死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#64 列車に乗って

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 峡谷を渡ると、その先にはオプス=デイへと向かう列車がある。
 僕と青年は朝食を摂ると、食べ物を日持ちするように加工してポシェットに詰めた。ここから先は、まともに休める場所があるかどうか、定かではないらしい。
 朝から太陽は見えず、空にあるのは敷き詰められた白い雲の集合体だけだ。礼拝堂から歩いて一時間ほどのところで、ネプロブス大峡谷の橋を見つける。ここは腥風のにおいが強い。
 霧のせいで視界は悪く、見えるものといえば足元のオレンジ色をした地面と、橋の入口くらいだ。長さにして三歩先あたりまでが可視範囲だと言えよう。これから渡る橋は近頃建設されたように真新しく、白樺の木で作られた見た目は丈夫そうに見える。
「どうしたの? 具合悪いの……?」
「いえ……そうではありません。ただ、その……」
 橋を渡ろうと足を踏み出す。後ろを振り返ると、銀髪の剣士は線引きをされたように橋の前で佇んでいた。鉈剣を握りしめた右腕を、反対の手で抑えている。
「行こ、大丈夫だから」
 怯えるような目をした青年に、僕は手を差し出すと微笑んだ。微笑むというよりも、口角を少し上に持っていくことを意識していた。
 レイセン君は今、内面を覆う皮が非常に薄く傷付きやすい状態にある。故に不安に駆られやすい時期が来ているのだと思う。しかしだからといって、僕は彼を軽蔑したりはしない。むしろ寄り添うべきだとさえ感じている。
「…………」
 青年は僕の手を見つめる。この手の意味を、時間をかけて理解すると僕の手を握った。革手袋に包まれた細い指をしっかりと握り返し、下から轟音のような嘆きが聞こえる橋を渡った。

 橋を渡り切ると、嘘みたいに霞が晴れ、まるで絵本の中にいるようだと錯覚しそうな光景に出会う。
 天色の空と一体化するように湖が広がっていて、小鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。ここでは青い羽の生き物が、突然草むらから現れたとしてもおかしくないだろうなと僕は思った。
 今まで僕たちが歩いてきたどの世界とも一線を画するほどに美しい。あの霧の隙間から覗く、黒い泥のような川の不気味な白樺の上を渡ってきた後であれば尚更だ。
「ここ、眺めが良いね……今まで見てきたどんな景色より、ここが一番綺麗だと思うな、僕は」
「こんな景色がまだ残されている、素敵ですね」
 頷いた僕は、絵本のような世界に一歩踏み出した。一歩目を出すと、自然と二歩目が飛び出し、早々に列車の見える桟橋の横にたどり着く。
「すごいすごい! レイセン君も見てよ、線路がずうっと向こうまで続いてる」
 感動のあまり桟橋を駆け抜けていた僕は、後ろを振り向いて、離れてしまった青年を大声で呼んだ。
 青年は桟橋の前に立てられたポストのようなものに触れ、しばらくすると歩いて僕の方へと向かってきた。
「お待たせしました……線路ですか?」
「うん、えーと、それは何?」
「切符です。こちらの列車に乗るためには、必要なもので……」
 青年が見せた二枚の長方形の紙面を見ると、切り取り線を堺に可愛らしい赤と黄で色づけられている。そういえば、ついさっき青年がポストのような箱の狭い口に硬貨を流し込んでいたようだが、その代わりに出てきたのがこの紙切れということだろうか。
「この列車、いつ動き出すの?」
「どうでしょう、勝手に発車されても困りますし、中へ入ってみますか」
「そうだね。ううん、僕たちの他に誰かが乗るとは思えないんだけど……どうなんだろう」
「クク、貸切状態というのも悪くはないでしょう」
 こんな──ある意味では──辺鄙な場所へと、人が来るようには思えなかった。
 僕たちは息を合わせて、今一度列車の脇に広がる湖を一望した。どこまでも透明で、それでいて湖は空の青さを受け、ひそかに波打っている。
 辺りには他の島らしきものも見当たらない。しかし線路の先へ視線を動かすと、果てしなく向こうには白い塔のような建物が雲を突き抜けるように建っていた。一見竜巻のようにも見える。
「あれがオプス=デイなのかな」
「いいえ、あれはただの通り道に過ぎません。あの雲の更に上、延いてはこの世界を脱します。オプス=デイとは、そういった所にあるのです」
 それから二人で、蘇芳色で一列に連なる三つの列車のうち、真ん中の列車へ乗り込んだ。列車に乗るとすぐに入口の扉が閉まり、汽笛が鳴る。まるで僕たちが中へ入るのを待っていたかのようだった。
 暫くすると車輪が動き出す音がしたので、木の板が並ぶ床を踏み鳴らして椅子に座る。レイセン君も僕の隣に腰を下ろした。
 僕たちが乗った列車は着々と線路の上を走り続けた。ガタンゴトンという音と共に、僕たちを乗せる四角い箱そのものが揺れた。
 座っている椅子の下で線路の凹凸によって発せられる響が、振動になり体に伝わってくるのがたまらなく心地よい。
 景色は青々としていて、それでいて何時間でも眺めていられるほどだ。毎日でもここへ来たい、こんな場所で生活したいとまで思った。
 僕は椅子に対して体を斜めにして、自然と心が惹かれるほどの絶景を窓から眺めた。窓から視線を外すと、背筋を伸ばして丁寧に座る青年が見える。目が合うと、互いに少し首を傾けて微笑んだ。

 次に僕が目覚めたとき、無理な姿勢で屈んでいたせいで苦し紛れに咳き込んだ。それから今度こそ死んだのではないかと思った。
 そうだ、落ちた。突如として、わけもわからずに落下したのは確かだ。
 その中で唯一目に写った光景。それは「穴」だった。大きな穴──まるでそこだけ綺麗に切り取られたようにどす黒い空間があって、当然のように列車は穴へと落下していった。あとは色んな所にぶつかっているうちに意識を失ったので、覚えているのはここまでだ。
「……っ、痛い……」
 体を動かすと鈍い痛みが肩を走り、呻き声を上げる。見ると掌ほどの大きさのガラス片が、肩に刺さっていた。手袋が破けたり太腿から出血していたりと、この短時間で一気に満身創痍になってしまった。
 一先ず体を動かすためには、この痛みを退かさなければならない。僕はガラス片を掴むと両目を瞑り、慎重に動かしたつもりだった。抉られるような激痛で、また呻き声を出す。
 喉を鳴らしているうちは、痛みを感じる意識が半分以下になると気づいた僕は、声を落としながら再び肩に刺さった棘を握り──逡巡せず引き抜いた。
 血が出る。喉仏がはち切れんばかりに叫んだ。
「……レイセン君……あれ、どこ……?」
 僕たちが乗っていた二列目の列車は、一列目の列車に乗り上げて縦に、車体ごと傾いていた。
 幸いにも外と通じるドアはすぐ隣にあり、僕は粉のように散らばっているガラスに気をつけながら、這いつくばって列車の外に出た。
 白い砂漠の上に降り立つ。周囲を見ると、ルビー色をした岩が彼方こちらに聳える。これもある意味では幻想的と言えるだろう。
 中でも僕の視線に釘を打ったのは、白い砂の上でびくともせず倒れている、見慣れた鎧の青年だった。
「落ちた時に……投げ出されたんだ……」
 体の熱が頭から足に向かって一気に冷める。気づけば足を動かしていて、けれど痛みからぎこちない走り方になり遂には砂に足を取られた。頭と体が分離し、頭では指示が発せられているものの、体がそのように動かないのだ。
 青年の腕や脚が、本来ならば曲がらないはずの方向に折れてしまっている。僕は自分が青年に近づくことよりも、治癒させることを優先した。
「──あれ、おかしいな。やっぱり、前はここまで回復に時間はかからなかったような……」
 独り言のように呟きながら、青年の腕や脚といった部位が正常な向きに戻っていくのを見ていた。

 それから僕とレイセン君は、広大な砂漠の上を歩いていた。歩くというよりも、彷徨うという方が近いだろう。忽然と右も左も分からない場所へ落とされた僕たちは、戸惑いながらも前進していった。
「レイセン君、ここがどこだかわかる?」
 青年は首を横に振った。
「いいえ……。先程私たちが乗っていた列車が落下したことから推測するに、この世界は三層構造であり、その最下層となるのがここなのでしょう」
「にしても……空は黒くて、地面は白くて……目がチカチカしてきた……」
 時折、砂に足を取られる。それ自体には困らなかった。だが蓄積されていくとそれは疲労となり、身体への負担を自覚し始める。
 加えて透明な赤い飴玉みたいな岩石の横を通り過ぎようとすると、岩石が自我を持って浮かび、付近にあったいくつかの岩たちと合わさって人擬きの姿を成した。彼らは僕たちを敵と見做して襲いかかった。
 ルビーの巨人は、人ふたり分程度の身長こそあれ動きが鈍く、僕の矢と青年が放つ氷の剣に当たると、いとも簡単に粉砕された。
 そこへ、今度こそ一直線上に死を連想させるものが現れた。
「……アルケミスト!! なんで、ここに……」
 山のように大きな黒い生物が、突如として目の前に出現した。瞬きの合間だった。こうなると、話は変わる。僕たちは、あと一歩で脚を踏み外す崖の縁に立たされた。
「首付近が見えますか、ご主人様。あれは……」
 首が痛くなりそうなほど上を向くと、「それ」を見つけた衝撃に言葉を失った。
 まず水色の髪をした怪物の顔が目に入る。怪物の目も口も、闇をいっぱいに吸い込んだ後の洞穴のようだ。シルエットが本来の少年像を想起させ、身震いした。
 それからレイセン君に言われた通り、視線が頭部を下っていく。以前アルケミストに遭遇した際にはなかったものが、頭と胴体のちょうど真ん中あたりに佇んでいた。遠くて顔がまるで見えないが、桃色の髪ですぐにわかった。
「フィリ……ア……!?」
 少女は両手両脚を四方に引っ張られた状態で、まるでアルケミストの一部のようだった。両手は頭の方へ、両脚は胴体の方へと伸び、粘り気のある黒い液体と溶け合っている。
 フィリアの意識はあるのだろうか。それとも、自我は本当に怪物の一部となり消えてしまったのだろうか。
「いえ、あれは、もう……」
 青年は僕の疑問に対する答えをもう持っていた。少女の顔を見たのだ。
 そして僕たちには打つ手がない。アルケミストを前にして、味方として捉えられているはずのない僕たちは羽虫のような存在であるも同然だ。
 アルケミストは依然として僕たちを見下ろしている。
 ここまで来たのに……。オプス=デイまであと少しというところで、記憶を取り戻す一歩手前というところで、死ぬのだろうか?
 第二の悪魔──ブレイズが奴に殺されたように、わけもわからぬところから一方的に嬲られて死ぬのだろうか。
 嫌だ、そんな死に方をするくらいなら、列車が落下したと同時に死んでいたほうがましだと僕は思った。
 ルビーの巨人が辺りを囲む。しかし、僕の身体は動かなかった。両目は秒針の音が聞こえてきそうなほど、時間をかけてゆっくりと閉じていった──。
『間に合った! おい、そこなゾンビ! お主じゃ、おーぬーしー!!』
 息を呑んで、声のする方を振り向いた。どこかで見た小さなぬいぐるみ程の大きさの風変わりな人形と、蔓薔薇のアーチ。この一瞬で僕は希望を取り戻さずにはいられなかった。
「フェニ君……」
『死にたくないなら早よお来んかい!!』
 僕はかつてこれまで脚を酷使したことがあっただろうか、と思うほどに疾走した。赤い人形型の飴玉の鈍い挙動には目もくれず、一目散に、例えアーチの中へ入ったとしても走り抜くような勢いで白い砂の上を駆けた。

「久しいのう、あまりくつろいではおれんがな……」
 変わった──着物と呼ばれる──衣服を身に纏った少年は、アーチで呼び込みをする時だけ現れる人形と一体化した。宙に浮いたまま、座り込む姿勢で太腿に肘を付き、その手に頬を乗せた。
「ありがとう、フェニ君。でもどうして……?」
 不死鳥を名乗る少年は、バツが悪そうな顔をすると一つ咳払いをした。
「暫く顔を見せなかった理由に関してはノーコメント。ちょっとぷらいばしいに傷がつく」
「それを言うならプライドでは」
「あーあー聞こえませーん。お主らが邪魔だったからな、ひとまず撤去……みたいな」
 間の抜けたような音が僕の口から漏れていった。
 確かに悪魔にとって、僕は邪魔な存在であるということは──至極謎であり、不本意であるが──事実だ。
「よいか、あのクソデカい化物は儂の獲物なのじゃ。お主らがどうなろうと構わんが、できればイチ・イチがいいのじゃ」
「アルケミストと戦うの?! そんなの無茶だよ」
「じゃかましい!! 儂は記憶が戻るまで雑魚同然の主よりな、強い奴の方が好きなんじゃ、つまり戦いたいのじゃ!!」
 そう豪語するフェニ君は、戦闘狂というよりもただ純粋に力比べがしたいんだ、というように鼻を鳴らした。
「ですがあなたの戦いが終わるまで、ここで待つわけにはいかないでしょう……」
「ん? 主らならあの天まで続く御道の手前に出してやるわい、そっからどこへでも好きな所へ行くがよいわ」
 これが粋な計らい、というものじゃ。と腕と脚を大の字に伸ばし、それから腰に両手をあてた。どこをどう粋と捉えてよいのかよくわからなかった。
「おい、アクア……」
「……なに?」
「──覚悟を決めておけ。先の出来事は、例えお主が今からどう動いたとしても一つの結末に収束する。じきにわかることじゃから、儂から言うつもりはないがな。それが良い結果でも悪い結果でも、だ。意地悪と思うたか? じゃがな、本当にあっという間じゃぞ。永遠なんて、都合の悪い時にはあって、良い時にこそないもんなのじゃ」
 僕は目を瞬かせ、次に首を傾げる。その言葉の意味を咀嚼して脳に理解させようとすると怖くなった。
「まあ、安心せい。どんなに死亡フラグが立とうが、回収はされないから……さあ行け、しっし! その目で世界の収束を見届けるのが、お主の義務じゃ」
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