死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第1部

#26 美しい魔物

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 息苦しい。
 冷たさだけが全身を覆い、身体の熱は奪われる。
 僕はここに居てはいけない。海を泳ぐ魚が、陸では生きられないように。だけど、身体は鉛のように重い。
 いっその事このままでも良いかもしれない。
 僕の成す事に意味はあるのだろうか。無意味な事ばかりだった気がする。
 口を開く度、歩を進める度、人が──仲間が、死んでいくのに。
 どうして、僕は生きているんだろう。
 僕は、どうして生きなければならないのだろう。
 答えが、欲しい──。
 誰か────。

 ***

──また、夢?
 吐き気に苦しむでも、目眩を起こすわけでもない。ここは混沌とした意識の中だ。僕の魂は身体と乖離してしまった。もうすぐ死んでしまいそうだというのに、僕は呑気を貫いている。
 暗い海の真っただ中にいたはずの僕は、目の前の景色に息を呑んだ。
──ここは。
「どうだい、ここは? 気に入ってくれたかな」
 右には大理石で作られたお城、左にはどこまでも続く青空。両端を隔てている廊下の上を、僕は歩いている。遠方には、逆さを向いた三角形の島が見える。
 意識、触覚、聴覚、視覚……この程度の機能しか働いていない僕は、少年の目を通して之を見ることしかできない。
「うん、とても楽しい! ……と、思います」
 気持ちの良い風が、二人の間をすり抜けていく。
 僕は──僕と同じ目線から老人を見上げている少年は、俯いた。気さくに話しかけてくる雪眉の老人に、調子を合わせてしまったのだろう。老人は嗄れた声で生き生きと笑う。
「ハハハ、気にしなくても良いというのに」
 気難しい関係なのだろう。少年はまた顔を上げ、それにしてはあまりにも背が高すぎる老人の顔色を伺った。
 老人の顔は立派な白髭に隠れて殆ど見えていない。
──いや、本来は見えるはずなのに見えない。
 老人の顔全体に靄がかかって、どこから顔を覗いたとしても、この違和感は剥がれないような気がした。そして、僕はこの人を知っているような既視感を覚える。理由はわからない。少年の記憶が、僕に反映されているとでもいうのだろうか。
「失礼じゃ、ないんですか? その……僕がそういう話し方をするのは」
 僕の意識に答えを投げかけることもなく、二人は廊下を歩いていく。
「ああ、勿論だとも。私にはその気持ちだけで十分。ここにいる人たちは、皆同じことを考えているはずだから」
 黙り込んでしまった少年は、か細い老人と繋いだ手に、より一層力を込めた。
 つまり、君にできるだけ早くこの場所に馴染んでもらいたいのさ。と、老人は優しい声で付け加えた。
 ところで、この二人はどこへ向かっているのだろう。僕が疑問を浮かべていると、少年と老人はまるで察したかのように足を止めた。
「さあ、着いたよ。おーい、居るかー?」
 城外へと足を進め、遠くに見えていた島が目前に控えている。立ち止まった長老は、精一杯声量を上げて誰かを呼んだ。
「呼んだ? じいじ」
 見たこともない花々と蔦に満たされた空間から、ガラスの様に透き通った青い瞳の少年が、ひょっこりと姿を現した。
「ああ、メルド」
──メルド。なんだか懐かしい名前だ。
「この子が✕✕✕だ、ここに来たばかりで馴染めないようだから、仲良くしてやってくれ」
──また、雑音だ。頭痛もひどい。
 メルドと呼ばれた少年は頷く。金の糸のように美しいショートヘアが揺れた。
「一緒に遊ぼう、紅茶を用意してあげる」
「あ……えと……」
「ほらほら、行ってきなさい」
 親切な老君に背中を押され、少年は差し出されたメルドの手を取る。暖かな手の温もりに、少年は微笑んでいることだろう。それから二人は、花園の奥へと駆けて行った。

「君の目は綺麗だね、綺麗な青をしているよ」
「それはメルドだって同じ、でしょ?」
「ああ……そっか、そうだったな。クスクス……」
「あはは……」
 メルドの淹れた紅茶を啜りながら、二人は談話の花を咲かせている。傍観者の僕には紅茶の味がわからない。奇しくも、味覚は持ち合わせていないようだ。
「ねぇ、メルドはどうしてここに居るの?」
「ん? 俺か、俺は……」
 顔に見合わない一人称をぼやいて、メルドは唇に手をあてがった。老父に散々叱られても、この一人称だけは直す気がないんだ、と言っていた。
「説明が難しいけれど、抽象的に表現するなら……間違った道へ進もうとしている者を、正す。そんな役割を果たせるようになりたいと思っている。それが、俺を殺してまでそう願った父への手向けになると信じている」
 幼い見かけによらず、メルドは淡々と難しい言葉を並べた。こんな事を誰かに話したのは初めてだ。メルドは照れ隠しに、清楚な襟元のリボンを結び直した。
「ふぅん、何だか難しそうだね」
──メルドは父に殺された。つまり、死んでいるのだろうか。
「言葉では簡単に理想を造り上げられる。……じゃあ、次は✕✕✕の番」
「僕? 僕は──」
 少年が全てを言い終わる前に、メルドがカップを荒々しく置いた。テーブルは大きな音を弾く。少年は肩を萎めた。
「お前……誰だ」
「え……?」
 メルドの穏やかな口調が一変する。僕は察してしまう。
「ちがう。お前を通して、他の奴が俺を見ている」
 そう、メルドは僕に気づいた──。
「お前を……俺は知ってる……」
 少年は何も言わない。その殻は破られたのだから──。
「忘れもしない……を……えせ……」
「おれの✕✕✕✕✕をかえせ」
 人形のように美しいメルドは、化物だった──。

 ***

「……ちょっと?! まだなんですの? 早く引き上げてくださいまし?!」
「そんな事言われたって! 水の重さが加算されて僕の力じゃ限界がある!!」
「本っ当に情けないですわね! そのお方の片腕貸しなさい、手伝いますわ!」
「ああ、もう少し……これならいける! 一気に引き上げよう」
「せーーの!!」

 僕は引き上げられた。全身は水浸し。飲み込んでしまった水が胃の中で渦巻いて、僕は噎せた。
「よかった、意識が戻ったみたい」
 僕は返事もできず、夕陽に長い時間晒されて生温くなった木の板に張り付いていた。
「全然よくないですわ! しっかりしてくださいまし、アクアさん」
 どうやら僕のことを知っているらしいその声はあどけない。小さな手が、僕の背中を撫でているのがわかる。
「うっ……?」
 僕は、優しく背筋を撫で続けている人の顔を見上げようとした。海水でも飲み込んでしまったのだろうか、吐き気と共に冷や汗が吹き出た。
「アクア大丈夫? ……ではないよね、一体何があったんだ」
「……何がって、えっと、急に水が……」
「水? 泳いでたんですの?」
「いや、そうじゃなく……て」
──あれ?
「そういえば、あの──」
「レイセン君は!! 見かけなかった?!」
 この時、僕は全てを思い出したが、説明している暇も余裕もなかった。
 ノアが静かに頷く。
「見てない。もしかして、彼もここに?」
「きっとそうだよ!! どうしよう、レイセン君、瓦礫の下敷きになって動けないかもしれない……!! 早く助けに行かないと……」
 ──気が動転している。そんな言葉が今の僕にぴったりだと、第三者の僕が言う。
「いやですわ! 何をしているんですの、アクアさん!!」
 再び海水に飛び込もうとする僕を、ノアが押さえつける。フィリアの小さな手が僕の腕を掴んだ。
「アクア落ち着いて!! 行くなら、僕が行く! ね?!」
「駄目なんだよ!! ベンティスカも死んで、レイセン君まで居なくなるなんて嫌だ!! 嫌なんだ……!!」
 僕は自身の無力さに膝をつき、か細い声で呟いた。
「お願い……助けて……」
 少し離れた水辺から、魚が飛び跳ねるような音が聴こえた。
「ちょっと、ノア……あれ!!」
「え……あっ!! あれは」
「オール! オールを!!」
「わかってる!!」
 フィリアとノアは僕が聞いたのと同じものを目指してオールを漕ぎ出す。
 何かが、浮いている。人の、頭だろうか。
 あぁ、これは、あの銀色の髪は──。
「レイセン君!!」
 僕の叫びに振り返る、群青色の瞳と目が合う。
 レイセン君はゆっくりと舟に近づく。近づくにつれて、流れきらなかった痛々しい傷が、僕の目には鮮明に映った。
 僕はレイセン君を船に引き上げ、治癒魔法をかける。それから僕は彼の肩を掴んだ。
「どうして、あんなことしたの」
「貴方が生きていなければ、意味がないのです」
「そんなのわかってる」
「他に理由が?」
「いや、ううん。違うんだ。僕が言いたいのはそうじゃなくて……えっと……」
 僕は怒る気力もなく、ただ抱きしめた。冷たくも熱を持ったレイセン君の身体を温めるように。
「君がいないと、不安になるんだ。怖くて、怖くて……」
「ご主人様……」
「もうこれ以上、君を身代わり人形みたいに苦しませたくないんだ……だから」
「…………」
 フィリアが二つの頬を林檎のように膨らませ、僕らを睨む。
「もーーー!! お二人共、いい雰囲気になるのは後にしてくださいまし! 帰りますわよ!!」
「帰るって、どこに?」
「コ・テ・エ・ジ!!」
「君たち、ずぶ濡れじゃないか。このままだと風邪ひいちゃうし、もう夕方だし。船に乗る前この近くに、コテージを建てるのに良い場所見つけたから、今夜はそこで休もう」
「お気遣い、ありがとうございます」
「うん、じゃあ停船場に戻ろうか。ほらフィリア、オール漕いで」
 ノアが位置につくと、フィリアはまたむすっとした顔になる。
「え~~? フィリアもう疲れましたわ」
「さっき三分くらいオール触っただけだよね……」
「だってフィリアは子どもですから!!」
「では、私が」
 レイセン君がノアと正反対の場所で座る。
「フィリア、オールを貸していただけますか」
 フィリアはもぞもぞしながら、両手に握りしめたオールをちら見した。
 革鎧も肌も血で汚れた青年に話しかけられたら、確かに少し怖い。
 しかもレイセン君は、お世辞にも表情豊かとは言い難いから、なおさらだ。
「で、では、おねがいしますわね」
 フィリアは丁寧にオールを手渡した。
「ありがとうございます」
 緊張の糸が解けたように、鞄から取り出した小さなダイスを膨らませたフィリア。彼女の背の半分はあろう大きさになると、膨張は止まった。そこに腰掛け、オールを漕ぐノアと談話している。
「レイセン君、もう傷は大丈夫?」
「ええ、貴方こそ」
「ああ……うん。僕は平気……」
 脳裏に電流が走るように、さっき見た夢を思い出す。
「ねえ、レイセン君」
「なんでしょうか」
 僕は聞いてみたくなった。もしかしたら、レイセン君なら、知っているかもしれないと思った。
「メルドっていう人、知ってる?」
「知りません」
「……そっか。うん、わかった」
 夢から覚める直前に見た、あの悍ましい顔が忘れられなかった。
 皮膚は赤く爛れ落ちて。
 瞳孔は白を飲み込んで。
 赤い涙が流れて。
 それが、僕を許さないと言った。
 僕は恐ろしくなって一人、黙り込んだ。
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