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引かれるまにまに 1
しおりを挟む命子が美那子の部屋へ戻った。安喜子さんの洋館を訪ねるに際して休暇願うんぬんと言っていたけれど、白状するのに仕事はもう行っていないということだった。
どことなく黒ずみ、彼女だけより多く時が経ったようだったけれども、美那子の元で日々を過ごすうちにだんだん抜けて、痕跡はわずか目の周りに居座るらしかった。
仕事を探すことはもうせず、猫のように美那子の帰りを待っていた。
「先生のお屋敷で暮らしたいね」としばしば言った。「人生なんかもうよしにして、若さじまいして、余生になっちゃっていいから、あとはずっとあんなところで静かに死んで行くの。そうなれたらな」
「また遊びに行こうよ」
「うん……」
そうしてため息ばかりついていた。それが良助の車でカラオケなど行き、舞とデュエットなんぞしている時にはオヤと思うほど軽やかだったけれども、そうした表面の軽やかさがかえって奥部の深刻ぶりを裏づけるように感ぜられなくもなかった。
ある日、いつになく陽気な命子に誘われて、美那子は二駅半ほど離れたところにある団地を見に行った。いつの間にそんなことをしていたのか、入念に下見をしていたらしい。
入口の古びた石碑によれば、八十年代後半に造られたということで、えらくモダンなデザインの、広大な公営住宅だった。美那子も存在は知っていたけれど、ちゃんと来るのは初めてだった。
豊富な樹木や石畳の地面が、手入れはされているけれど如何ともしがたく寂れていた。非常に大きなアスレチックのある公園や、浅い小川の流れる遊歩道を漫然と歩いて行った。
中央あたりに商店街があって理髪店、スーパー、喫茶店、洋食屋、服屋、靴屋、花屋、整骨院、デイサービス、米屋、酒屋、パン屋、駄菓子屋等々、どの店も開いているし、住んでいる人々はあんがい若い人もいれば子どももいて、活気がなくもないのに蜃気楼のように儚く見えるのはなぜであろうか。錆びくすんだ、デザイナーズマンションの親戚のような建物が道路を二つ挟んで広がり、ぜんぶで何棟あるのかちょっと判じかねた。
遊歩道はゆるくうねって時に方角がわからなくなる。ある起伏の高いところではそう遠からぬ海が見え、ふと現れた長い直線の先には小さく縁日ヶ丘の小山が見えた。
地上の楽園だと命子は言った。先生のような財産のないわたしたちが先生のように暮らすには、現実の上ではこういうところに移るよりほかにない、移ってしまったら静かに暮らせる。移るか移らざるか。それは一度きりの人生の、大なる勝負の分かれ目……。
しかし美那子には楽園というよりも、おぼろげな夢の中の世界か、なにかこう霊界とでもいうようなものに近かった。
「今のままじゃ静かに暮らせないの?」
いちおう聞いてみたけれど命子の「否」は美那子の胸中にすでに居た。舞と良助のことばかりではなかった。しかしほかの理由はすぐには見当たらなかった。
この団地のような浮き世離れした空間に(それは命子の主観的な演出が装飾してもいたろうが、美那子にも確かにだんだん、すでに安らかな好感がなくもない。つい先ほどまでの夢や霊界の印象はどこへやら、今は昔、明るい未来への進歩を確信していた時代の息の短い情熱の哀しい忘れ形見のごとき団地であった。そんな空間に)命子は美那子と二人で逃亡したいのに違いなかった。
「暮らせない」
とうとうはっきり口に出された瞬間、ぼんやりしていたものが急速に輪郭を持った。久しぶりになにかの激流を感じた。すぐさま選択しなければならなかった。それがどう転ぶのか、結果の善し悪しはけっきょく塞翁が馬、禍福は糾える縄の如しで、しょせん最晩年にならねば判然としないようなものは、永久に判然とせぬがよろしいというほとんど投げやりな切迫であった。
美那子は全力で保留という選択を取ったけれども長く生き延びる力のない選択であることは想像に難くなかった。
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