婚約破棄された公爵令嬢は、真実の愛を証明したい

香月文香

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口づけと逃亡

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「私、本当に平気でしたよ?」
「だから何だ? あのくだらない女に、リリアーナが侮られるのを黙って見ていろと?」

 あの白けきった空気をなんとか収めた後、私は宮殿の庭園をエドヴァルドとそぞろ歩いていた。

 四囲には銀の月光が降り注ぎ、スノードロップやサイネリアといった花々が色とりどりに咲いている。冷たく張り詰めた空気の中、吐く息が白く凝った。

「そうではなくて……程度があるでしょう。あそこまで怒りを見せなくても、エドヴァルドであればもっと上手く対応できたのでは?」
「そうだな。で?」
「で?」

 私は片眉を上げて、鸚鵡返しに答える。エドヴァルドが大きくため息をついた。

「……頭に血が上ったことは認める。あの女の物言いの何もかもが不愉快だった」
「エドヴァルドらしくもないですね? 王族であればあれくらいの言いがかりは慣れているでしょう。もっと酷いことを言われたことだってあるはずです」
「そうだな、異国の売女の血を引く第二王子とかな」
「そこまでの記憶を掘り起こしてほしいわけではございません」

 エドヴァルドが軽く言ったので私も軽く応じるが、胸に引っ掻かれたような痛みが走った。エリック派の貴族が、そんなふうに彼を称しているのを聞いたことがある。そんなときでも、エドヴァルドは涼しい顔でやり過ごしていたのに。

 エドヴァルドはほのかに笑って、私の頬を片手で撫でた。

「がっかりさせたか」
「……いえ?」

 エドヴァルドの手のひらは温かかった。凍てつく夜の空気に心地良い。私はちょっと首を傾けて、頬を擦り付けるようにしながら目を閉じる。

 よくよく考えると、あの二人にもたらされる苦難は大きければ大きいほど良い。エリックはあんな状況でもアンナを置いていかなかった。やはり愛は偉大なのだ。

「私の目的からすれば、あなたの行動は満足いくものでした。これから先もどんどん二人を苦境に陥れてください」

 瞼を上げると、思いのほか近くにエドヴァルドの顔があって驚く。とっさに息を止めた。

「……何です?」
「口づけしてもよいのかと」
「良くありませんが⁉︎」

 どこをどう切り取ったらそうなるのだ。私はぐいぐいとエドヴァルドの肩を押して距離を取る。高鳴る鼓動の音は努めて無視した。

 エドヴァルドは大人しく身を引き、探るような色を含ませて私を見つめた。

「——婚約者だった頃、エリックとはどこまで?」
「少なくとも、この庭園には来ましたね」
「リリアーナ」

 そこにあるのは、まるで冗談を許さない気配。私は内心頭を抱えた。なんで急にそんなこと気にし始めたのか。どうしてエドヴァルドにこんなことを話さなくてはならないのだ。私がどこまで兄のものか確認したいと? つまらないことを気にしないで欲しい。私にとっては世界で一番興味ない話題だ。

「……口づけはしました」

 ぼんやり遠くを見つめる。そういえば、エリックとキスしたのもこんな冬の庭園だった。こんなものか、と思ったことを覚えている。唇が冷たくて、寒くて、早く終わらないかと心ここに在らずだった。それが伝わったのか、エリックには二度と私にそういうことは求めなかったし、私もエリックとそうしたいとは思わなかった。

 そんなに心躍るものではなかった、と続けようとして、強くかき抱かれる。何がと思っているうちに、唇を熱いもので塞がれた。

「……んんっ」

 エドヴァルドにキスされている、という事実を把握するのに少しかかった。どうして? なんで? そういう雰囲気だったの?

 疑問が渦巻くのに、頭が痺れたようになって上手く思考が回らない。ふにゃりと体から力が抜けた。その場に崩れ落ちそうなところを、エドヴァルドにしっかりと抱えられる。

 何度も何度も口づけられて、私は完全に思考停止状態だった。エドヴァルドに全てを委ね、ただ与えられる熱に翻弄される。彼がどんな顔で私にキスしているのかなんて確かめる余裕もなかった。

 どれくらい時間が経ったのか。一瞬だった気もするし、ずいぶん長い時間だったような気もする。
 名残惜しげに唇が離れていった。

「え……? あ……?」

 呆然としたまま、私はゆっくり瞬く。目に涙が浮かんで、視界はぼんやりしていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、やっとエドヴァルドを見留めることができた。

 彼は恐ろしいほどの無表情で私を見下ろしていた。完全に表情が欠落しており、その内心は窺えない。何か激情を抑え込んでいるようにも見えるし、この世の全てを軽蔑しているようにも見えた。

 形の良い唇が、うっすら開かれる。

「……これではダメか」
「え……?」

 エドヴァルドの長い指が、私の唇の縁をなぞっていく。そのかすかな感覚にさえ、体が震えそうになって息を呑んだ。

 エドヴァルドが、私の顔を覗き込む。

「俺では、リリアーナに真実の愛を与えることはできないのか」
「な……」

 私は思わず呼吸を止めた。喉の辺りで、ヒュッと呼気が押し潰された。

 エドヴァルドの表情は真に迫っていて、惜しみなく降る月光の下、金の瞳に名状し難い輝きが宿っている。とっさに顔を逸らそうとして、顎を掴まれた。痛くはないが、拒否を許さない強さだった。

「どうしてあの馬鹿王子と馬鹿女にこだわる?」
「ふ、不敬ですよ、そんな言い方」
「なぜ俺ではいけないんだ。何も考えられないくらい愛してやる。婚約破棄のこともステラルードのことも、何もかも忘れるくらいに」
「あら、あなたは私が好きなんですか?」
「答えろ、リリアーナ」

 とても笑い飛ばせる雰囲気ではない。いつの間にかエドヴァルドの腕に抱きすくめられていて、背骨が軋みそうだった。

「な、なぜって……」

 口ごもる私の声は震えていた。冷たい風が吹いて、ドレスの裾を揺らしていく。

「私は別に、自分が愛されたいわけではないのです」

 私がやりたいのは真実の愛の証明で、それ以外は心底どうでも良かった。

「だから……私に愛を向けられても……、私は興味を持てません。ごめんなさい」

 エドヴァルドの視線は私を射抜くようで、逃げ出すなんてとても叶いそうにない。だから私は彼の腕の中でわなないて、哀れっぽく見上げるしかできなかった。

 辺りを囲む木々が、ため息をこぼすように葉を擦れ合わさせる。

 エドヴァルドの唇の端が一瞬震えて、それからぎゅっと引き結ばれた。

「……そうか」

 噛み締めた歯の隙間から漏れ出たのは、呻くような声だった。今しも心臓を短剣で突き刺されたのかと疑いたいくらい、苦しげな響きだった。

 この上なく慎重な仕草で、腕がほどかれる。恭しく地面の上に下ろされて、私は自分がほとんど爪先立ちになっていたことを知った。

 おそるおそる、エドヴァルドを見上げる。エドヴァルドは私から顔を背けていた。彼は私よりもずっと身長が高くて、そうされると表情は見えなかった。

「……俺はリリアーナを傷つけたくはない」

 声音は夜気に溶けそうだった。

「だから今は……遠くに逃げてくれ」

 私は何も言えずに頷いて、くるりと踵を返した。こみ上げるものを飲み下し、庭園の小径を走り出す。
 言われた通り、逃げ出したのだ。
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