縁日ヶ丘物語

尼子猩庵

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美那子が危機をかわし、命子が予言を聞く 1

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 命子はたいへん器用に暮らしたが、その器用さを美那子はあまり見ないようにしていたし、命子もあまり目立たせないようにしていた。二人で敷地内を散策したり、敷地の外へ出て海まで歩いたり、ぶらぶら過ごしていた。

 ゆっくり朝寝坊をし、たまに早起きしても昼の睡魔にゆだねて午睡なんかしていると、諸々の家事を片づけ、少し休憩して、さあなにか有意義なことをしようと思うころには日が暮れた。一日は短く、以前はこの中に勤労をねじ込んでいたのだと思うとにわかには信じがたかった。

 のんびり暮らしているのに以前よりもだるく、変にくたびれていた。なにか回復しているような気配も、補充されて行くような気配もなかった。身心の内奥の、知らず知らず堆積していた悪いものをむしろ積極的に吐き出している苦しみなのだと前向きに考えてみても、それは強いて吐き出さなければ生涯内奥に沈んだまま逃げ切れたもののようにも感ぜられた。

 無為に過ぎ去る時間がどうやっても捕まえられない。なにものかに奪い取られているようにさえ思われる。

 しかし一過的なものかもしれない。ここであせってなんぞ手を出して、せっかくつかみ取った自由をくだらぬことでまぎらわせるような事態にだけはおちいりたくない。慣れるまでのしんぼうだ。しばらくはヘタになにをも考えないでおこう。――おおむねそういう、目下のところの結論であった。

 毎日は急ぎ足で過ぎ去るのに老いないような感じもして、あたかも時間が二人の寿命を素通りして外部だけに働いているかのようでもあった。

 それらをこじ開けるようにしてある日、命子の弟の賢也が訪ねて来た。美那子は頭がとろけてしまったごとく、名前が賢也であることを今初めて知ったような感じがして、前に言いませんでしたっけ。私聞いたっけ。じゃあ言わなかったんだ。いや聞いてたのかも。

 命子は賢也を歓迎しなかった。賢也が公営住宅への転居や、二人とも無職になっていることやに不快感をあらわにし、熱っぽく説教を述べ始めたところで「買い物」と言って出て行った。

 美那子が接客していた。賢也は黙っていた。しかしなにやら話したい様子であった。それでいて美那子の軽い世間話には上の空で、だんだん思い詰めるらしかった。

 とうとう目が合いながらの沈黙に、美那子は内心ため息しつつ、ひたひたと粟立って来るものを感じた。賢也の心が判然としない。いや悪推量すれば、明白過ぎるほど明白であった。そしてそれは悪推量ではないのに違いなかった。命子の遅いことが憂わしかった。

 果たして賢也はとつぜん立ち上がり、向かって来た。まさかそんなことはしないだろうと思っていたけれど、こう実行されてしまえば当然な行為であるようにも感ぜられた。

 高速に回転する頭の中で、賢也が前に会ってから今日までのあいだにどれほどの回数と分量、自分を思い出し、胸中に汚したり飼育したりしたろうか、しかしこのケダモノの行動の責任は、命子のためとはいえ自らまねいた零落と、団地自体に漂う異世界的な雰囲気――老い朽ちつつある建物の、優しくもどこかあきらめ切ったような匂い――にあるのであって賢也に罪はないかのようにも思われた。

 いつ命子が帰るかわからない場所でハッキリ持ち込まれかけていた。美那子が顔を険しくして強い言葉で拒んでも聞かない。力任せに抵抗すれば当然の権利として殴られるかもしれないと思われた。

 なにか大いなるものから正当に叱られているような気がした。これまでずっと成り立って来たものが無効になっていた。

 しかしこうまで現実の肉体的の危機に直面していながらおのれの感情の薄さに驚く。そして流されそうであった。

 瞬間、確かに直観したわけでもなかったけれど、藁にもすがる悪あがきに

「もしかして、初めてじゃないの……?」

 賢也はとたんに大人しくなった。

 美那子はそっと離れて、玄関のほうへ移動した。服を直し、口や首筋を袖でぬぐいつつ、次の出方をうかがった。賢也はいつかのように顔の老け込まんとするのを全力で避けんがため目に力を入れていた。やがて小さな声で、

「中途半端な気持ちじゃありません」

 それから目まぐるしく頭を働かせるらしかった。然るべき弁明を探すらしかった。しかし遂に見当たらないらしかった。絶望がやって来るらしかった。

 さっきまであんなに確かだったものがかき消えている。世界から急にそっぽを向かれた。そして万民に後ろ指をさされているようないたたまれなさ、おのが実寸の卑小さ……。

 美那子がくり返して端的に断ると、賢也はぼそりと謝罪して、怯えさせない配慮にか、たいへんゆっくり動いて荷物を取ると、帰って行った。

 その後ろすがたの残像の、今後の精神状態が憂慮されるような生傷のやかましさに、美那子は自らへ加害者すら感じつつ、激しく顔を洗った。


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