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第二章 セレスティアの伝承
第三十九話 『指先が触れた香りは、災いの予兆』
しおりを挟むーー『咲かぬ花嫁』。
その呼び名に、背筋がぞくりと震える。アルヴァ公爵はゆっくりと歩み寄り、まるで獲物を逃さないように、俺を人目のない廊下の角へと追い詰めた。
背中が壁にぶつかり、逃げ場が消える。
「え、えっと……ノエルがお世話になっております……」
「ああ、弟君には随分と世話になっているよ。……色々とね」
「……そ、そうですか。あの、今日はなぜ王宮に……?」
問いながらも、ぞっとするようなその微笑みに圧されて、一歩退く。胸元の本を、ぎゅっと抱きしめた。
「王政会議があってね。そのついでに……ほんの、寄り道を」
「そう……なんですね……」
琥珀色の瞳が、抱えた本へと向けられる。細められた目元に、冷たい笑みが滲んだ。
「大公文書室とはまた、真面目なところへ行かれましたね。……何か、調べごとでも?」
(ーーなんで、大公文書室に行ったって……知ってるの?)
胸にざらりとした疑念が広がる。さっきまで頼もしく思えた本の重みが、途端に頼りなく感じた。
「え、えっと……その、ちょっと、伝承について……」
作り笑いで誤魔化す俺を、公爵は愉しげに目を細めて見つめた。
「伝承といえば……最近話題の、『香りで気分が良くなる花』をご存知かな?」
「え……?」
「ふふ、失礼。あまり表には出ていない話でしたね。ちょうど今、試作品を持ち歩いていたのです。よければ……どうぞ」
懐から取り出されたのは、小さなガラス瓶で。淡い赤紫の液体が、照明を受けて妖しく光った。
「これを……?」
「ええ。手首に一滴で充分です。香りを感じるだけで、心がふっと軽くなる。……あなたのような繊細な方には、特によく合うかと」
(……香りを嗅ぐだけ、なら……)
戸惑いながら瓶を受け取り、蓋を開けた瞬間、甘く濃密な香りがふわりと鼻をくすぐった。
(……あ……思い出した、これ……)
ふいに視界が揺らぐ。空気の輪郭がぼやけて、胸がじんわりと熱くなる。浮遊感にも似た感覚に襲われて、ふらりと身体が傾いた。
「……っ……」
「どうです? 心が、ほどけていくでしょう?」
気づけば、カミュの顔がすぐそばにあった。囁く声が耳朶を撫で、ぞわりと背中が総毛立つ。
「っ……ちょっと……くらくら、する……かも」
「それは……少し、効果が強すぎたようですね。あなたのように繊細なお身体には……まだ調整が必要だったかな」
カミュの腕が腰へまわされ、胸元へ引き寄せられた。民族衣装越しの手のひらが、じわりと肌の熱を奪っていく。
「っ……ちょ、あっ……」
力が入らず、身体がもたれかかる。香水のせいか、身体が火照り、鼓動がどこか早くなる。けれど、それ以上に、俺を抱きとめる手が、怖かった。
「香りだけで、これほどとは。……さすがは『毒花』。恐ろしい」
ふいに指先が首筋をなぞる。びくりと肩が跳ねた。
「ふふ……こんなにも赤く染めて。さぞ、殿下とは仲睦まじいようで。その顔を、痛みに歪めてみたくなる」
「……っ、や……め……」
喉が渇いて、声が掠れる。手から小瓶が滑り落ち、カラン、と床に転がったーーそのときだった。
「ルイス様っ!!」
鋭い声とともに、足音が廊下を駆ける。蒼白な顔のエリオットが間に割って入った。
「ルイス様に、何をしたんですか!!」
怒りに燃えた瞳で睨みつけ、カミュの腕から俺を引き剥がすと、そのまま抱きとめるように受け止めた。
「お下がりください、アルヴァ公爵閣下。その香水……セレスティアでは『副作用の疑いがある』と問題視されているはずです」
「……おや。まさか、そんな噂をご存知とは」
カミュ公爵は肩をすくめ、転がった瓶を拾い上げ、涼しげな笑みのまま、それを懐へ仕舞った。
「気分を害されたなら申し訳ない。……どうやら、ルイス様には少々刺激が強すぎたようですね」
一礼とともに、彼は足音もなく廊下の闇に溶けるように去っていった。
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残された空気が、じんわりと熱を帯びていて。少し重たくなった瞼を持ち上げながら、頬に手を当てる。
「……エリオット。今のって……」
「申し訳ありません。僕が離れた隙に……っ」
エリオットは悔しげに唇を噛み、ぎゅっと拳を握りしめていた。
「大丈夫。俺が勝手に……受け取っちゃっただけだから。でも」
視線を落とし、そっと手のひらを見つめる。香りはもう消えているはずなのに、胸の奥だけが落ち着かず、ざわついていた。
「……あの香り、俺、知ってる」
「……!」
俺の言葉に、驚いたようにエリオットが目を見開く。
「殿下に報告しましょう。この香水のことも、カミュ・アルヴァ公爵閣下が所持していたことも」
「うん。……お願い」
そう返した途端、ふらりと足元が揺れた。踏ん張ろうとしたのに力が入らず、膝がぐにゃりと崩れる。
「ルイス様っ!」
すぐに、温かな腕が俺を支えてくれた。エリオットは何の迷いもなく俺の身体を抱き上げ、しっかりと胸に抱いたまま、足早に廊下を進んでいく。
「すみません、無理をさせました……すぐ、お部屋にお連れします」
肩に額を預けると、胸元からふわりと紅茶の香りがした。鼓動の音が遠く、まどろむように、意識がやわらいでいった。
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