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第六章 美しき世界
第百三十五話 丘の上の教会
しおりを挟む町中に響き渡る鐘の音に、祖母に手を引かれ歩いていた女の子はふと振り返った。
「今日は教会で何かあるの?」
「結婚式があるそうだよ。行ってみるかい?」
「いいの?」
祖母は丘の上の教会を見上げ、頷く。
「誰でも来ていいんだと。町中で話題になっているよ。何でも領主さまのところのどなたかの結婚式なんだとか」
「じゃあ、ルイさまかオルトさまかどちらかね。あとの方はみんな結婚してるもの」
「そうだねぇ」
「行ってみたいな。私領主さまたちのお顔見てみたい」
「そうだねぇ。滅多に拝見できるものじゃなし。行ってみようか」
二人は買い物かごを手に提げて、丘のなだらかな坂道を登っていく。
青々と晴れ渡った空、豊かな緑の中で、海に臨む小さな白い教会は、たくさんのお客人を次々と迎え入れていた。
* * *
「汝、病めるときも、健やかなるときも……」
教会内に入った人々は、皆一様に息を飲んだ。
そこは、まるで花畑だった。
白い壁にも赤い椅子にも、窓辺にさえ、いたるところに秋の花々が飾られている。
そして、オルガンの上や机のふち、通路の両脇には、色とりどりの貝殻が並べられていた。
前面に並ぶステンドグラスから差し込む光が、淡い色使いで壇上を彩る。
教会内は、二階の通路に至るまで超満員だった。
入りきれない人々が、窓の外や開け放したドアの向こう側から見守っている。
しかし彼らのほとんどは、新郎新婦が何者なのか、はっきりとは知らない。
それでもこうして見守りたいと思うのは、何故なのだろう。
ただただ二人は幸せそうだった。
新郎は凛々しく、白百合のような花嫁はこの上なく美しい。
その容姿だけではない。佇まい、まとう空気、花弁のような微笑み、全てが人々の視線を惹きつけて離さなかった。
二人は一体何者なのだろう。
誰もがそう考え始めたそのとき、神父が言った。
「これを愛し、敬い、慈しむことを……かつて誓いましたが」
聞いたことのない誓いの言葉に、一同首をかしげる。
しかし、神父は構わず続けた。
「今後とも、夫婦として、巌のような困難を乗り越え、巡り来る朝日を迎え、ときに喜び、ときに悲しみ、そうして生涯にわたる旅をともに続けていくと、誓いますか?」
この言葉で勘付かない者はいなかった。
わっと歓声が上がり、祝福の言葉が若き二人へ降り注ぐ。
ヴェールを上げて見つめ合う二人は小さく微笑みを交わした。
「誓います」
「誓いますわ」
ホルガーは嬉しさに耐えかね、ルコットを抱え上げ、そっとキスをした。それから、額にも口づけを落とし、くしゃりと笑う。
純白のドレスがくるくると回り、会場の花びらがふわりと舞い上がった。
幸せな花嫁は照れながら、しかし嬉しそうに、その頬にキスを返した。
* * *
海風の吹き上げる丘の上。
数え切れないほどの丸テーブルがどこまでも並び、白いクロスが穏やかな風にはためいている。
会場のゆったりとした音楽はリュートと笛によるもので、素朴な音色は花々と貝殻の装飾によく調和していた。
たくさんの人がいた。
軍人、村娘、子どもから老夫婦、果てはマントで姿を隠した貴人まで。身分も年齢も住む場所も、何もかもが違う。
しかし彼らは皆、笑顔で同じテーブルを囲み、ロゼの料理に舌鼓をうち、この交流を楽しんでいた。
正午になり、昼を過ぎ……時間が進めば進むほど、ますます人が増えていく。
次第に、音楽に合わせダンスを踊り始める者も出てきた。さまざまなペアが、各々自由なステップを楽しんでいる。
軍人らしき男たちが、教会の子どもたちを肩車すると、子どもたちは、弾けるような笑顔ではしゃいだ。
またある子どもが、「こんなに美味しいもの食べたことない」と呟くと、隣に腰掛けていたサファイアは、同じものを口に入れ、頷いた。
「そうね、私も食べたことない」
そして、こちらを見上げる子どもを膝の上に抱いた。
「いらっしゃい。この方が食べやすいでしょ」
その様子を見て、長衣をまとったダンラス王は愉快そうに笑った。
「小童、気をつけよ。その女は凶暴だぞ」
「失礼ね! 誰がよ!」
あれから、サファイアは水力を学ぶため、度々エメラルドへ留学していた。
初めはそんな彼女を遠巻きに見ていたダンラス王も、彼女の真摯な姿勢や物言い、そしてひたむきな努力を目の当たりにし、すっかり警戒する気をなくしてしまったらしい。
あの日、ルコットやヘレンの戦う姿を見、女性への見方を改めていたことも幸いしていた。
今や二人の間には、友愛にも似た何かが芽生え始めていた。
気の早いダンラス王の側近らは、すぐにでも二人をくっつけようと外堀を埋め始めている。
ちなみに、メノウは火力を、フィーユは風力を学ぶため、やはり各地を飛び回っていた。
彼女らの研究が進めば、どんな僻地でも、生活エネルギーに困ることはなくなるだろう。
凍える人、飢える人のいない世界を、彼女たちは本気で目指していた。
* * *
サファイアとダンラス王のテーブルから少し離れた木かげに、エドワードとターシャは佇んでいた。
そこへ、一人の男性が近づいていく。
「……久しいな、エドワード」
エドワードは驚き、明らかな動揺の表情を浮かべた。
「……父さん、どうしてここに」
ハームズワース公爵もまた少したどたどしく視線を下げて言う。
「ホルガー殿とルコットさまにご招待いただいたのだ。そなたにも会えると聞いたものでな……」
そう言って、隣のターシャに改めて頭を下げる。
「ターシャ姫、ご無沙汰しております」
「こ、こちらこそ。近頃はあまり夜会にも参加できていなくて……」
慌てて挨拶を返すターシャに、公爵は迷いながら言葉を続けた。
「噂を聞きまして……その、あなたさまとエドワードの……それで、いてもたってもいられずこうして参ったのですが。あの噂は本当なのでしょうか?」
反対されるのだろうか。
そんな不安を抱えながら、なおターシャははっきりと頷いた。
「はい、本当です。エドワードさんとは、先日より婚約をいたしております」
緊張で少し声が震える。
しかしそのとき、公爵は予想もしていなかった表情を見せた。
彼は笑ったのだ。くしゃりと、心から嬉しそうに、そして、心底安心したように。
戸惑うエドワードに、男は言った。
「……良かった。本当に、良かった」
エドワードはわけがわからず固まってしまった。
この男のこんな表情は、これまで一度だって見たことがなかった。
いつだって冷静で、常に体面と伝統を守り、家族の前でさえ眉一つ動かすことはない。
幼いエドワードにさえ、まるで大の大人に接するように振舞っていたものだ。
そんな男が、今、感情を絞り出すような声とともに、笑っている。
エドワードは、どうしていいかわからなかった。
幼い頃の自分が、目の前で立ち尽くしているような気がした。
そんなエドワードをよそに、男はターシャに向かい、「息子を頼みます」と頭を下げた。
「私はずっと、この世界で生きてきました。他の生き方など知らずに生きてきたのです。私の父も、祖父も、そのまた先代も……あの家に生まれた者は皆そうでした。それ故に、公爵家に生まれたからには、その用意された道で生きるのが、唯一の幸せだと、本気で信じていたのです」
この子にとっても。
そう言って、公爵は、少し寂しげな表情を浮かべた。
「ですから、この子にもその生き方を強いてきました。私は、幼いこの子の笑顔や楽しみをことごとく奪ってしまったのです。歩むべき道は、生まれた家によって決まるのではないと、どうしてあのとき気づけなかったのか……」
この数年、様々な人を目の当たりにしてきた。
王家に生まれながら、全国を飛び回る姫君。
魔術師に生まれながら教師となった者たち。
下町に生まれながら、学校に通う子どもたち。
他にも、数え切れないほどの人々が、生まれに関わらず自らの心で生きる道を決めていた。
それは、ハームズワース公爵の価値観を根本から揺るがすものだった。
「認めるのも苦しかった。蛙の子は蛙と、生まれた頃から言い聞かされて育ってきましたから。この歳で価値観を変えるというのは、本当に難しい。……しかし」
そこで公爵は、立ち尽くすエドワードに視線を向けた。それは、初めて見せる何のしがらみもない眼差しだった。
「私はこの子の選ぶ道を信じたい。そこに、この子の幸せがあると信じたいのです。……ただただ、この子の幸せを、願っているのです」
茫然としていたエドワードはそこにきて、少し俯いた。
溢れてくる涙を隠すかのように。
本当は気づいていた。
父や母はただ、息子の将来を案じていたのだ。少しだけ不器用ではあったけれど。
それに意固地になり、家を飛び出して、歳をとった両親に、一体どれほど心配をかけたことだろう。
久方ぶりに会う父の髪はすっかり白くなっていた。
「……向こうに、母さんもいる。もし嫌でなければ顔を見せてやってくれ」
エドワードは俯いたまま、しかしはっきりと頷いた。
「はい、行ってきます。……それから、近々彼女と一緒に、結婚のご報告に伺います。その際はどうか、しばらくの間泊めてください。お二人にお話ししたいことがたくさんあるのです」
ハームズワース公爵は、まるで子どものように嬉しそうな顔で、何度も、何度も頷いた。
「あぁ、ぜひそうしなさい。そうするといい。部屋も準備しておくから。たくさん料理も作らせよう。そなたの好物と、ターシャ姫の好物を、たくさん、用意して待っているから」
ターシャはそんな老人と隣に並ぶ青年を見つめ、眩しげに目を細めた。
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