上は……また泣いてしまいそうだから」
「そうですか」
二度と振り返らないよう、セナの相貌を目に焼き付ける。愛くるしいその姿に、また会えることを願った。
レイセン君とベンティスカはエプロンを身につけ、採ってきたジェムの砂埃を払った。それからフライパンと、適当に開いていた店で手に入れた型と、染色液を用意していた。
チョコレートが作れそうな下準備だなあと、思わずそちらを脳内に思い浮かべてしまう。
「これで?」
「あとは私にお任せください。……上手くいけば、これで出来るはずです」
熱したフライパンに、角砂糖よりも少し大きめのジェムをぽんと放り投げる。すると結晶はみるみる溶け、そのまま液体となって残った。
「うわあ……‼ すごい‼ チョコレートよりも溶けるのが早いなんて‼」
「ああ、昔はそういった諺があったみたいですよ」
「え? なになに?」
「さあ……何と言ったか……」
レイセン君はベンティスカの質問を鼻先であしらうと、液体となったジェムを型に流し入れる。とろみがかった透明な水が、しっかりと型に嵌った。それから紅色の染色液を三滴垂らすと、それを吸い込むようにジェムは色を変えた。
「……これで、後は冷えるのを待つだけです」
「どれくらいかかるの?」
「朝には固まっているでしょう。……貴方の部屋に持っていきますか?」
「うん、そうする‼」
ベンティスカは両手で大事そうに型を包み込み、足取り軽く階段を駆け上がっていった。
「……まさか、本当にできるなんて。意外でした。もしかしたらこの後……」
「レイセン君、やっぱり作り方知らなかったんだね……」
「ええ、初めて作りました」
「すごいよ君は……あはは」
果たして作り方もわからないのに、本当にエンゲイジリングの形を作れるのだろうか。そんな僕の心配も杞憂に終わった。
レイセン君はくす、と口元を緩め、エプロンのリボンを絞め直すと、また調理場のキッチンで足を止めた。
「さあ、お待たせしました。ご主人様が一番楽しみにしていた、夕食の時間ですよー」
「僕が食いしん坊みたいな言い方するのやめてよー」
「ボクも手伝う」
今まで椅子に腰かけて舟を漕いでいたセナが、急に立ち上がりレイセン君の横についた。
「今日はビーフシチューとサラダ、それから、ジュレと檸檬のムースを乗せたデザートを作りましょう」
「じゃあ、ボクは野菜とデザートに使う果物切るね」
「任せました」
セナは盲目であるにもかかわらず、適切な調理方法で次々と料理を完成に近付けていった。
レイセン君の腕前は言うまでもない。二人は調理場でのみ相性抜群のようで、どこか楽しそうに、しかし料理には一切手を抜くことなく進めていった。
そういえば、何故レイセン君は、僕やグレイが手伝うと言ったときはあんなに懸念していたのに、セナのことはすんなりと受け入れたのだろう。何故だか悲しくなってきたから、これ以上は考えないことにする。
出来上がった食事が次々とテーブルに並べられた。僕の胃袋が喜びの声を上げる。
いつの間にかベンティスカも、ビーフシチューの芳しい香りに引き寄せられるように椅子に座っていた。
「わたしも手伝えばよかった」と半ば後悔した面持ちだった。
「いただきます! ……うん……美味しい~!!」
「ホント? ボクが作ったんだよそれ。えへへ」
「今日は助かりました。少なくとも、普段のご主人様よりは」
レイセンはセナに頷き賛同すると、辛辣な言葉を発した。
「うっ……それは言わなくていいよ!」
「ふふ……魔法使いさんは、料理苦手?」
「食べるのは好きなんだけど、作るのは……別かなあ……」
「そういえば……話は変わりますが、今日の夜は豪雨がやってきそうですね」
レイセン君の双眸は、確かに僕を見ていた。
***
いつも通り皿洗いを手伝い、いつも通りお風呂に入り、いつも通り寝る──フリをして、パジャマから普段の衣服に着替える。ここまでは完璧。あとはセナが僕の部屋を訪れるのを待ち、誰にも見つからずにこの宿屋を出るだけ。
自身の策士振りを発揮できたと、我ながら感心してつい口角が上がってしまう。
「アクアさん、来たよ」
セナが扉を開ける。ローブに身を包み、その裾からは白いロングスカートが顔を覗かせる。手首にカンテラを提げ、その手に包丁を持った幼子は僕の側へと駆け寄った。
作戦開始。直ぐに動くと怪しまれるから、三十分はこの部屋で待機する。
「ねえ……アクアさん」
「何?」
「探し物……探しに、行くんだよね」
「そうだよ」
「もし、ボクが見つけたら……指輪、作って欲しいな!」
実はもうあるんだよ、あげようか。──なんて言える訳もなく。セナの縋るような瞳に呑まれ、決して堅いとは言えない口を開いた。
「わかった。でもその代わり、僕が見つけたらもう少し先延ばしだよ?」
「それでもいい。勿論、アクアさんの手作り」
「え……僕が作るの?」
「うん! アクアさんのじゃないと、嫌だ」
「そっか。……じゃ、約束ね」
「やったあ!!」
セナが握った拳の小指を突き出して僕に差し出す。僕も同じように手で形を作り、小指同士を絡めた。セナの小さな手が、僕の手と交わり一層縮んで見えた。
窓の外は、街灯柱に支えられた照明街灯の仄かな明かりのみだった。僕とセナは顔を見合わせ、目で合図をした。
なるべく音を立てないよう、慎重に扉へ近づく。ドアノブを捻り、廊下に誰もいないのを確認する。セナに目配りをし、部屋を後にした。
僕の部屋は宿屋の一番奥で、向かいには二階へと続く階段がある。宿を出るためには、進行方向の斜め前にある、レイセン君の部屋を通らなければならない。固唾を呑んで、玄関口へと忍び歩く。悪事を働いた盗賊宛らのスリルを味わった。
レイセン君の部屋を通り過ぎると、調理場と居間が一つになった広間に出る。ここまで来れば、あとは外へ続く扉まで一直線だ。
「……や、やった! なんとか出られたね……」
「あはは。バレなくてよかった……。やっと、アクアさんと二人きりだ」
「うん。さ、行こ……折角ここまで来れたのに、見つかったら水の泡だからね」
セナは嬉しそうに頷いた。
「よおし、スペリォールの館はあっちだよ。セナ、カンテラ貸して」
二人で手を繋いで、夜の港町を走り抜ける。微かに漂う海の匂いに振り返ると、水面は月の明かりをぼんやりと写し出す鏡のようだった。
「うーんと、確かこの辺りだったんだけど……」
「なになに?」
以前妖樹を訪れた際に、スペリォールの館が現れたのは、この近辺のはずだ。今にも魔獣が咆哮を上げて襲いかかってきそうな、悲鳴にも似た風音が鳴り止まない妖樹のただ中で、僕は足を止めた。
「風だ……。セナ、来るよ!」
足元から旋風が巻き起こる。館が出現する前兆だ。
次第に風脚は強くなり、僕は突風にさえ飛ばされてしまいそうなセナの体を引き寄せた。
風が去ると、館は朽ち果てた瓦礫となって姿を現した。つい先日来たばかりだというのに、倒木からは蔦や苔などが生い茂っており、中には花が咲いている物もあった。
「セナ、もう大丈夫だよ。ここがスペリォールの館。僕が探し物をするって言ってた場所だよ」
「で、何を探せばいいの??」
「本だよ。辞書だから、多分厚みがあると思……」
セナは僕が説明をしている途中で、館の方へ走って行ってしまった。セナの指輪に対する欲は量り知れない。
「ぜったい、アクアさんより先に見つけるんだ……」
「あはは……。よおし、僕も頑張るぞ!」
僕は気合い十分に瓦礫の山を掻き分け、幾つかの書物が下敷きになった場所を見つけた。おそらくここが図書館であった部屋なのだろう。
一冊ずつ手にとっては題名を確認し、木の破片が邪魔でどうにも取り出せそうにない時には、装飾品と化した杖を使って掘り起こす。
僕がただひたすら木を叩き割る音だけが、夜の森に繰り返し反響した。
「あ、あれだ……。セナ! 見つけたよ!!」
「えーー? 見つけちゃったのー?」
「でも、ちょっと一人じゃ取り出せそうになくて……ここまで来てくれる?」
「……はーい……」
僅かな隙間から、至って平凡なタイトルの古ぼけた辞書を発見する。
本棚と思しき木片を無計画に打ちつけていたせいで、中途半端に粉砕した鋭い木片が牙を向いている。この牙をすり抜けるには、僕の身体では大きすぎた。僕は細い穴に大事なものを落としてしまった時のように、歯痒い気分に陥っていた。
唇を尖らせたセナに、探していた書物の在処を伝える。セナの小柄な体型を活かし、その細い腕を伸ばすと、いとも容易く辞書を拾うことに成功した。
「なんか、ちょっと湿っぽいよ……」
「ありがとうセナ。もうここに用はないから、帰ろっか」
「うん! ボクが一番に見つけられなかったのは悔しいけど、二人きりでデートできたのは嬉しい……ふふ」
そういえば帰り道もなくなってしまったんだ。どうやって帰ろうか、もういっそ野営してしまおうか。
「港町に戻ろう」
瓦礫の山を背後に歩き出した直後――殺気の様な、突き刺さる視線を感じた。恐る恐る振り向く。紅い魔法陣――悪魔だ。全身が震え上がり、言葉も発せずに口を開けていた。
「そこにいるの、誰!!」
人一倍周囲の変化に敏感なセナが、魔法陣に向かって包丁の先を向けた。
『ッハハハハハ!!!! まさかこんな所に俺の餌が二人もいるなんてなア』
狂気じみた笑みを浮かべる黒いローブの化物が、そこに立っていた。鎌を持つ手に皮膚はなく白骨化している。引き攣った顔の半分は溶け、その間を縫うように骸骨が見えている。
「アクアさんは早く行って! こいつはボクが殺る……」
「そんな……駄目だ! 危険すぎるよ!!」
『まア、どっちも殺すけド?? 特にそっちのゾンビちゃんは殺さなキャ……ネェ』
「……どういう意味」
『しらばっくれてんじゃねえヨ!! お前は父さんだけじゃなく、兄さんまで殺しタ!! ……大好きな……兄さん……。だから殺ス!! 死ねええええエエエエエエエ!!!!』
「させない!」
駛走するセナと、悪魔との一騎打ちが始まった。悪魔が鎌を振り回す――セナの首元を執拗に狙っている。セナは目に見えぬ速さで迫りくる攻撃を受け流すことに精一杯で、攻撃の余地がない。僕はなす術もなくセナを見守ることしかできなかった。
『ハハハ! いいね、いいねエ!! いつまで受け止めてくれるのかナー?? アっハハハハ!!!!』
「ッ……!! あ」
セナの手から包丁が弾き飛ぶ――。回転しながら地面に突き刺さり、静止した。
「セナ!!」
「アクアさん……! 逃げ────」
振り向いたセナの顔が――無い。
今にも倒れそうな、覚束ない足取りでゆらゆらと歩み寄ってくるセナの体――僕の目の前で立ち止まって――その手が、頬に触れた。
「あ……ああ…………セナ……」
切れ目から湧き出す血で、セナの純白なスカートは赤く染まっていった。それからセナは僕の方へ倒れ込んで、動かなくなった。
『ザマァ見ろ!! ハハハ!!! 死んだ死んだ死んだーー!!』
「…………許さない」
『あン? なあニ? 悪いけド、あんたみたいな非力ごときに、この第六の悪魔は倒せないカラ』
無慈悲な鎌の先から滴る血を見た。
僕は、心の底からふつふつと煮え滾るような憤怒を、何としてもこの悪魔にぶつけなければならない。セナの体を寝かせ、立ち上がった。
「許さない! セナを…………返せええええええええ!!!!」
セナの包丁を地べたから抜いて、悪魔に向かって振り翳す。僕は自分でも気がつかないうちに、悪魔の目前まで駆け出していた。包丁は悪魔の肩に突き刺さり、そこでふと我に帰る。――もうお終いだ。僕の心は達成感に満たされていた。
『……急所外しちゃいましタ? ……ざあんねん。じゃ、死――』
悪魔の足元から赤い煙が見え隠れしている。――その刹那、悪魔の体を火柱のような赤い炎が包み込み、盛んに燃え始めた。
『ア、アア、アアアアアア!? アツい!! 熱、いよア、アァァ……‼』
悪魔は真っ黒な灰となって消えた。
雨が降ってくる。大きな雨粒が僕の頬を撫でた。僕は、セナの死体を交互に見つめて呆然と立ち尽くした。
「セナ……ごめんね。君を、守れなかった……」
篠突く雨が、僕の慟哭を掻き消した。
僕はそれから、セナの体を抱き上げ、頭の側まで魂の抜けた人形のように足を動かした。雨に濡れて冷たくなったセナの体は綿のように軽かった。
「こんな姿は嫌だよね……。痛いかもしれないけど、我慢してね」
何も答えないセナの体と頭を寄せ、ポシェットから黄金の針と白銀の糸を取り出す。
セナの亡骸を見て耐えられる心を、僕は持ち合わせていなかった。針の穴に糸を通そうと試みるも、目尻は熱く、セナの顔はぼやけ、指の先から頭の先まで震えが止まらなかった。
何度も目蓋を拭っては、喉の奥から湧き上がる声を押し殺して、やっとの思いでセナを繕った。
「ご主人様」
閉ざされたはずの妖樹。その外方から現れたのは、紛れもなく僕が求めていた人物──レイセン君だ。剣を引き摺り、雫の滴る銀色の髪から覗く、眉根を寄せたその顔に僕は縋ったはずだった。
「どうして……もう少し、早く来てくれなかったかなあ……」
「……ご無事で何よりです。貴方だけでも……」
レイセン君は僕の肩に手を乗せると、今まで隠れて見えなかったセナの死体を目の当たりにして驚いた様子だった。
僕はあろう事かその手を振り払っていた──針を持つ利き手で。何よりも先に、己の腕が勝手に動いていた。
「無事なもんか!! 君があんな紙寄越すから、セナは死んだ。全部君のせいだ……」
考えなしに行動することがどれだけ愚かであるか、思い知った。
我に返ると、レイセン君が臍を噛んで、普段は隠れている右目を抑えていた。赤い涙が頬を伝う。
「レイセン君!! ……ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。すぐ治すから……!!」
「確かに、私のせいです。余計なことを口走ってしまったせいで。まさか、貴方がここまでするとは思っていなかった……今も」
私が馬鹿でした。そう自責するレイセン君は、治癒魔法によって癒えた右目を差し置いて、若干短くなってしまった前髪をかき分けていた。
「レイセン君……傷は大丈夫なの」
「……もう帰りましょう。衣服がずぶ濡れではありませんか」
「……君もね。……最後に、我儘なのはわかってるけど……セナに、エンゲイジリングあげてもいいかな」
僕は、僕を愛した人に、碧い指輪を贈った。はじめからこうしたかったという思いと、そうすることができなかった後悔が僕の心を染めた。それからセナを木の幹に座らせ、港町に戻るとレイセン君に告げた。
「これ以上は……また泣いてしまいそうだから」
「そうですか」
二度と振り返らないよう、セナの相貌を目に焼き付ける。愛くるしいその姿に、また会えることを願った。
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大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
藤吉めぐみ
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
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その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
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