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第三章 王都編
第六十五話 『君のいない夜を、越えてゆく』
しおりを挟む夜の帳が、静かにほどけてゆく。東の空にはかすかな光が差し始め、王宮の一室にはまだ、淡い灯りが残っていた。
書類に視線を落としても、文字はもはや意味を成さない。ペンの先は止まり、霞んだ視界に、ただ焦点の合わない文字列が浮かぶ。
ーールイスが、戻らない。
王都を離れたという報せを受けたのは、昨日の昼だった。向かった先は、ブランシェ邸。本来ならすぐにでも迎えに行きたい衝動に駆られたが、今の自分にはその自由すらない。
政務庁での会議、貴族たちとの対話、調香研究局との協議、そして毒花問題の対応……立ち止まれば、全てが崩れ落ちる。
(……あの判断は、本当に正しかったのか)
己の中に芽生える問いが、じわじわと胸の奥を侵していく。ルイスをあの屋敷へひとりで向かわせたこと。それは誤りではなかったのか。考えれば考えるほど、焦りばかりが募る。
「殿下……せめて、少しだけでもお休みに」
控えていたザインが、おだやかに声をかけてくる。けれど私は、わずかに首を振った。
「……今、目を閉じたら、悪夢を見る」
誰にも気づかれずに、あの子が泣いている夢をみる気がした。
深く息を吐き、重い身体を椅子から起こす。カーテンの隙間を指先で少しだけ開くと、夜明け前の蒼が、冷えた空にじんわりと広がっていた。
ルイスのいない世界が、朝を迎えようとしていた。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
*
薄闇の中、小屋の隅にひとり、膝を抱えて座り込む。扉は閉ざされたまま、いくら叩いても、誰も来ない。鍵がかけられているのだと、気づくのに時間はかからなかった。
寒さと疲労で震える身体。足元に転がる帳簿だけが、灯火のように微かな希望を残す。
証拠は、手に入れた。栽培を禁じられた花が、香水として流通していた記録。王族も知らない裏で動いていた、密売の痕跡。それを、王都へ、リアム殿下のもとへ、届けるだけだった。
……なのに、どうしてこんな形で封じられなければならないのだろう。
冷たい風が壁の隙間を縫い、小さく頬を掠める。ふいに、あの人の面影が浮かんだ。リアム殿下は、今も自分の帰りを待っているのだろうか。その問いに、胸がきゅっと締め付けられる。
「……リアム殿下……」
心が揺らいだ瞬間、ぐらりと身体が傾いだ。このまま眠ってしまえば、きっともう立ち上がれない。かじかむ指先に力を込め、唇を噛んで足に力を入れた。
棚にかかっていた古びた毛布を裂き、帳簿を包む。それを身体にきつく結びつけ、胸に抱きしめた。扉の鍵は内側から外せない。出口は、他に探すしかなかった。
ーー逃げなければ。
壁沿いをなぞり、木材の合わせ目を探す。蝶番は内側で錆び、板の一部が脆くなっていた。隙間に棒切れを差し込み、力を込めると、ぎい、と軋む音がした。
「……っ、あと少し……!」
棘が手の平に刺さる痛みも構わず、何度も何度も押し込む。やがて、最後の板が外れ、冷えた夜気が頬を撫でた。
吹き込んだ空気を吸い込むと、身体が震えた。出られた。たったそれだけのことで、膝が崩れそうになる。けれど、ここで座り込むわけにはいかなかった。
(王都まで、戻らなきゃ……この証拠を、殿下に!)
胸に帳簿を抱きしめ、小道を駆け出す。夜明け前の闇は深くて、屋敷の敷地を抜けるだけでも息が上がる。門を越えた瞬間、安心する間もなく、前方の闇の奥に、人影が現れた。
「……だ、れ……?」
低い足音が響く。誰かが、こちらに向かってくる。思わず道を逸れようとしたそのとき、足がもつれ、地面が迫った。
「ーールイス様!」
凛とした声が、夜を裂く。現れたのは、見慣れた茶色の髪と、迷いのない瞳で。倒れかけた身体を、その腕がしっかりと受け止めた。
「ロジェ……!」
肩に縋ると、全身から力が抜けた。張り詰めていた糸が、ふっとほどけていく。
「よかった……間に合って……! 大丈夫ですか?! お怪我は……」
息を切らしながらも、ロジェの目は真っ直ぐ、俺だけを見ていた。
「……ごめんなさい。僕がご実家のことを……話してしまったせいで……心配で、いても立ってもいられなくて、探しに来たんです」
「……ありがとう。……本当に、ありがとう……」
その胸の中で、小さく呟いた声が震える。でもそれは、怖さからではなくて。もう一人じゃないという、安堵の震えだった。
今だけは、涙が許される気がして。ほんの少し、ロジェの肩に鼻先を埋めた。
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