縁日ヶ丘物語

尼子猩庵

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よそさまの成就しなかった過去が後押しをしたこと

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 重範からお誘いが来た。日南子はなんぞサークルの旅行に行っているから泊まりに来ませんか。それで美那子は訪ねて行った。

 しばらく軽やかに談笑していた。やがて重範が台所に立っているあいだ、彼の蔵書やCDを眺めて待った。ビールで乾杯して、重範の気取らないタイトな手料理をご馳走になった。

 コーヒーを手に手に、ソファに並んで座り、重範が選んだ映画を見ながら、寄りかかっている時、命子からメールが来た。「遅くにすみません」という件名で、

「会いたいです。メンタルは平気です。ただ会いたくなりました。近々泊まりに行ってもいいですか。久美子も行きたがっていますけど、それはまたの機会で、わたし一人だけで」

 胸中へ物凄い勢いで帰って来るものを、出来得る限り見ないようにして、美那子は命子の薄い体毛や懐かしい匂いを思い出しつつ、重範の熱い指を触っていた。

 肌の相性というものについて、それほど体験的の造詣が深いわけでもないけれど、重範との接触は申し分ないと感ぜられた。

 指は脳の延長だとかなんとかテレビかなにかで言っていた、それを思うと、このように脳の先っちょを組み合わせて申し分ないというのはどういうことであろう。いわゆる皮膚のアルカリ性だとか酸性だとかのバランスの事情が合っているのだろうか。細胞から出る熱や湿気が、行き来する電流かなにかの凹凸だか型番だかが、偶然ほかの人より強く合うのだろうか。ぜんぶ欲求不満から来る一過性の錯覚か。

 なんだかBGMのうるさいヒット映画を二人とももうぼんやりとしか見ていなかった。

 メールの返信をしてもよいかと目で尋ねると、重範は即座にはなんとも応じず、やがてなんだか不自然に、マントルピースへ視線をやった。釣られて見やれば、みやびな円形の文鎮が飾ってある。美那子が先ほど「これいいですね」と言ったものだった。

 制止もないわけだから、構わず返信しようとした時、重範が「あれは、役所で最初に仕事を教えてもらった恩師からゆずり受けた文鎮なんだ」と話し始めた。

 美那子は返信を保留にして聞いた。

 いわく、恩師というのは、圓田まるたさんといって、十数年前に定年退職したあとも嘱託職員として五年間、低賃金でご奉公を続けていた。

 ベテラン不足で現場が回らず、戦力になる人材は退職後も求められた。圓田さんはその後もさらに三年ばかりアルバイトで以て、さらに少ない賃金で応援と若手教育に尽力された。その時に、マンツーマンでみっちり仕込まれた。ごりごりのしごきだったけれども、あんなに人から気にかけてもらったことはなかった。

 ある日、圓田さんの元気がなかった。どうしたんだろうと思っていると、飲みに誘われた。圓田さんはずいぶん飲んで、ぐでんぐでんになって、そして、教えてくれた。

 圓田さんは若いころ、叶わぬ恋をしていたそうな。相手のかたは良家の娘さんで、向こうの親に猛反対され、卑怯な妨害も受けて、おたがい相手の真意を確かめられないまま引き離され、けっきょく結ばれなかった。その後おのおの家庭を持って、二度と会わなかった。

 圓田さんは時々、ひそかに住民基本台帳を見て、その人の存在を確かめていた。何一つ詳しいことはわからない、ただの生存確認として。

 そしてその日、その人の亡くなったことがわかったのだった。

 あの文鎮は、圓田さんが大学受験に挑んでいたころ――受かっていたら、その人との関係は違っていたかもしれないが、けっきょく、受からなかった――その人からもらったものだった。アルバイトの最終日、「俺の形見だ」と言って、僕にくれた。今もお元気だけど、きっとその時に、なにかを済ませてしまったんだろうね……。

 そうして重範は黙った。美那子は返信しないまま携帯電話を机に置いた。

 重範はこれまで機会があるたび、たいへん紳士的に辞退して来たが、ことによるとなにか事情があるのではないか、体のどこか悪いのではないか、あるいは根深い劣等コンプレックスでもあるのではないかと、そんなことを言って来る舞をたしなめつつ、だけどそうなのかしらとぼんやり思っていた美那子であった。

 けれども、そういうものは見当たらなかった。


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