婚約破棄された公爵令嬢は、真実の愛を証明したい

香月文香

文字の大きさ
5 / 7

リリアーナには分からない

しおりを挟む
 気づけば、城の湖畔に来ていた。湖面にはうっすら氷が張り、鏡のように月を映している。

「……はは」

 口からこぼれたのは乾いた笑い声。
 どうしたらいいのかまるで分からなかった。子供みたいだ。親に放り出されて迷子になってしまった子供。

 だいたい、と先ほどまでの会話を思い返す。

 エドヴァルドはあたかも私を愛しているかのような発言をしていなかったか? そうなのか? 謎すぎる。私は八歳でエリックの婚約者になって、以降恋とか愛とかに無縁で生きてきたから。

 私は誰のことも好きにならなかったから、誰も私を好きにならないと思っていた。だってそうだろう。自分を好きにならない人間を、どうやって愛せる? そうではないのか? エドヴァルドが私を好きだとして、でもなんで?

 確かにかつて婚約者で、ときどき手紙のやり取りなんかはしていたけれど、でもそれだけだ。内容だって、色めいたものは何もなかった。隣国で勉学に励む彼を、頑張って、と応援するくらい。私もエリックの婚約者として妃教育に耐えている。今日はこんな尻拭いをした、と面白おかしく書いたこともある。

 でも、好かれる要素は見当たらない。

 混乱の極地で頭を抱えていると、背後の茂みがガサリと鳴った。猫か何かかと振り向いて、「は?」と間抜けな声をあげる。

 そこに立っていたのは、肩を怒らせたアンナだった。可愛い顔立ちを険しくして、こちらを睨めつけている。

「見つけました、リリアーナ様」
「……ええと?」
「わたし、どうしても許せませんの」
「何を?」

 今、彼女の相手ができる気分ではない。返事がぞんざいになるのを自覚しながら、私は眉をひそめた。

「あの後、エリックさまに叱られましたわ。どうしてリリアーナ様と同じようにできないのかと」
「まあ、それはひどいですね」

 今までエリックの不始末は、全て私が対処してきたのだ。だがそれは長年の慣れと諦念によるもの。アンナに同じことを求めるのは酷だろう。

 けれど、私の心底から同情した答えに、アンナはますます眉を吊り上げた。

「ひどいのはあなたですわ、リリアーナ様! わたしに恥をかかせようとお考えなのね! あなたは公爵家出身だから、男爵家のわたしを馬鹿にしておいでなのだわ!」
「ええ?」
「わたしが失敗すれば、エリックさまが手元に戻ると思っているのでしょう⁉︎ 自分でなければエリックさまを支えられないと思い上がっていらっしゃるから!」

 何が何だか……。

 私は片手で額を押さえて、深々とため息をついた。

「どうお考えか分かりませんが、私ほどあなたを応援している人間もおりませんよ。ありとあらゆる困難を、お二人の愛で乗り越えるところを見せてください」

 だいたい、私はエリックの婚約者になんて戻りたくない。絶対に嫌だ。面倒くさすぎる。それになにより私はエドヴァルドの婚約者だから、今さら他の男のものになんてなりたくない。もう他の誰からもキスなんてされたくないのだ。

 ——ん?

 何かが胸にちらついたところで、アンナのわめき声が耳に突き刺さった。

「ふざけないで!」

 アンナが勢いよく両腕を突き出す。ドン、と衝撃が走った。視界いっぱいに夜空が広がる。

「——あ」

 私の体は傾いで、真っ逆さまに湖に転落した。
 

 ■  ■  ■
 

 何も感じない、と思ったのは一瞬で、すぐに刺すような冷気が体を包んだ。

 もはや寒さというよりは痛みだ。水に沈んだ首から下、氷の刃で斬り付けられるような痛みが襲う。

 岸辺は遠い。もがいてみても、ドレスが体に張り付いて上手く手足を動かせない。そんな私をアンナは高笑いして眺めている。

 ——死ぬのかしら。

 ぼんやり思った。だんだん体が重くなる。意識が遠のいていく。走馬灯なんてたいそうなものはなかった。ただ真っ暗な闇に引き摺り込まれるだけ。

 後悔とか未練とか、そういうものは一切思い付かなかった。死って、思ったよりも劇的ではないのかも。旧友みたいな顔をして、ある日ふらっと訪れるのかも。

 それなら、ステラ姉様もそうだったのかなあ。

 思いかけて否定する。姉は死んでない。だから関係がない。

 けれど、と思う。もう足は動かなくて、湖の底にゆっくりと体が沈んでいく。口元まで水に浸かった。

 もしも死後の世界とか、そういうものがあるとして。
 きっとそこは夢幻の花の咲く美しい楽園。
 そんな場所でステラ姉様に会えるのなら——死ぬのも怖くはないのに。

 ごぶり、と冷たい水が喉に流れ込む。ほとんど氷水だ。体の内側をまた痛みが刺して、湖水が肺にも入って、呼吸もできなくなる。

 息苦しくなって涙が流れる。握りつぶされたみたいに心臓が悲鳴をあげた。視界は霞んで、もう何も見えない。

 ——怖い!

 恐怖が背中に取り憑いた。溺れ死にする苦しみが、死ぬ寸前の甘美な麻痺を貫通する。

 嫌だ、やだ、こわい!

 無我夢中で手を動かす。しっかり動いているのかも分からない。はたから見たら、私はもう死体になって湖にぷかぷか浮いているのかもしれない。

 瞼の裏に蘇るのは、娼婦らしいドレスに身を包んだ首なし死体に、地中に埋められる白亜の棺。

 紛れもない死の気配。

 これに対抗できるものが存在すると、私は証明したかったのだ。

 そのとき、私の近くで水しぶきが高く上がった。

「リリィ!」

 知っている声、さっき別れたばかりの声。だけどその声が私を愛称で呼んでいたのは、もう十年前のことだ。

「しっかりしろ! 息をしろ!」

 強い力で湖面に引き上げられる。新鮮な空気が肺に通って、私は勢いよく咳き込んだ。

 湖に飛び込んだ誰かが、私を抱えて岸辺に連れて行こうとしているようだった。私はされるがままになりながら、呆然とその人の名前を呟く。

「え、エド……」

 そんなふうに誰かを愛称で呼ぶのは、何年ぶりのことだろう。
 

 ■  ■  ■
 

 冬に冷たい湖に落っこちれば、風邪を引くのは自明の理だった。

「……なのに、なぜリリィは無事なんだ……」
「まあ……王太子妃は体力勝負みたいなところがありましたから……?」

 私を助けるために湖に飛び込んだエドヴァルドは、見事に高熱を出して倒れていた。

 あの夜、離宮に担ぎ込まれて以降ベッドから離れられず、私は公爵邸に戻らずに離宮に泊まり込んでエドヴァルドの看病をしている。

 額に浮いた汗を清潔な布で拭いていると、エドヴァルドが眉間に皺を刻んだ。

「恰好がつかない……」

 私の方は一晩眠ったらバッチリ回復したので、エドヴァルドがそう思うのも仕方ないのかもしれない。

 だが。

「私はそう思いませんけれど」

 氷嚢を額に置いてやりながら、私はきっぱり言った。

「誰が何と言おうと、私を助けてくださったあなたは恰好よかったですよ」

 ベッドに横たわったエドヴァルドが、ぱたりと目を瞬かせる。切れ長の瞳が嬉しそうに緩んだ。

「そうか、愛するリリィが言うなら悪くない」
「……」

 たぶん、ここで告げられる全ては、熱に浮かされた譫言なのだと思う。だから私は、彼の発言をあまり真面目に受け止めないように気を付けていた。

 でないと、なんで愛称で呼ぶのかとか、私が好きなのかとか、あらぬことを口走ってしまいそうだからだ。

 エドヴァルドが、そうっと私の方に手を伸ばしてくる。

「……本当は、リリィが寝込まなくて済むなら何よりだと思っているんだ」
「ええ、まあ、はい。ありがとうございます」

 その手が何かを探すように宙空をさまよっているので、私はぎゅっと握ってみた。エドヴァルドの笑みがますます深くなる。

「リリィ」
「はい、ここに」
「あのときみたいに呼んでくれ」

 あのとき、とは。
 すっとぼけても、エドヴァルドの期待に満ちた瞳が私の罪悪感をちくちく刺激する。無視できない。そんなことしたら何か悪い気がする。命の恩人ではあるのだし。

 私は手を繋いだまま、ぽつりと言った。

「……エド?」

 満足そうにエドヴァルドが笑う。結んだ手が、確かに強く握り返された。

「愛してる、リリィ。お前にとっては路傍の石より価値がないだろうがな」

 エドヴァルドはそのままスコンと眠りに落ちた。妙に確信めいた響きだけを残して。

 うーん、なるほど……。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

婚約破棄宣言をされても、涙より先に笑いがこみあげました。

一ノ瀬和葉
恋愛
「――セシリア・エルディアとの婚約を、ここに破棄する!」 煌めくシャンデリアの下で、王太子リオネル殿下が声を張り上げた。 会場にいた貴族たちは一斉に息を呑み、舞踏の音楽さえ止まる。 ……ああ、やっと来たか。 婚約破棄。断罪。悪役令嬢への審判。 ここで私は泣き崩れ、殿下に縋りつき、噂通りの醜態をさらす―― ……はずだったのだろう。周囲の期待としては。 だが、残念。 私の胸に込みあげてきたのは、涙ではなく、笑いだった。 (だって……ようやく自由になれるんですもの) その瞬間の私の顔を、誰も「悪役令嬢」とは呼べなかったはずだ。 なろう、カクヨム様でも投稿しています。 なろう日間20位 25000PV感謝です。 ※ご都合注意。後日談の方を一部修正しました。

心を病んでいるという嘘をつかれ追放された私、調香の才能で見返したら調香が社交界追放されました

er
恋愛
心を病んだと濡れ衣を着せられ、夫アンドレに離縁されたセリーヌ。愛人と結婚したかった夫の陰謀だったが、誰も信じてくれない。失意の中、亡き母から受け継いだ調香の才能に目覚めた彼女は、東の別邸で香水作りに没頭する。やがて「春風の工房」として王都で評判になり、冷酷な北方公爵マグナスの目に留まる。マグナスの支援で宮廷調香師に推薦された矢先、元夫が妨害工作を仕掛けてきたのだが?

【完結】死に戻り8度目の伯爵令嬢は今度こそ破談を成功させたい!

雲井咲穂(くもいさほ)
恋愛
アンテリーゼ・フォン・マトヴァイユ伯爵令嬢は婚約式当日、婚約者の逢引を目撃し、動揺して婚約式の会場である螺旋階段から足を滑らせて後頭部を強打し不慮の死を遂げてしまう。 しかし、目が覚めると確かに死んだはずなのに婚約式の一週間前に時間が戻っている。混乱する中必死で記憶を蘇らせると、自分がこれまでに前回分含めて合計7回も婚約者と不貞相手が原因で死んでは生き返りを繰り返している事実を思い出す。 婚約者との結婚が「死」に直結することを知ったアンテリーゼは、今度は自分から婚約を破棄し自分を裏切った婚約者に社会的制裁を喰らわせ、婚約式というタイムリミットが迫る中、「死」を回避するために奔走する。 ーーーーーーーーー 2024/01/13 ランキング→恋愛95位 ありがとうございました! なろうでも掲載20万PVありがとうございましたっ!

悪役令嬢として断罪された聖女様は復讐する

青の雀
恋愛
公爵令嬢のマリアベルーナは、厳しい母の躾により、完ぺきな淑女として生まれ育つ。 両親は政略結婚で、父は母以外の女性を囲っていた。 母の死後1年も経たないうちに、その愛人を公爵家に入れ、同い年のリリアーヌが異母妹となった。 リリアーヌは、自分こそが公爵家の一人娘だと言わんばかりにわが物顔で振る舞いマリアベルーナに迷惑をかける。 マリアベルーナには、5歳の頃より婚約者がいて、第1王子のレオンハルト殿下も、次第にリリアーヌに魅了されてしまい、ついには婚約破棄されてしまう。 すべてを失ったマリアベルーナは悲しみのあまり、修道院へ自ら行く。 修道院で聖女様に覚醒して…… 大慌てになるレオンハルトと公爵家の人々は、なんとかマリアベルーナに戻ってきてもらおうとあの手この手を画策するが マリアベルーナを巡って、各国で戦争が起こるかもしれない 完ぺきな淑女の上に、完ぺきなボディライン、完ぺきなお妃教育を持った聖女様は、自由に羽ばたいていく 今回も短編です 誰と結ばれるかは、ご想像にお任せします♡

【完結】リクエストにお答えして、今から『悪役令嬢』です。

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「断罪……? いいえ、ただの事実確認ですよ。」 *** ただ求められるままに生きてきた私は、ある日王子との婚約解消と極刑を突きつけられる。 しかし王子から「お前は『悪』だ」と言われ、周りから冷たい視線に晒されて、私は気づいてしまったのだ。 ――あぁ、今私に求められているのは『悪役』なのだ、と。  今まで溜まっていた鬱憤も、ずっとしてきた我慢も。  それら全てを吐き出して私は今、「彼らが望む『悪役』」へと変貌する。  これは従順だった公爵令嬢が一転、異色の『悪役』として王族達を相手取り、様々な真実を紐解き果たす。  そんな復讐と解放と恋の物語。 ◇ ◆ ◇ ※カクヨムではさっぱり断罪版を、アルファポリスでは恋愛色強めで書いています。  さっぱり断罪が好み、または読み比べたいという方は、カクヨムへお越しください。  カクヨムへのリンクは画面下部に貼ってあります。 ※カクヨム版が『カクヨムWeb小説短編賞2020』中間選考作品に選ばれました。  選考結果如何では、こちらの作品を削除する可能性もありますので悪しからず。 ※表紙絵はフリー素材を拝借しました。

「華がない」と婚約破棄された私が、王家主催の舞踏会で人気です。

百谷シカ
恋愛
「君には『華』というものがない。そんな妻は必要ない」 いるんだかいないんだかわからない、存在感のない私。 ニネヴィー伯爵令嬢ローズマリー・ボイスは婚約を破棄された。 「無難な妻を選んだつもりが、こうも無能な娘を生むとは」 父も私を見放し、母は意気消沈。 唯一の望みは、年末に控えた王家主催の舞踏会。 第1王子フランシス殿下と第2王子ピーター殿下の花嫁選びが行われる。 高望みはしない。 でも多くの貴族が集う舞踏会にはチャンスがある……はず。 「これで結果を出せなければお前を修道院に入れて離婚する」 父は無慈悲で母は絶望。 そんな私の推薦人となったのは、ゼント伯爵ジョシュア・ロス卿だった。 「ローズマリー、君は可愛い。君は君であれば完璧なんだ」 メルー侯爵令息でもありピーター殿下の親友でもあるゼント伯爵。 彼は私に勇気をくれた。希望をくれた。 初めて私自身を見て、褒めてくれる人だった。 3ヶ月の準備期間を経て迎える王家主催の舞踏会。 華がないという理由で婚約破棄された私は、私のままだった。 でも最有力候補と噂されたレーテルカルノ伯爵令嬢と共に注目の的。 そして親友が推薦した花嫁候補にピーター殿下はとても好意的だった。 でも、私の心は…… =================== (他「エブリスタ」様に投稿)

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

悪役令嬢ですが、今日も元婚約者とヒロインにざまぁされました(なお、全員私を溺愛しています)

ほーみ
恋愛
「レティシア・エルフォード! お前との婚約は破棄する!」  王太子アレクシス・ヴォルフェンがそう宣言した瞬間、広間はざわめいた。私は静かに紅茶を口にしながら、その言葉を聞き流す。どうやら、今日もまた「ざまぁ」される日らしい。  ここは王宮の舞踏会場。華やかな装飾と甘い香りが漂う中、私はまたしても断罪劇の主役に据えられていた。目の前では、王太子が優雅に微笑みながら、私に婚約破棄を突きつけている。その隣には、栗色の髪をふわりと揺らした少女――リリア・エヴァンスが涙ぐんでいた。

処理中です...