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第九話 見えない真実
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まだ夢の中にいるかのような、そんな心地だった。しかし確かに意識はあり、山野特有の鳥の声が、朗らかな朝を告げている。
「……それは本当か…?それじゃあ完全にあの二人は…」
意識の波に合わせて、聞きなれた日向の声が鼓膜を揺らす。
ゆらゆらと押しては返すまどろみがこんなに心地よいのは、彼が側にいるからなのだろう。日向がいれば、それだけで無月は安心することができるのだから。
「……無月はこのことを…」
――…無月…?
それは、紛れも無い、自身の名前。父が授けた呪い名。
嗚呼、私は生きている限りずっと、その業を背負って生きていかねばならないのか。
「…駄目だ、この休暇中でないと…俺も、これ以上仕事の都合はつけられない……あぁ…すぐに……を此処へ寄越してくれ。出来れば今日中……」
一体、何の話をしているのだろう。覚醒しきらない脳は、靄が掛かったように不透明で、聞き取れるはずの言葉さえ曖昧だ。
そんな取り留めのない思考が徐々に彼女の意識を現実へと引き戻す。
無月は、眩しい朝日にまつ毛を濡らしながら、その上半身を日光に晒した。
彼女が起き上がったのに気づいた日向は「切るよ」と一言断り、相手の返事を待つ間もなく、通話を終了させた。
そして、明るく微笑みながら、無月の方へと近づく。
黄金色の髪に、同色の色素の薄い瞳。それらは甘い朝の光を吸い取って、神秘的な輝きを放っていた。
「おはよう、無月。起こしたか?」
無月は一瞬眩しげに目を細めると、それを微笑へと変えた。
「いいえ、元々意識はあったのよ。ただ、目を開けるのが億劫で」
あられもない姿を晒している無月とは対照的に、日向は既に一通りの身支度を終えた上で、通話をしていたらしい。
生成り色のシャツにグレーのズボンという簡素な服装だが、その姿はまるで絵画のようだった。
しかし、無月は、そんな彼の姿よりむしろ、先程の通話が気になった。日頃、どこか飄々としている日向であるからこそ、稀に見せるあのような真剣な声音は、際立って異質なものに思えた。
「通話中だったの?」
努めて何気なく問いかけるも、日向には全て見透かされているような気持ちになってしまう。日向はと言えば、「あぁ、大した用事でもなかったんだが」と、これまた何でもないことのように応じた。
日向が自ら相手を明かさないということは、この話題にはこれ以上踏み込まれたくないということだ。無月は「それなら良いのだけれど」と無難に返し、微笑んだ。
その無邪気さ故に、人の領分に土足で踏み込んでいきそうな印象を与える無月であるが、その実決してそのようなことはない。日向も、無月が誰より慎重で臆病であることは承知している。
「…道順を確認してくる。身支度でもしておいてくれ」
分かっていながら、そこに踏み込むべきときは今ではない、と今回もまた気づかぬふりをした。
――――……
初夏の日差しを眩く照り返す川面を眺めながら、無月はゆっくりと、深呼吸をした。川沿いの道は樹木で覆われており、眩しすぎる朝日が適度に遮られている。頭上の葉はまるで繊細なレースのようだ。
しかし、そんな穏やかな景色も、無月の心の靄を取り払うことはできなかった。
今朝、日向は誰と、電話をしていたのだろう。隠したということは、自分に関することで間違いない。では、日向は、一体何をしようとしているのか。
そんな答えの出ない問いが、頭を巡り、日向の声が、耳をすり抜けていってしまう。
「ほら、もうすぐ着く。あの鳥居だ。境内の奥に咲いてるそうだ」
無月は、曖昧に微笑むと、鈴を転がしたかのような澄んだ声で、問いかけた。
「日向、今日、此処に誰か来るの?」
日向は、一瞬歩みを止めたが、無月の手を握りなおし、再び歩き始める。
「聞いてたのか」
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの」
眉を下げ、視線を落とす無月に、日向は、心底後悔した。こんな顔をさせるくらいなら、あらかじめ、ある程度の説明はしておくべきだったと。
日向自身は気づいていなかったが、彼の後悔、そして、これから話さなければならない事柄への申し訳なさが、全て表情に表れていた。
それを見た無月は、心構えをする。失望が顔に出ないように。
「実は、急用が入ってしまったんだ。俺は、今日中には此処を出ないといけない」
予想していた通りの言葉に、無月は悲しげに微笑んだ。
日向の急用が、どういったものなのか、それすら分からない。今朝聞いた限りでは、仕事ではなさそうだった。家の用事か、それとも、彼自身の完全な私用か。考えたところで、答えは出ない。日向に、教えるつもりがないのだから。
「そう…残念だわ、とても。でも、急用なら仕方ないわよね。今度また、誘ってもらえると嬉しいわ」
そう言うと、無月は笑みを深くした。真っ白な肩にかかった黒髪が、風で揺れ、胸元に落ちる。
日向はそれをぼんやりと眺め、体温の低いひんやりとした手を、再び強く握った。
「本当に、ごめん。今度また、二人で出かけよう。今日は、此処に蜜華が来るはずだ。彼女とゆっくり過ごしてほしい」
無月は、それも楽しそうだと感じた。女友達と、二人きりで温泉など、無月にとっては初めての経験だった。
無月の気持ちが晴れたのが、日向にも伝わったためか、二人は再び穏やかな空気に包まれた。
そのとき、無月の鎖骨の上に、ふわりと、白い花弁が舞い落ちた。無月の肌の上では、その花弁は柔らかな白桃色に見える。
日向が、一瞬息を飲んだ隙に、無月はふわりと走り出していた。まるで、何かに誘い込まれたかのように、鳥居の内へ入っていく。
日向は、数瞬遅れて追いかけた。不思議と、焦る気持ちはなかった。無月は、桜の木の下にいるだろう。そう思った。そして、その情景が、ありありと脳裏に浮かんだ。
日向が境内に入ると、無月は、日向が思い浮かべた通りの姿で、舞い踊る桜を見上げていた。
「無月」
日向はなるべく静かに呼びかけた。感情のこもらない無月の瞳が、危うげに揺れていたからだ。
日向の足音に何の反応も示さなかった無月だが、呼びかけられて初めて彼の方へ振り向いた。
しかし、やはりその表情からは何も読み取ることができない。
唐突に、薄く無月の唇が開かれた。
「私、日向に母の話をしたことってあったかしら?」
日向は、わずかに眉を顰めたが、努めて柔らかく問い返した。
「薫さんのことか?」
無月は、そっと目を伏せて、はっきりとよく通る冷たい声で訂正した。
「いいえ、違うわ。私の、本当の母の話よ」
日向の瞳が、僅かに見開かれる。色素の薄い彼の目は、日中の太陽を反射して、柔らかく光った。
日向は、無月が自身の母について、多かれ少なかれ何かを聞かされているのだろうということは、悟っていた。それは、彼女が、毎年静かに桜を眺めていたからだ。
しかし、彼女はこれまで決してその話題に触れようとはしなかった。
よって、日向は黙り込むしかなかった。どこまで知っているのだろう。
日向の困惑を感じ取ったのか、無月はまた視線を桜へと戻し、淡々と話し出した。彼女曰く、母方の祖母に聞いた話らしい。
「母は、捨て子だったんですってね。春の、とりわけ寒い日に、お祖父様とお祖母様が散歩の途中で見つけたそうよ。川辺の、満開の桜の木の下で。何の身寄りもなかった母だけれど、そうしてお祖父様とお祖父様と、あんな大きな屋敷に住むことになったのね。母は、自分と両親の血が繋がってしないことに、気づいていたのかしら。…どちらにせよ、あの屋敷で暮らしていたのなら、幸せだったに決まっているわ」
そこまで、一気に話し終えると、無月は僅かに眉を歪めた。まるで、自分の現状を、自嘲しているかのように、日向の目には写った。
祖父母と引き離され、母の育った屋敷から今の屋敷に移され、そこで大人しく生活している自分を、惨めだと感じているのだろうか。
日向は、一言、問い返した。戸惑いを、隠すことすらできない。
「無月、どこまで知っているんだ?」
無月は、淡く微笑んだ。心なしか、黒目がちになっている気がする。透明な瞳に、日向は惹きつけられた。
「父に見初められた母が、私を産んで、そのせいで死んでしまった。だから、父は私を憎んでいる。それから、母が死んでしまった数日後には、薫さんが後妻に選ばれたと聞いたわ」
日向は、衝動的に、無月を抱きしめた。無月の表情は、見えない。見たくもなかった。
「違う、無月のせいじゃない。陽子さんは元々体が弱かったんだ。医者も止めた。だが、陽子さんが無月を望んだんだ」
日向は知っていた。そんな言葉は何の救いにもならない。事実、彼の言葉は無月の耳を素通りしていた。
ただ、彼の体温、香り、全てが彼女を包み込んでいた。まるで、春の陽のように。
無月は、そっと日向の背に手を回し、撫でた。
「日向、私、ほとんど母を覚えていないの」
日向は思う。それは当然だと。彼女が亡くなったのは、確か無月が三つのときだった。
「母が笑っていたのか、それすら分からない。どうして私が今あの家にいなければならないのかも、分からないのよ。父は、どうして私を呼び寄せたのかしら。薫さんは何故、子供を産まないの?これじゃあ、父がつけた私の名前が意味を成さないわ」
無月、月が無い。月のものが来ないように。つまりは、子供を宿すことが無いように。
「母の血を私で終わらせたかったのかしら。それとも、藤泉院の血がむやみに広まるのを避けたかったのかしら。父がどうして私にこんな名をつけたのかは分からないけれど、月のものが来ないなんてことはないし、結局、名前は名前なのよね」
そう言うと、無月はゆっくりと日向から離れ、彼の手を握った。そして、困ったように笑った。
「時間が、解決してくれればいいのだけれど」
日向は、無月の手を握り返した。
自分が何とかしなければ。彼女のために。時間が、この問題を解決することはないのだから。
彼女の知らない暗闇で、自分に何ができるだろう。日向は、すっかり汚れている自身の手を思い、苦笑した。無月のためなら、どんなことでもしてきた。無月のためだという意識すらなかった。ただ、日向の下す判断が、いつも無月本位だったというだけで。
「無月、時間が解決するさ。どんな問題でも」
無月の話の大筋は、日向の持つ情報と一致していた。しかし、妙な違和感を感じた。何かが欠けている。
そもそも、本当の意味で真実を知っているのは、当事者である、無月の両親と、後妻の薫だけなのだから。いくら情報から推測を重ねても、それは、第三者による勝手な想像に過ぎない。
現藤泉院家当主、藤泉院清宗。無月の父。無月の母の幸せを奪い、今なお無月を捉えている男。
日向は歯噛みする。自分にもっと力があれば。今すぐにでも、無月を救い出してやりたい。
日向は、沸々と湧き出るその激情を、無理矢理抑え込んだ。もっと正確に言うならば、理性という薄い布で包み込んだとでも言うべきだろうか。無月に、悟られてはならない。汚れた自分を、無月はどう思うだろうか。
「そうね。…そうだと良いわね」
無月は日向の手をゆっくりと引いた。二人は再び川沿いの道を辿っていく。川を滑る風が、無月の髪についた花弁を、優しく舞い上げた。
「……それは本当か…?それじゃあ完全にあの二人は…」
意識の波に合わせて、聞きなれた日向の声が鼓膜を揺らす。
ゆらゆらと押しては返すまどろみがこんなに心地よいのは、彼が側にいるからなのだろう。日向がいれば、それだけで無月は安心することができるのだから。
「……無月はこのことを…」
――…無月…?
それは、紛れも無い、自身の名前。父が授けた呪い名。
嗚呼、私は生きている限りずっと、その業を背負って生きていかねばならないのか。
「…駄目だ、この休暇中でないと…俺も、これ以上仕事の都合はつけられない……あぁ…すぐに……を此処へ寄越してくれ。出来れば今日中……」
一体、何の話をしているのだろう。覚醒しきらない脳は、靄が掛かったように不透明で、聞き取れるはずの言葉さえ曖昧だ。
そんな取り留めのない思考が徐々に彼女の意識を現実へと引き戻す。
無月は、眩しい朝日にまつ毛を濡らしながら、その上半身を日光に晒した。
彼女が起き上がったのに気づいた日向は「切るよ」と一言断り、相手の返事を待つ間もなく、通話を終了させた。
そして、明るく微笑みながら、無月の方へと近づく。
黄金色の髪に、同色の色素の薄い瞳。それらは甘い朝の光を吸い取って、神秘的な輝きを放っていた。
「おはよう、無月。起こしたか?」
無月は一瞬眩しげに目を細めると、それを微笑へと変えた。
「いいえ、元々意識はあったのよ。ただ、目を開けるのが億劫で」
あられもない姿を晒している無月とは対照的に、日向は既に一通りの身支度を終えた上で、通話をしていたらしい。
生成り色のシャツにグレーのズボンという簡素な服装だが、その姿はまるで絵画のようだった。
しかし、無月は、そんな彼の姿よりむしろ、先程の通話が気になった。日頃、どこか飄々としている日向であるからこそ、稀に見せるあのような真剣な声音は、際立って異質なものに思えた。
「通話中だったの?」
努めて何気なく問いかけるも、日向には全て見透かされているような気持ちになってしまう。日向はと言えば、「あぁ、大した用事でもなかったんだが」と、これまた何でもないことのように応じた。
日向が自ら相手を明かさないということは、この話題にはこれ以上踏み込まれたくないということだ。無月は「それなら良いのだけれど」と無難に返し、微笑んだ。
その無邪気さ故に、人の領分に土足で踏み込んでいきそうな印象を与える無月であるが、その実決してそのようなことはない。日向も、無月が誰より慎重で臆病であることは承知している。
「…道順を確認してくる。身支度でもしておいてくれ」
分かっていながら、そこに踏み込むべきときは今ではない、と今回もまた気づかぬふりをした。
――――……
初夏の日差しを眩く照り返す川面を眺めながら、無月はゆっくりと、深呼吸をした。川沿いの道は樹木で覆われており、眩しすぎる朝日が適度に遮られている。頭上の葉はまるで繊細なレースのようだ。
しかし、そんな穏やかな景色も、無月の心の靄を取り払うことはできなかった。
今朝、日向は誰と、電話をしていたのだろう。隠したということは、自分に関することで間違いない。では、日向は、一体何をしようとしているのか。
そんな答えの出ない問いが、頭を巡り、日向の声が、耳をすり抜けていってしまう。
「ほら、もうすぐ着く。あの鳥居だ。境内の奥に咲いてるそうだ」
無月は、曖昧に微笑むと、鈴を転がしたかのような澄んだ声で、問いかけた。
「日向、今日、此処に誰か来るの?」
日向は、一瞬歩みを止めたが、無月の手を握りなおし、再び歩き始める。
「聞いてたのか」
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの」
眉を下げ、視線を落とす無月に、日向は、心底後悔した。こんな顔をさせるくらいなら、あらかじめ、ある程度の説明はしておくべきだったと。
日向自身は気づいていなかったが、彼の後悔、そして、これから話さなければならない事柄への申し訳なさが、全て表情に表れていた。
それを見た無月は、心構えをする。失望が顔に出ないように。
「実は、急用が入ってしまったんだ。俺は、今日中には此処を出ないといけない」
予想していた通りの言葉に、無月は悲しげに微笑んだ。
日向の急用が、どういったものなのか、それすら分からない。今朝聞いた限りでは、仕事ではなさそうだった。家の用事か、それとも、彼自身の完全な私用か。考えたところで、答えは出ない。日向に、教えるつもりがないのだから。
「そう…残念だわ、とても。でも、急用なら仕方ないわよね。今度また、誘ってもらえると嬉しいわ」
そう言うと、無月は笑みを深くした。真っ白な肩にかかった黒髪が、風で揺れ、胸元に落ちる。
日向はそれをぼんやりと眺め、体温の低いひんやりとした手を、再び強く握った。
「本当に、ごめん。今度また、二人で出かけよう。今日は、此処に蜜華が来るはずだ。彼女とゆっくり過ごしてほしい」
無月は、それも楽しそうだと感じた。女友達と、二人きりで温泉など、無月にとっては初めての経験だった。
無月の気持ちが晴れたのが、日向にも伝わったためか、二人は再び穏やかな空気に包まれた。
そのとき、無月の鎖骨の上に、ふわりと、白い花弁が舞い落ちた。無月の肌の上では、その花弁は柔らかな白桃色に見える。
日向が、一瞬息を飲んだ隙に、無月はふわりと走り出していた。まるで、何かに誘い込まれたかのように、鳥居の内へ入っていく。
日向は、数瞬遅れて追いかけた。不思議と、焦る気持ちはなかった。無月は、桜の木の下にいるだろう。そう思った。そして、その情景が、ありありと脳裏に浮かんだ。
日向が境内に入ると、無月は、日向が思い浮かべた通りの姿で、舞い踊る桜を見上げていた。
「無月」
日向はなるべく静かに呼びかけた。感情のこもらない無月の瞳が、危うげに揺れていたからだ。
日向の足音に何の反応も示さなかった無月だが、呼びかけられて初めて彼の方へ振り向いた。
しかし、やはりその表情からは何も読み取ることができない。
唐突に、薄く無月の唇が開かれた。
「私、日向に母の話をしたことってあったかしら?」
日向は、わずかに眉を顰めたが、努めて柔らかく問い返した。
「薫さんのことか?」
無月は、そっと目を伏せて、はっきりとよく通る冷たい声で訂正した。
「いいえ、違うわ。私の、本当の母の話よ」
日向の瞳が、僅かに見開かれる。色素の薄い彼の目は、日中の太陽を反射して、柔らかく光った。
日向は、無月が自身の母について、多かれ少なかれ何かを聞かされているのだろうということは、悟っていた。それは、彼女が、毎年静かに桜を眺めていたからだ。
しかし、彼女はこれまで決してその話題に触れようとはしなかった。
よって、日向は黙り込むしかなかった。どこまで知っているのだろう。
日向の困惑を感じ取ったのか、無月はまた視線を桜へと戻し、淡々と話し出した。彼女曰く、母方の祖母に聞いた話らしい。
「母は、捨て子だったんですってね。春の、とりわけ寒い日に、お祖父様とお祖母様が散歩の途中で見つけたそうよ。川辺の、満開の桜の木の下で。何の身寄りもなかった母だけれど、そうしてお祖父様とお祖父様と、あんな大きな屋敷に住むことになったのね。母は、自分と両親の血が繋がってしないことに、気づいていたのかしら。…どちらにせよ、あの屋敷で暮らしていたのなら、幸せだったに決まっているわ」
そこまで、一気に話し終えると、無月は僅かに眉を歪めた。まるで、自分の現状を、自嘲しているかのように、日向の目には写った。
祖父母と引き離され、母の育った屋敷から今の屋敷に移され、そこで大人しく生活している自分を、惨めだと感じているのだろうか。
日向は、一言、問い返した。戸惑いを、隠すことすらできない。
「無月、どこまで知っているんだ?」
無月は、淡く微笑んだ。心なしか、黒目がちになっている気がする。透明な瞳に、日向は惹きつけられた。
「父に見初められた母が、私を産んで、そのせいで死んでしまった。だから、父は私を憎んでいる。それから、母が死んでしまった数日後には、薫さんが後妻に選ばれたと聞いたわ」
日向は、衝動的に、無月を抱きしめた。無月の表情は、見えない。見たくもなかった。
「違う、無月のせいじゃない。陽子さんは元々体が弱かったんだ。医者も止めた。だが、陽子さんが無月を望んだんだ」
日向は知っていた。そんな言葉は何の救いにもならない。事実、彼の言葉は無月の耳を素通りしていた。
ただ、彼の体温、香り、全てが彼女を包み込んでいた。まるで、春の陽のように。
無月は、そっと日向の背に手を回し、撫でた。
「日向、私、ほとんど母を覚えていないの」
日向は思う。それは当然だと。彼女が亡くなったのは、確か無月が三つのときだった。
「母が笑っていたのか、それすら分からない。どうして私が今あの家にいなければならないのかも、分からないのよ。父は、どうして私を呼び寄せたのかしら。薫さんは何故、子供を産まないの?これじゃあ、父がつけた私の名前が意味を成さないわ」
無月、月が無い。月のものが来ないように。つまりは、子供を宿すことが無いように。
「母の血を私で終わらせたかったのかしら。それとも、藤泉院の血がむやみに広まるのを避けたかったのかしら。父がどうして私にこんな名をつけたのかは分からないけれど、月のものが来ないなんてことはないし、結局、名前は名前なのよね」
そう言うと、無月はゆっくりと日向から離れ、彼の手を握った。そして、困ったように笑った。
「時間が、解決してくれればいいのだけれど」
日向は、無月の手を握り返した。
自分が何とかしなければ。彼女のために。時間が、この問題を解決することはないのだから。
彼女の知らない暗闇で、自分に何ができるだろう。日向は、すっかり汚れている自身の手を思い、苦笑した。無月のためなら、どんなことでもしてきた。無月のためだという意識すらなかった。ただ、日向の下す判断が、いつも無月本位だったというだけで。
「無月、時間が解決するさ。どんな問題でも」
無月の話の大筋は、日向の持つ情報と一致していた。しかし、妙な違和感を感じた。何かが欠けている。
そもそも、本当の意味で真実を知っているのは、当事者である、無月の両親と、後妻の薫だけなのだから。いくら情報から推測を重ねても、それは、第三者による勝手な想像に過ぎない。
現藤泉院家当主、藤泉院清宗。無月の父。無月の母の幸せを奪い、今なお無月を捉えている男。
日向は歯噛みする。自分にもっと力があれば。今すぐにでも、無月を救い出してやりたい。
日向は、沸々と湧き出るその激情を、無理矢理抑え込んだ。もっと正確に言うならば、理性という薄い布で包み込んだとでも言うべきだろうか。無月に、悟られてはならない。汚れた自分を、無月はどう思うだろうか。
「そうね。…そうだと良いわね」
無月は日向の手をゆっくりと引いた。二人は再び川沿いの道を辿っていく。川を滑る風が、無月の髪についた花弁を、優しく舞い上げた。
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