33 / 93
美那子が危機をかわし、命子が予言を聞く 1
しおりを挟む命子はたいへん器用に暮らしたが、その器用さを美那子はあまり見ないようにしていたし、命子もあまり目立たせないようにしていた。二人で敷地内を散策したり、敷地の外へ出て海まで歩いたり、ぶらぶら過ごしていた。
ゆっくり朝寝坊をし、たまに早起きしても昼の睡魔にゆだねて午睡なんかしていると、諸々の家事を片づけ、少し休憩して、さあなにか有意義なことをしようと思うころには日が暮れた。一日は短く、以前はこの中に勤労をねじ込んでいたのだと思うとにわかには信じがたかった。
のんびり暮らしているのに以前よりもだるく、変にくたびれていた。なにか回復しているような気配も、補充されて行くような気配もなかった。身心の内奥の、知らず知らず堆積していた悪いものをむしろ積極的に吐き出している苦しみなのだと前向きに考えてみても、それは強いて吐き出さなければ生涯内奥に沈んだまま逃げ切れたもののようにも感ぜられた。
無為に過ぎ去る時間がどうやっても捕まえられない。なにものかに奪い取られているようにさえ思われる。
しかし一過的なものかもしれない。ここであせってなんぞ手を出して、せっかくつかみ取った自由をくだらぬことでまぎらわせるような事態にだけはおちいりたくない。慣れるまでのしんぼうだ。しばらくはヘタになにをも考えないでおこう。――おおむねそういう、目下のところの結論であった。
毎日は急ぎ足で過ぎ去るのに老いないような感じもして、あたかも時間が二人の寿命を素通りして外部だけに働いているかのようでもあった。
それらをこじ開けるようにしてある日、命子の弟の賢也が訪ねて来た。美那子は頭がとろけてしまったごとく、名前が賢也であることを今初めて知ったような感じがして、前に言いませんでしたっけ。私聞いたっけ。じゃあ言わなかったんだ。いや聞いてたのかも。
命子は賢也を歓迎しなかった。賢也が公営住宅への転居や、二人とも無職になっていることやに不快感をあらわにし、熱っぽく説教を述べ始めたところで「買い物」と言って出て行った。
美那子が接客していた。賢也は黙っていた。しかしなにやら話したい様子であった。それでいて美那子の軽い世間話には上の空で、だんだん思い詰めるらしかった。
とうとう目が合いながらの沈黙に、美那子は内心ため息しつつ、ひたひたと粟立って来るものを感じた。賢也の心が判然としない。いや悪推量すれば、明白過ぎるほど明白であった。そしてそれは悪推量ではないのに違いなかった。命子の遅いことが憂わしかった。
果たして賢也はとつぜん立ち上がり、向かって来た。まさかそんなことはしないだろうと思っていたけれど、こう実行されてしまえば当然な行為であるようにも感ぜられた。
高速に回転する頭の中で、賢也が前に会ってから今日までのあいだにどれほどの回数と分量、自分を思い出し、胸中に汚したり飼育したりしたろうか、しかしこのケダモノの行動の責任は、命子のためとはいえ自らまねいた零落と、団地自体に漂う異世界的な雰囲気――老い朽ちつつある建物の、優しくもどこかあきらめ切ったような匂い――にあるのであって賢也に罪はないかのようにも思われた。
いつ命子が帰るかわからない場所でハッキリ持ち込まれかけていた。美那子が顔を険しくして強い言葉で拒んでも聞かない。力任せに抵抗すれば当然の権利として殴られるかもしれないと思われた。
なにか大いなるものから正当に叱られているような気がした。これまでずっと成り立って来たものが無効になっていた。
しかしこうまで現実の肉体的の危機に直面していながらおのれの感情の薄さに驚く。そして流されそうであった。
瞬間、確かに直観したわけでもなかったけれど、藁にもすがる悪あがきに
「もしかして、初めてじゃないの……?」
賢也はとたんに大人しくなった。
美那子はそっと離れて、玄関のほうへ移動した。服を直し、口や首筋を袖でぬぐいつつ、次の出方をうかがった。賢也はいつかのように顔の老け込まんとするのを全力で避けんがため目に力を入れていた。やがて小さな声で、
「中途半端な気持ちじゃありません」
それから目まぐるしく頭を働かせるらしかった。然るべき弁明を探すらしかった。しかし遂に見当たらないらしかった。絶望がやって来るらしかった。
さっきまであんなに確かだったものがかき消えている。世界から急にそっぽを向かれた。そして万民に後ろ指をさされているようないたたまれなさ、おのが実寸の卑小さ……。
美那子がくり返して端的に断ると、賢也はぼそりと謝罪して、怯えさせない配慮にか、たいへんゆっくり動いて荷物を取ると、帰って行った。
その後ろすがたの残像の、今後の精神状態が憂慮されるような生傷のやかましさに、美那子は自らへ加害者すら感じつつ、激しく顔を洗った。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全36話⭐︎
倒れた当主を看病する役目を振られた使用人リィナは、彼の部屋へ通うことになる。
栄養、灯り、静かな時間、話し相手――“眠れる夜”を整えていく。そして、回復していく当主アレクシス。けれど彼は、ある夜そっと手を握り返し、低い声で囁く。
「責任、取って?」
噂が燃える屋敷で、ふたりが守るのは“枠(ルール)”。
手だけ、時間だけ、理由にしない――鍵はリィナが握ったまま。
けれど、守ろうとするほど情は育ち、合図の灯りはいつしか「帰る」ではなく「眠る」へ変わっていく。
看病から始まった優しい夜は、静かな執着に捕まっていく。
それでも、捕獲の鍵は彼ではなく――彼女の手にある。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された皇后を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる