プルートーの胤裔

くぼう無学

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「会いたかったんです」

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 もう一度、ドアにノックがあった。
「宗村さん、いらっしゃらないんですか?」
「はいはい」
 わたくしはベッドから立って行ってノブを回した。ドアの隙間から覗くように、米元あずさの上目使いが現れた。
「良かったあ。お風呂じゃなかったんですね」
「何か御用?」
 わたくしの背後から険のある声がした。
「あ、美咲さんもいらしたんですね」
 あずさは美咲に見えないように舌を出した。
「宗村さんを呼んで来いって、オーナーが」
「岸本が?」
 わたくしはドアを大きく開けた。
「はい、至急相談したい事があるって。一緒に来てくれますか?」
 わたくしは返事をする前に美咲を振り返った。彼女は椅子から立ち上がりもせず、大きく足を組んでいた。
「美咲さんも、ついて来ますか?」
 あずさがわたくしの小脇から顔を出した。美咲は目を閉じて、怒りを鎮めるような声で、
「宗村さん、行ってあげて下さい。なんたって至急な用事なんですから、岸本さんに何かあったに違いありません」
 あずさと美咲はわたくしを挟んで、激しい視線をぶつけ合った。
「じゃあ、まあ、行ってくるよ。岸本の相談が気になるし」
 わたくしは廊下の方を指差して、振り返り振り返り部屋を出た。腕を組んだ美咲の姿が、ゆっくりと閉じていくドアに消えた。
 エプロンを脱いだあずさは、オートミールの薄手のパーカーに、細身のローライズデニムを穿いていた。ピンクのローカットソックスに可愛い踝が見え、如何にも二十歳そこそこの娘とった感じだった。
「宗村さん」
 あずさは後ろ手に組んで、スキップをしながら体を回した。
「宗村さんはいつまでここに泊まっているんですか?」
 わたくしはあずさの後をついて行きながら、少し眉を上げた。
「いつまでって、それは正直決めていないな。まあ強いて言えば、岸本がある程度落ち着くまでかな」
 岸本の悩みの種である天道葵の死の理由、それが明らかになる日は果たして来るのだろうか。
「そうですか。じゃあまあとりあえず、宗村さんは明日も泊まっていくって事ですね?」
 左右に流した長い髪の毛が、さもお転婆そうに揺れた。
「まあ、そうだね」
「じゃああたしもしばらくここで働こっかな。ここのオーナーって、とっても気前が良いんです。地元のあたしらの仲間でも評判なんですよ? 今回は急なヘルプだから、きっとバートンの板一本買えるくらいの手当がつくと思います」
 わたくしは顎に手を当てた。
「へえ。ペンションは赤字経営だと聞いていたけど、意外に従業員には気前が良いんだな」
「赤字? そうなんですか? なんだか変ですね。ここって、お金持ちの家みたいに、結構高価な物が多いですよ? 家具とか絵とか」
 伊藤清永の裸婦画、カザック絨毯、ヘルムレのフロアークロック。岸本のペンション内には、他にも数々の贅沢品が見られた。
「確かに、変だな」
 あずさはわたくしを振り返り振り返り、如何にも楽しげに階段を下りて行った。それはどこからどう見ても、至急といった感じが見られなかった。
「あのさ、岸本はどんな相談があって俺を呼んだの?」
 彼女は吹き抜けの天井を見上げて、わざとらしく手を叩いた。
「ああ、そうでした。あたしオーナーに頼まれて宗村さんを呼びに来たんでした。宗村さんとのお話に夢中になっていて、すっかり忘れていました」
 わたくしは彼女のつむじの辺りを見下ろした。
「本当に、岸本は俺を呼んだの?」
「呼びましたよ。だって、オーナーは江口サダユキのケータイを見つけたんですから」
「なに⁉」
 わたくしは思わずあずさの両肩に手を置いた。
「それは本当か!」
「はい。オーナーがさっき、江口サダユキの部屋に鍵を掛けようと思って、一応部屋の中を覗いたら、ベッドの下にケータイが落ちていたんですって。警察が部屋を調べた後なのに、変な話ですよね」
 わたくしは彼女の肩から手を離して、そのまま腕を組んだ。
「そんな、馬鹿な。なんで」
「警察が部屋から荷物を運び出す時に、誤ってケータイを落としたんでしょうか」
 あずさは話に興味があるようなないような、大きな目でわたくしを見上げた。
「そんなドジな捜査員がいるか。江口サダユキの携帯電話と言えば、犯罪立証の成否に大きく影響を及ぼす重要な証拠物件の一つだ。そんなものが押収物から一つ無くなっていたら、彼らだってすぐに気が付くだろう」
「はあ」
「まあとにかく、早く岸本と話がしたい。あいつはいまどこにいるんだ?」
「こっちです」
 あずさは食堂の方向を指差して、にっこりと微笑んだ。
 アルトドイッチェの重いガラス戸を開けた。奥の方でうっすらと暖炉の残り火が揺れているだけで、照明を落とした食堂には誰の姿もなかった。
「うん? 真っ暗じゃないか。岸本は?」
 わたくしは廊下の明かりだけの暗がりを二三歩進んで、首の後ろに手を当てた。そして、誰もいない理由をあずさに尋ねようと振り返った時、誰かがわたくしの背中に抱き付いてきた。
「わっ! な、なんだ」
 突然の出来事にわたくしの頭は真っ白になり、ただただ身じろぎを繰り返した。相手はわたくしの背中にぴたりと体を密着させて、肩甲骨辺りに顔を押し付けた。
「会いたかったんです。ずっと会いたかった」
 あずさの潤んだ声が聞こえた。
「こら、君か! 一体何をするんだ。放しなさい」
 こちらが大人の男とは言え、完全に背後を取られてみると、ちょっとやそっとでは彼女を振りほどけなかった。
「二年前、あなたは忽然と姿を消してしまって、あたし本当にどうしていいか分からなくなって」
 あずさの柔らかい胸の押し当てられた感触が、わたくしの思考をコンマ何秒か遅らせた。
「それは人違いだと言っているだろう! 君が会いたいのは太古秀勝、俺は宗村だ。顔は似ているが全くの別人」
 あずさはわたくしの背中を両手で突き飛ばした。暗い食堂をよろめいて、わたくしは前方のテーブルに激突した。
「痛ッ!」
 椅子の背凭れに腹部を打って、わたくしは体をくの字に折った。調味料の数々が転倒して、テーブルの上をごろごろ転がった。
「何を!」
 わたくしはテーブルに両手を突いて、急いで背後を振り返った。そこにはガラス戸の向こうに廊下の明かりが見えるだけで、抱き付いてきたあずさの姿はどこにもなかった。
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