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第四章 知の都 リヒシュータ領 ダヴェニス
第七十五話 はじめてのてがみ
しおりを挟む雪が落ちる。
月のない真っ黒な空から、ひとひら。
またひとひら。
ホルガーは、ふとそれを見上げ、微かに目を見開いた。
「……王都に雪が」
アンタナ峠以南に雪が降ることなど滅多にない。
最後に雪が降ったのは、いつのことだっただろうか。
白い息を吐きながら、郵便受けの蓋を開けた。
中には一通の白い封筒が。
それを目にした瞬間、言いようのない予感が体を打った。
震える指を伸ばし、純白の手紙を掴むと、差出人を確認する。
「……殿下」
その予感は当たっていた。舞い落ちる雪片が、「ルコット」の名の上に落ち、インクを滲ませる。
ホルガーは一度それを抱き込むと、きつく目を閉じ、また夜空を見上げた。
同じ空で繋がった彼女に想いを馳せるように。
それから、こうしてはいられないと、あちこちに体をぶつけながら玄関に駆け込んだ。
* * *
窓辺の椅子に腰掛け、蠟燭に火をつける。
部屋に灯をともす時間すら惜しかった。
暗い部屋の中で、ぼんやりとした明かりを頼りに手紙を開く。
そういえば、彼女から手紙をもらうのは初めてのことだった。彼女の字は予想より整然としていて、予想通りに美しかった。
一度その字をそっと撫で、宛名に書かれた自分の名を見つめる。
彼女に書かれたと言うだけで、このありふれた名が何か特別なもののようにさえ思えた。
* * *
ホルガーさま
お久しぶりです。
お元気ですか。
私は今、リヒシュータ領ダヴェニスで、リリアンヌ=ハップルニヒさまのお世話になっています。
あの日、ご挨拶もなく家を出て、その後何のお便りもしなかったこと、本当に申し訳ありませんでした。
私はホルガーさまの優しさに甘えてしまってばかりですね。
この手紙は、本来ならもっと早くに差し上げるつもりだったのですが、例によって臆病な私は、つい先送りにしてしまっていました。
しかし、いつまでもこのままというわけにはいきません。
このままではきっと、私たちは春を迎えられない。
そう思い、私は筆を取りました。
私からの、最初で最後の手紙です。
どうか終わりまで、目を通してやってください。
ここダヴェニスは、とても住み良い街です。
街道にはさまざまなお店が並び、喫茶店では学生さんがパンケーキを囲んでいます。
洗練された知を感じさせる伝統ある街並みは、いつ散歩しても気持ちよく、石畳を踏む足音に、心を奪われます。
少しはずれの美しい草原では、ほとんど毎日青空教室が開かれています。
そこでは、リリアンヌさまとご友人が先生。
私はいわば一生徒です。
何も学んでこなかった私ですが、お二人の授業は楽しく、つい夢中になってしまうのがわかります。
私はそこで、教育とはどういうものか、日々感じています。
朝と夜は、ハップルニヒさまのお屋敷の図書室で本を読んでいます。あの私がですよ。驚かれたでしょう?
ありがたいことに、ここにはたくさんの本があるので、全て読み終えるまで何年かかるのか、見当もつきません。
床から天井まで、本、本、本、本です。
生まれながらの学はありませんが、ここで少しでも知識をつけられればと思っています。
ちなみに、今のところ経過は順調です。
リリアンヌさまも「まぁまぁの進歩」だと褒めてくださり、夕食後にはハップルニヒ侯爵さまが教育学を教えてくださるようになりました。
知らなかったことを知っていくのは、まるで自分の中の泉が、清水で満たされていくようです。
毎晩ベッドの中で心地よい充足感を感じます。
それから、魔力の使い方も習い始めました。
体の中の使っていなかった部分を使うようで、なかなかうまくいきません。
ハントさまいわく、「ある日突然霧が晴れるように扱えるようになる」とのことでしたので、今はまだそのときではないのでしょう。
諦めずに、頑張ろうと思います。
ここまで読まれてお気づきでしょうか。
そう、私はここで、とても充実した日々を過ごしています。
毎日忙しく歩き回り、合間に栄養ある食事を摂り、たくさんの人とお話しし、多くの知識を蓄える日々。
私があまりに出歩くので、暇を持て余したばあやが街のお弁当屋さんで働き始めたほどです。
ばあやは、私の世話をしていただけの頃より、ずっと若々しく、明るくなりました。
生活に張り合いが出たのかもしれません。
ホルガーさま。
私は知りませんでした。
街の営みも、草原の美しさも、山の静けさも、朝日の輝きも。
あの平穏な城の中にいては、何一つわからなかったでしょう。そして、わからないこともわからないまま、生涯を終えていたに違いありません。
胸の踊るような楽しさも、喜びも、深い悲しみも、苦しさも、全て、あなたがくださったもの。
そう思うと、この胸に湧くどんな感情も愛おしいのです。
勿論、世界は美しいだけではありません。
目を覆いたくなるような景色や事実もあるでしょう。それでも、それさえ、私は受け止めます。
その先の光を信じるあなたを、私も信じているから。
あなたはいつまでも、私の無二の恩人です。
私の部屋の机の、一番上の引き出しを開けてみてください。
そこに記入済みの離縁届がしまってあります。
お姉さまのご了承はいただいています。あとはホルガーさまのご署名だけです。
こんなやり方でしか、あなたの元を去れない私を、どうかお許しください。
いいえ、許されなくても良いです。無礼な奴だったと呆れられても、恨まれても構いません。
しかし、どうか、それが終われば、私のことは、綺麗さっぱり忘れてください。
それが私の、最後の願いです。
どうか、この結婚のことは忘れ、あなただけの幸せを見つけてください。
王室の都合で、大変なご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。お姉さまとともにお詫びいたします。
スノウ姉さまも、ホルガーさまに今後の希望を聞きたいと仰っていました。
望みは何でも叶えると。
退役されるなら、一生分の財産を約束すると。
やりたいことが他にあるなら、費用も労力も惜しまないと。
どうか遠慮だけはなさらず、はっきり希望をお伝えください。
私も、お望みなら如何様にも償います。
最後に、あなたの未来に多くの祝福がありますように。
どんな道を選ばれても、あなたさまなら大丈夫だと、私は信じています。
* * *
「勝手な、ことを……!!」
ホルガーは、自身の口から出た獣のような声にたじろいだ。
しかし、腹から湧き上がる感情が急激に煮立ち、渦巻いてどうしようもない。
怒り、混乱、苛立ち、焦燥。
いつだって、彼女に向けてきたのはもっと穏やかな心ばかりだった。
いや、他の誰にだって、こんな激しい感情は抱いたことがない。
手の中の手紙をぐしゃりと握ると、サイドテーブルに叩きつけた。
手のひらに触れた天板が、泥のようにぐしゃりと潰れる。
それでも一向に気が収まらない。
どこかへ、どこかへ向かわなければ。
ホルガーは覚束ない足取りで二階のルコットの部屋を目指した。
初めて入るその部屋は、甘やかな彼女の香りで満ちていて、まるですぐそこに彼女が佇んでいるかのようだ。
いつの間にか、双眸から水滴が溢れていた。
ふらふらと窓辺の机に向かい、一番上の引き出しを開ける。
果たしてそこには無情な紙切れが一枚。
彼女の整然とした文字が既に記入されていた。
「……嘘だ」
この声は、誰のものだ。
この眼に映る紙は何だ。
彼女は今、どこにいる。
ぼんやりとした意識の中で、それでも彼女の美しい文字が頭から離れない。
――私のことは、綺麗さっぱり忘れてください。それが私の、最後の願いです。
「卑怯な方だ……」
その願いに逆らえないことを知っていて、そんな残酷な願いを残して行くとは。
「こんな、ことなら……」
頭の中で、蝋燭に照らされた真白の手紙が明滅する。
配達の途中、雪か雨でふやけたのか、ところどころ小さく波打っていたあの紙切れ。
あんな小さな紙切れ一枚に縛られる。
もう二度と彼女に会えなくなってしまう。
「こんなことなら……無理矢理にでも、触れてしまえばよかった」
その呟きにぞっとして、思わず数歩後ずさる。
自分は、今、何を。
真っ赤に染まっていた視界が、徐々に白く戻ってきた。
獣から、人に戻ったような感覚。
あんな凶暴な感情が自分の中にあったとは。
何より、それを彼女にぶつけようとしていたなんて。
「……あぁ、これは、いけない」
もう、彼女に会ってはいけない。
会っては、何をしてしまうか、自分でもわからない。
いやきっと、彼女を最も酷い方法で傷つけてしまうだろう。
それを思うと底無しの闇を見るかのように足が震えた。
彼女は自分の元を離れ、幸せな日々を送っている。
それは間違いない。
それに安堵したのもまた、偽らざる事実だ。
今でもまだ、彼女の幸せを願っている。
それだけが今のホルガーに唯一残された、人の子の感情のように思われた。
手の中の離縁届をじっと見つめる。
離縁。
覚悟していたことではないか。
自分から持ちかけるつもりでさえいた。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのか。
いっそ心が無くなれば良いと願ってしまうほどに。
朝が来るまで、ホルガーはその場に膝をつき、静かに嗚咽を噛み締めた。
長い長い夜。
彼女との思い出をゆっくりと反芻しては、また涙が溢れた。
共に見た景色。
共に過ごしたかった時間。
話したかったこと。
隣で見たかった未来。
全てを受け入れることなど、到底できそうにない。
忘れるなど、以ての外だ。
「……それでも、それを、彼女が望んでいる」
他でもない彼女が、最後の願いだと、望んでいる。
それならば、是非もない。
彼女の願いは、全て叶えたい。
たとえそれが、自分との別離を願うものであろうとも。
ホルガーは、ゆっくりと目を開けた。
一晩固まっていた体は鉛のように重い。
戦場でさえ、こんな夜を過ごしたことはなかった。
それでも、徐々に空が白み始めた頃、何とか震える指でペンを取ることができた。
何かを覚悟した強い眼差しで、一筆箋に向かう。
そこにはただ、力強くも丁寧な文字で、「わかりました」とだけ記されていた。
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