縁日ヶ丘物語

尼子猩庵

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引かれるまにまに 2

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 それ以来、命子の熱意は憑かれたようだった。団地に移り住むことばかり口にして、近い将来の実現をよすがにたいへん明るく過ごしていた。舞と良助がいる時には転居のもくろみをおくびにも出さないことに美那子は決心の固さを悟らしめられた。

 右のわきを剃ってやりながら、命子の全身の大小の古傷が見える。その無念さは命子を二度と飛翔させないようにも思われ、かえって無限に高く昇らせるようにも思われた。

 どのような条件を満たし、どのような手続きを踏めば移り住めるのだろうと、誰にともなしの質問ばかりしていた。そうしているとどこかで勝手に育ち、潜伏期間を経て迎えに来るはずの具体的なエネルギーを、ひたぶるに待つような独言であった。

 たびたび団地を見に行って、どこの部屋がいいか検討した。美那子は何一つ決めかねるまま、しかし積極的に付き合っていた。命子に引っぱり上げてもらって自分も高く高く飛翔する時を待つような気分にしばしば襲われた。墜落の予感はどうしてか無かった。それがあるべき場所には違う予感が居座っているらしかった。その正体を見破らないまま過ごすことがどうやら胸中さしあたっての望みらしかった。

 団地はいつの間にやら「赤銅しゃくどうの団地」と名づけられていた。全体的の印象から「忘れられた団地」、「ブリキの団地」、「希望のなきがら」云々と変転を極め、やっぱり最初に戻っての「赤銅の団地」であった。

 命子は希望の部屋をだんだん絞り込んで行った。

 ある夜、なにやらぐずぐずと美那子を寝に行かせないでいた命子がとつぜん腹をくくった顔で、一年間だけ仕事をやめて欲しいと願い出た。

 一年間というのは蘇生のために必要な期間らしかった。すべての季節が一巡りしなければならないというのだった。

 非常に重大な相違であるというように、変身ではなく蘇生だと念を押す。より正確に伝わるよう言葉を選んで、脱出ではなく迂回、建て替えではなく大掃除、下剤ではなく青汁、手術ではなくお灸、Uターンではなく右折待ち、接ぎ木ではなく剪定、転校ではなく席替え、断食ではなく減塩、云々云々と並べ立てた。羅列は意図から外れたり戻ったり、表現はしばしば宙に迷ったけれど命子はしばらく言いやめなかった。

 役場に行って申請した。そんなことが通るとも思われなかったけれど、提出する諸々の書類の中に特別一つの部屋を具体的に切望する旨の嘆願書をまぎれ込ませておいた。

 その後の日々の命子の緊張は相当なもので、これで落ちたらどうなってしまうのかという心配にまさって、この待機状態がこれ以上続けばどうなってしまうのかと案ぜられた。落ちるなら落ちるで早くしてくれなければ、たとえすべてが思い通りになったとしても命子の健康はそれを享受できないものになりそうであった。美那子はいったん忘れさせようとしたけれど、命子はかたくなに祈り続けていた。

 やがて願った部屋への当選の通知が来た。二人で引っ越した。寝耳に水の大天災に舞は慌てふためき、阻止できないとわかると自分もついて行こうとしたけれど、良助の猛反対に抗し切れずにマンションへ残った。

 舞と良助は新居へたびたび遊びに来た。舞は敷地内に入るやハッと瞳を輝かせ、あちこち見回しては「いいな、いいな」と言っていた。エレベーターがないとわかって、狭い階段を上っているあいだは無言だったが、最上階五階突き当たりの新居に入り、窓から海を見、ベランダから遊歩道や公園を見下ろしては「いいな、いいな」と言っていた。

 美那子は、命子の別れたオトコ(申し訳なくも名前を失念した)もそういえば休職中であったなとよぎらぬでもないまま、退職願を出した。百貨店は美那子を惜しがり、しばし真摯に引き留めたのち「いつでも戻って来て下さい」と力んで言った。

 美那子が去った職場で舞は、独りでがんばったけれども美那子がいなくなった空隙からどうどうと流れ込んで来るものに世界の果てまで押し流されて、ぐるぐる回るめまいにようやく慣れたと思うころには百貨店をやめていた。

 舞は「いつでも戻って来て下さい」とは言われなかった。良助が気張って働いていた。町工場は近ごろある古株の事務員のおばさんが去ったことで雰囲気が明るくなっていた。優柔不断な社長夫妻に色々と口出しするおばさんだった。なにか病を患われたそうで、彼女一人が抜けただけですべてが円滑になったとはいえ、やっぱり気の毒なことではあった。

 舞はしばらく家でごろごろし、「職安に勤めれたらな。世の中に失業者がいるかぎり安泰でしょ」などとつぶやいては、我ながらエッジの効いたことを言ったわと自画自賛していた。やがて近所のスーパーのレジ打ちのパートに勤めた。


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