死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#55 第八の悪魔

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 目蓋の重さを感じる。カーテン越しの窓の外はまだ薄明るいが、じきに夕焼けが訪れるだろう。
 どうやら僕は便意を催して、目が覚めてしまったようだ。
「えっと、トイレどこだっけ……」
 独り言を呟きながら、借りた寝室のドアノブを握る。
 手首をひねって手前に引くと、あまり見慣れない廊下が見える。幅は狭く、縦に長い廊下だ。
「たしか……こっちだったはず」
 アイネに教わったお手洗いの場所までの方向を思い出しながら、細い道を辿る。
 僕は、寝ぼけ眼で歩いていったことをすぐに後悔することになる。

「ええ……どの部屋だっけ??」
 用を足して再び廊下に出ると、僕は迷子になっていた。
 というよりも、どのドアが僕の寝室に繋がっていたか、それが曖昧なのだ。
 片っ端から部屋を開けていくという無神経さを、僕は持ち合わせていなかった。
 それで、もし、エレナの寝室を開けでもしてしまったら。リビングの扉を開けて、レイセン君に余計な心配をかけてしまいそうだ。そんなことを考えてしまい、気軽にドアノブを触ることさえできない。
「──ん?」
 ある扉の前に、見慣れない人が立っている。僕は違和感を覚えた。その部屋は、僕の寝室にかなり近いような気がした。
 金髪で、アイネと同じような、白いローブを着ている。しかしそれは問題ではない。男性はこちらを振り向くこともなく、うつむき加減のまま佇んでいる。
 僕に気がついていないのだろうか。
「あの……どうした──」
 僕が声をかけるやいなや、男性は歩き出した。その先は扉で遮られているというのに。
 それから僕の目には信じられないような光景が映った。白のキャソックを着た男は、俯いた姿勢のまま扉の奥に消えていったのだ。ドアを開けることもせずに。
「…………」
 男性が、僕をあの部屋に呼んでいるのだと思った。更に歩いて、男性が突っ立っていた扉に近づく──。
「……!?」
 驚きのあまりに声が出ないとはこういうことを言うのか、と僕は思った。
 金髪の神父が、また同じ姿勢で、同じ場所に現れたのだ。
 暫く様子を見る。やはりこちらには気づかない。よく見ると、男は銀縁のメガネをかけている。
 一定時間静止していたかと思うと、ドアの向こうへ吸い込まれていった。
──やはり、呼んでいるのだ。僕は臙脂色の艶がかった扉を開けた。

 最初、目についたのは最奥のステンドグラスだった。黄色の髪をした女性が、赤子を抱いている絵が印象的だ。
 祭壇の上には、棺桶が置かれていた。
「……また……」
 長い椅子の列なりが二つある。中央は祭壇へと続く道がひらけており、赤絨毯が敷かれていた。
 最後尾よりも更に後ろで、先程ドアの前にいた男性が、俯き加減のまま立ち尽くしている。僕からは垂直の位置だ。
「…………」
 彼はそのまま、祭壇の方へと歩いていく。長椅子の列の真ん中辺りまで進むと、始点に戻って、再び真っ直ぐ歩きだしていくのだ。
 おそらくだが、一際目を引く棺桶──あれを調べてほしいと伝えているのだろう。
 僕はなんとなく男性の歩いている道を通りたくなくて、入口側の壁沿いに、祭壇まで向かった。
 そして、こちらに向かって繰り返し歩き続けていることだろう神父を背にして、棺桶の蓋を開ける。
「あ、この人……は……」
 神父の男と同じ金の髪をした、幼い少年がベッドで眠りにつくように、仰向けで眠っていた。
 僕はこの少年に見覚えがある。以前朦朧とした意識の狭間で出会った、メルドという少年だ。
 人形のように整った清廉な顔立ちに、息を呑む。長い睫毛、滑らかな白い肌、艶のある髪。少年は、声をかければ今にも目を覚ましそうだった。
「おやあ? どうされたんですかあ、アクア様」
「うわあ!? ……あ、アイ、ネ……」
 隣に人が立っていると反射的に振り向いた僕は、背後の声に驚いて体を反転させた。
「あはははは、驚きすぎですよお。それはそうと、どうしてこちらに?」
「いや、それが……迷っちゃって……」
 きっと扉を通り抜けたり、同じ行動をループしている神父のことを話したところで、ただの幻覚だなどと言われてしまうのが目に見えていた。
 僕は正直に、事実の半分を話した。
 それにしても、アイネ──彼はいつからここにいたのだろうか。音は全くと言っていいほどしなかったのに。
「そうですか、まあ、ここドアしかありませんからねえ。最初はどれがどの部屋か、覚えづらいのはアイネさんも同意見です」
 黒いキャソックの男は、僕の隣へ来て棺桶を覗くように体を動かした。
「あ、ごめん。勝手に開けちゃって……」
「いえいいんですよお、それは。……この人形は父の子ども──の姿を真似た人形です。よりにもよってあのクソみたいな父親は、こんなに美しい彼ではなく、アイネさんのような奇形の人を愛したのですよ。……おっと、アクア様には関係のない話でしたねえ。失礼しました」
 僕は目をぱちくりとさせた。レイセン君ならば、疑問がすぐに思い付いて、アイネに問い詰めていることだろう。
 イメージよりも少し遅れて、僕は単眼の青年に尋ねた。
「この、人形の名前は?」
「ええーっとお……何でしたっけねえ。マルタ? いえ、ミレル、うーんムード、メリル……」
「……メルド?」
「ああ、そうです! 確かそんな名前でしたあ。アクア様は感が鋭いのですねえ、まるで蛇のようだ」
 やはりアイネの言うことは、ときおり全く意味がわからない。僕はそう思っていた。
 小さく首を傾げた僕に、黒髪の男は笑いかけた。
「褒め言葉ですよお。さ、戻りましょう。礼拝堂は今や、未練がましいパパの懺悔室でしかありませんし、気分があまり良くないですから」

 ***

「はあ、アイネさんを旅に……? いいですねえ、そういうの。でもお外は危険がいっぱいじゃないですかあ。そういうのってどう対応してくださるんです?」
 夕餉を終えた後のことだ。僕たちは、アイネに旅の同行を頼んでいた。レイセン君もエレナも、この話を椅子に座って聞いている。
 理由は、強いて言うなら今まで出会った人々に、例外なくそうしていたから。
 そして、まだ誰にも渡したことのないエンゲイジリングが一つ、残っていたから。
 旅への誘いは、この二つの条件を併せた結果だった。
「ああ、それはね。……この、指輪なんだけど」
 僕は寝室から持ってきたポシェットの中身を漁る。そうして拾い上げた黒い箱を開けて、紫色の指輪を取り出した。
「ほうほーう。で、この指輪がどうしたんです」
「これはエンゲイジリング。身に着けていれば、怪我をしても僕が治せるから……」
 興味津々といった表情で指輪を覗き込んでいたアイネが、首を縦に何度も振る。
「なるほど! なんだか神秘を感じます、そんなものがこの世界にもあるんですねえ! さては皆様、異界の星からやってきたとかですかあ?」
「…………」
「──え、アイネさん、なにかまずいことを言いました?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
「ほっ。良かったです、では、その面白そうな指輪、アイネさんに渡していただけません?」
 僕が再度良いのか、と聞くと、単眼の青年は頷いた。
「ここにずっといるのも、なんだか刺激がなくて……。それに、アクア様たちのお役に立てるかどうか……。あ、そうです。アイネさんの家族であり武器でもある、ピクトさんたちを紹介しましょうかあ」
「ああ、あそこにいる……」
 僕の動きに続くように、レイセン君とエレナも同じ方向に視線を向ける。
 リビングのテーブルから三歩離れた暖炉の前に、ピクトと呼ばれる人型の生き物が五人、丸くて背の低いテーブルを囲ってパンくずを食べていた。
「まず、赤いのがコキノ。彼はすごく元気で、よく騒いでいます。そしてその隣の黄色いのがキトゥリノ。おてんばで人の話を聞かない、わんぱくな女の子です。それから真ん中の青いのがブレ。大人しい子ですが、本が好きでよく読み聞かせてやってます。ブレの隣にいる紫っぽいのがマヴロで、アイネさんから見てもミステリアスな子なんですよお。で、最後の白いのがアスブロ。五人の中で一番面倒見が良くて優しい子です」
「へえ……ちゃんと名前もあるのね、なんかかわいくて、ずっと見ていられそう……」
「最初だけですよお、三日も一緒に過ごしてみなさい。もう本当に、普段は騒がしいんですから」
 ピクトたちは照れているのか、僕たちの会話を聞いても全く反応を見せなかった。ひたすらパンくずを手で掬っては、口元に近づけて溶かしている。
 その様子を眺めていると、暖炉の温かさに触発されたのか、思わず欠伸をしてしまう。
「……いつもより遅めの夕餉でしたし、今眠くなるのも仕方ありません。シャワーを浴びて、今夜はもう眠りましょう」
 レイセン君の呼びかけに賛成し、僕は席を立った。

 ***

 朝、朝食を食べ終えて一服した僕たちは、更に北へと向かって旅を再開した。
「……あの人は」
 僕たちが教会を後にして、小一時間ほど歩いた時のことだった。だんだんとあたりが暗くなってきて、朝は青々としていた空に雲がかかっている。
「はじめましてでは、ありませんね。お久しぶりです」
 スーツ姿の青年が、僕たちに向かってお辞儀をした姿勢で立っていた。
 青年は顔を見せる。口角が僅かに上がった。鼻筋が通っていて、唇はかすかに赤く熟れている。しかし、その男の右目には何もなかった。吸い込まれそうなほど深い闇が続いている。空洞になった右目とは対照的に、左目から血のように赤い涙が張り付いていた。
 これが、青年の本来の姿なのだろうか。僕はそう思った。
「今度はなんの用……?」
「そういえば……まだ名を名乗っていませんでしたね。皆さんのことは存じ上げていますので、名乗る必要はありませんよ。僕はルドルフ、第八の悪魔でございます」
 体中に稲妻が走るように、神経が尖った。それは僕だけではなく、レイセン君やエレナ、アイネも同じだった。
「悪魔……ですって? アイネさん、悪魔だなんて聞いてませんよ」
 ルドルフという男は、女性らしい手の動きで口元を隠して、喉で笑った。
「教えなかったんですよ。貴方に嫌われたくありませんでしたから」
「それは知りたくはありませんでしたねえ、初恋が終わってしまいそうです。……あ、いえまだちょっとだけ踏みとどまっていますけど」
 僕は、この二人に何かしらの関係があるということを悟った。あまり深入りするべきではない事だと思う。
 アイネの冗談交じりな返答に戸惑いながらも、悪魔である青年に問いかけた。
「ここで殺るの」
「ふ、ふふふ……そうではありませんよ。僕は迎えに来ただけです」
「……迎え?」
 口元を隠していた手をおろした青年が、鋭い目つきでこちらを見ていた。その眼力に、僕の体は打ち震える。
「はい、今までも何度か機会を伺っていたのですが。周りの不純物が減っては増えて、減らしても増えて……。二人になるのを待つつもりでいましたが、これでは埒が明かないので、自ら出ることにしました。……もう、こちらも数が少ないので」
 最後の言葉を拒絶するように、レイセン君が前に出た。
「──質が悪い。自分で撒いた種のことすら覚えてないとでも」
「いいえ、覚えていますよ、全部」
 どういうことだろうか。僕はレイセン君に声をかけるつもりで質問する。
「……監獄メイで第七の悪魔が、ご主人様を仕留めようとしていたとき。ご主人様の背後に立っていたでしょう、彼女の邪魔をするために」
──なんで……そこに……いるの……?
──やめて……そいつを、殺せない……攻撃できないいいいいい!!!!
 第七の悪魔──アリッサムの声が脳裏にこだました。狂気に満ちた甲高い声だ。あの時、彼女がひるんだ理由はそれだったのか。
 あの間がなければ、僕は死んでいただろう。けれど、悪魔が悪魔を殺すなんてあり得るのだろうか。
「どうして、そんな事を……」
「だって──そうしないと、僕が生かしておきたい人が死んでしまうから、ですよね。お兄様?」
「……!!」
 悪魔は笑っていたかと思うと、真剣な眼差しをしていた。新しい呼称を聞き、その意味を探るのでいっぱいになり、思考は止まる。
 外道が。レイセン君が小声でそう呟いた。悪魔の言う「お兄様」は、もしかして──。
「お兄様を生かしておくには、彼を生かしておく必要があるというのはなんとなく。──でも、わかりませんでした。何故貴方が彼を擁護するのか、ひょっとしたら一緒にいる必要なんてないのかも……と」
「──黙りなさい。ご主人様、もういいです。あれの話は聞くだけ無駄です」
「おや、手出しさせませんよ」
 ルドルフが前のめりに覗き込むような姿勢になる。途端、青年の体が蒸発するように、霧散した。
 それぞれの粒は蝙蝠のような、黒い蝶のような形を成している。群れの形が、青年の姿を象っているようだ。
「こっちに──来る!!」
 エレナが声を上げた。
 次の瞬間、黒い大群が僕たちに襲いかかった。
 凄まじい勢いの風に、目も開けていられない。
「う、うう……」
 風が過ぎ去ったと感じた僕は、上げた左腕をゆっくりと下ろし、目蓋を開けた。
 悪魔の残り香が漂っている気がして、空を見上げる。木々の隙間から、塔の天辺が垣間見えた。あそこに逃げ込んだのだろうか──。
「ねえ、アクア! レイセンがいないわ」
「そんな、レイセン君……」
「あの悪魔……ええ、そうですよ。きっと初めから彼を狙っていたのですよ、間違いない」
 僕は地面に膝をついた。思わず出た、長い溜息と共に、不安と絶望が体に染み込んでくる。
『さあ、帰りましょうお兄様。僕はずっと待ち望んでいました。これで、もう……』
 風が、ルドルフの記憶を一緒に運んできた。音声だけで記憶には残らない映像が、しばしの間、脳裏で繰り返し流れていた。
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