5 / 28
初夜・実践編
しおりを挟む
「……シャ、イリーシャ!」
遠く名を呼ばれている。ついで肩を揺さぶられて、イリーシャの意識は浮上した。目の前で、ユージンが気遣わしげに彼女を見下ろしていた。
昔のことを思い出すうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。まだ夢の世界に半分片足を突っ込んだまま、イリーシャは柔らかく微笑んだ。
「……腕の傷は、手当てしましたか……?」
「腕?」
ユージンが不思議そうに眉を寄せる。その仕草に、イリーシャの意識が急速に覚醒した。そうだ、今の自分は成長期をすっかり終え、この男はロビンを殺した。そして今から初夜だ。
イリーシャはガバリと身を起こした。ベッドの脇に立つユージンを見上げる。彼も寝支度を整え終えたらしく、ゆったりとした寝衣姿だった。
イリーシャの背中に冷たい汗が流れる。何の心構えもできていない。肋骨の内側で、心臓がバクバクと暴れ回っていた。
ユージンは何も言わず、イリーシャを見つめている。イリーシャも彼を強く見据えた。胸元のリボンをぎゅっと握りしめる。
火花が散るような息詰まる睨み合いの中、先に動いたのはユージンだった。床に跪き、イリーシャと目を合わせる。それで、視線の高さが合った。
ユージンは切なげに、熱に浮かされたように問いかけた。
「今夜が何か、分かっているか……?」
イリーシャの肩が揺れる。それを悟られたくなくて、両腕でひしと自分の体を抱きすくめた。乾いた唇を舌で湿し、震えそうな声をできる限り抑えて返答する。
「ええ、初夜でしょう。何をするおつもりですか」
「何もしない」
「は……?」
思いもよらぬ返事に、素っ頓狂な声が出る。ユージンは腕を伸ばし、イリーシャの左手を恭しく取った。おとぎ話の騎士様が、姫君に何かを誓うように。
真っ直ぐな瞳が、イリーシャを射抜く。それで、彼女は身動き一つできなくなった。
「きみが、俺を心から愛してくれるまでは、抱かない」
「え……?」
「俺はいつまでも待てる。イルが俺に抱かれてもいいと思ったら、教えてくれ」
イリーシャの頭にカッと血が上った。乱暴に左手を振り払い、顔を背ける。吐き捨てるように言葉をぶつけた。
「そんな日は、永遠に来ません」
「それならそれで構わない」
イリーシャは顔を歪め、ユージンを睨みつけた。彼は嬉しそうに、薄い笑みを唇に浮かべた。イリーシャは歯噛みする。視線が矢になって、この男を貫けばいいのに。そうすれば、彼はもっと苦しんで、私はその様を笑ってやれるのに。
イリーシャの考えていることを読み取ったかのように、ユージンは言葉を継いだ。
「俺を嫌悪しても、憎んでも構わない。イルが他の人間を愛さなければそれでいい。誰かにつまらない恋なんてして救われようとするな。俺を愛さないなら、誰にも心を開かず、ずっと孤独でいてくれ」
イリーシャは憤然と立ち上がった。素足で床に降り、激情のままにユージンの胸ぐらを掴みあげる。彼は抵抗せず、仔猫がじゃれつくのを眺めるように首を傾けた。
イリーシャは呼吸を荒げ、食いしばった歯の隙間から、声を振り絞った。
「それが目的ですか? 愛しているだのなんだの言っておいて、結局、私を孤独にしたいだけだと? そのためにロビンを奪ったと?」
「違う、ちゃんと聞いてくれ」
イリーシャの手を優しく握り、ユージンはこつんと額を合わせた。切れ長の瞳が、秘めやかに細められる。ユージンの唇が笑みを作り、空気がかすかに震えた。
「愛しているよ、イル。この上なく」
「それは、私の知っているものとは違います」
ユージンの顔から、表情が抜け落ちた。
「ほう? イルはどんな愛を知っているんだ? 誰をどんなふうに愛したのか言え」
ユージンの指に力がこもり、強く手を掴まれる。彼の指の関節が白く浮き上がった。痛みに顔をしかめながら、イリーシャはまっすぐ彼を見つめ返した。
「……少なくとも私は、あの夜以前のジーンのことは、好きでしたよ」
ユージンが瞠目する。イリーシャは必死に言い募った。
「あなたはずっと優しかった。私もロビンも、あなたを兄のように慕っていた。そういうのが、私の知る愛です。どうしてそれではいけないんですか」
「兄か」
ユージンが喉を鳴らして低く笑う。その仄暗さに、イリーシャは我知らず身を引いた。けれどそれを許さないというように彼は腕を伸べ、イリーシャの頬を手のひらで包む。氷の塊を押し付けられているような気がした。
「俺はそれでは我慢できない。イルのすべてを手に入れたい。そのためなら何だってする」
「……ロビンを殺したのもそのためだと?」
「そうだ」
イリーシャの声を抑えた問いに、ユージンは落ち着き払って頷いた。彼女の滑らかな肌の感触を楽しみながら、
「ロビンを殺した。俺がクロッセル家の当主の座に就いた。だから俺はイルと結婚できた。謝罪はしない。俺はまたイルを奪われそうになれば、何度でも同じことを繰り返す。それが俺の愛だ」
「そんなのは愛じゃない!」
「ならば」
ぐっと身を寄せ、イリーシャの顔を覗き込まれる。散大した瞳孔に、火花が散っているように見えた。
「この激情は何だ? 誰かを手に入れたいと思うことは罪か? あいにくと、俺はこのやり方しか知らない。一体誰が、愛なるものとそれ以外とを区別する?」
イリーシャは目を閉じ、泣き出しそうになりながら首を横に振った。彼女にだって分からない。知らないものは区別できない。少なくとも、彼女が抱いたことのない何かであることは確かだった。
もつれそうになる舌をなんとか動かし、言い返す。
「でも、それでも、私は、ただ相手の幸せを祈るような温かなものを愛と呼びたい……」
「そうか」
ユージンは憐れむような眼差しをイリーシャに向ける。彼女の白い耳殻に唇を近づけ、低く声を吹き込んだ。
「それなら、俺のような男に愛される不幸を諦めてくれ」
囁かれるたびにイリーシャの肩がぴくんと跳ねる。ユージンはなだめるように彼女の頭を撫で、優しく耳たぶに口づけた。イリーシャの小さな唇から、弱々しい吐息が漏れる。
「イルにとっては化け物だろうが、俺にはこれしかできないんだよ」
そうして静かに身体を離し、赤くなったイリーシャの目元を指先でたどった。
「今日は疲れただろう? 眠るといい。俺ももう寝る」
話の終わりを示す、穏やかな口調だった。
けれど、イリーシャはそれでは満足できなかった。
この男の何もかもが恐ろしかった。これほどの激情を抱えて、優しい兄の顔をしていたこと、彼自身も尋常でない自覚があるらしいこと、それにもかかわらず自分の思うがままに振る舞うこと。
——だが何よりも、許せない、と思ったのは。
イリーシャへの愛の名の下に、たった一人の弟を殺し、平然としていることだ。
イリーシャはベッドの上からユージンに顔を向けた。できるだけ無垢で、清らかな表情を作って。そうして少し小首を傾げ、イリーシャはとびきり優しく囁いた。
「だからあの夏の日、キスしなかったんですか?」
ユージンの肩が揺れる。イリーシャはぐっと身を寄せて、彼の耳元に息を吹きかけた。
「あのときのあなたなら、私は拒まなかったのに」
途端、激しく腕を引っ張られて、ぐるんと世界が反転した。気づけばイリーシャはベッドに押し倒されて、ユージンを仰いでいた。
イリーシャの上に覆いかぶさったユージンは、無表情で見下ろしている。イリーシャの手首は彼の右手でひとまとめに拘束され、頭上に縫いつけられていた。両足の間にユージンの膝が割って入り、抵抗を抑えている。
もっとも、イリーシャに抗うつもりはなかった。
抗わなくてはならないのはユージンだ。やるならやれ、という思いでイリーシャは彼をひたと見据えた。あなたの言う愛とやらがどれほどのものか、ここで証明してみせろ。怜悧な面を向ける彼女は今や、裁きの庭の主だった。
ユージンの手がイリーシャの顎を掴む。乱暴に上向かせられ、ぐっと顔を寄せられた。ユージンの形の良い眉が苦しげにひそめられる。赤い瞳が情欲で濡れていた。
二人の顔が、あの夏の日と同じくらい近づく。けれど、あのときと違ってイリーシャは目を閉じなかったし、ユージンの手つきはずっと荒っぽかった。
吐息が混ざり合う。イリーシャは目を逸らさない。熱情に浮かされたユージンの顔をじっと見つめても、恐ろしいほど凪いだ心持ちだった。
しばらく、ユージンは耐えているようだった。奥歯を噛んで、苦悶の声を漏らす。目の前に差し出された獲物と、彼の愛とやらを秤にかけて、どちらに傾くか見定めている。
イリーシャはその均衡を、かき乱してやりたくなった。唇をほとんど動かさず、ささめきかける。
「……しないんですか」
「………………………………しない」
長い沈黙のあと、ユージンはぽつりと呟いた。
ぎこちなくイリーシャから手を離す。こわばった動きで彼女の上から退いた。ベッドが軋んで、静かな部屋に大きな音が響く。
ユージンの顔からは、先ほどの荒々しさが綺麗に拭い去られていた。石を投げ込まれた湖面が落ち着くように。そこにはすでに激情の欠片も見当たらなかった。
敷布の上で、喉元をさらして寝そべるイリーシャを愛おしそうに見つめる。
「俺は別に、イルの身体だけが欲しいわけじゃない」
寝室の角灯が消される。彼女の隣に、ユージンが身を横たえる気配がした。
「寒くないか?」
掛布を引き上げ、声をかけてくる。イリーシャは黙って首を横に振った。
それきり、一睡もできずに朝を待った。
遠く名を呼ばれている。ついで肩を揺さぶられて、イリーシャの意識は浮上した。目の前で、ユージンが気遣わしげに彼女を見下ろしていた。
昔のことを思い出すうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。まだ夢の世界に半分片足を突っ込んだまま、イリーシャは柔らかく微笑んだ。
「……腕の傷は、手当てしましたか……?」
「腕?」
ユージンが不思議そうに眉を寄せる。その仕草に、イリーシャの意識が急速に覚醒した。そうだ、今の自分は成長期をすっかり終え、この男はロビンを殺した。そして今から初夜だ。
イリーシャはガバリと身を起こした。ベッドの脇に立つユージンを見上げる。彼も寝支度を整え終えたらしく、ゆったりとした寝衣姿だった。
イリーシャの背中に冷たい汗が流れる。何の心構えもできていない。肋骨の内側で、心臓がバクバクと暴れ回っていた。
ユージンは何も言わず、イリーシャを見つめている。イリーシャも彼を強く見据えた。胸元のリボンをぎゅっと握りしめる。
火花が散るような息詰まる睨み合いの中、先に動いたのはユージンだった。床に跪き、イリーシャと目を合わせる。それで、視線の高さが合った。
ユージンは切なげに、熱に浮かされたように問いかけた。
「今夜が何か、分かっているか……?」
イリーシャの肩が揺れる。それを悟られたくなくて、両腕でひしと自分の体を抱きすくめた。乾いた唇を舌で湿し、震えそうな声をできる限り抑えて返答する。
「ええ、初夜でしょう。何をするおつもりですか」
「何もしない」
「は……?」
思いもよらぬ返事に、素っ頓狂な声が出る。ユージンは腕を伸ばし、イリーシャの左手を恭しく取った。おとぎ話の騎士様が、姫君に何かを誓うように。
真っ直ぐな瞳が、イリーシャを射抜く。それで、彼女は身動き一つできなくなった。
「きみが、俺を心から愛してくれるまでは、抱かない」
「え……?」
「俺はいつまでも待てる。イルが俺に抱かれてもいいと思ったら、教えてくれ」
イリーシャの頭にカッと血が上った。乱暴に左手を振り払い、顔を背ける。吐き捨てるように言葉をぶつけた。
「そんな日は、永遠に来ません」
「それならそれで構わない」
イリーシャは顔を歪め、ユージンを睨みつけた。彼は嬉しそうに、薄い笑みを唇に浮かべた。イリーシャは歯噛みする。視線が矢になって、この男を貫けばいいのに。そうすれば、彼はもっと苦しんで、私はその様を笑ってやれるのに。
イリーシャの考えていることを読み取ったかのように、ユージンは言葉を継いだ。
「俺を嫌悪しても、憎んでも構わない。イルが他の人間を愛さなければそれでいい。誰かにつまらない恋なんてして救われようとするな。俺を愛さないなら、誰にも心を開かず、ずっと孤独でいてくれ」
イリーシャは憤然と立ち上がった。素足で床に降り、激情のままにユージンの胸ぐらを掴みあげる。彼は抵抗せず、仔猫がじゃれつくのを眺めるように首を傾けた。
イリーシャは呼吸を荒げ、食いしばった歯の隙間から、声を振り絞った。
「それが目的ですか? 愛しているだのなんだの言っておいて、結局、私を孤独にしたいだけだと? そのためにロビンを奪ったと?」
「違う、ちゃんと聞いてくれ」
イリーシャの手を優しく握り、ユージンはこつんと額を合わせた。切れ長の瞳が、秘めやかに細められる。ユージンの唇が笑みを作り、空気がかすかに震えた。
「愛しているよ、イル。この上なく」
「それは、私の知っているものとは違います」
ユージンの顔から、表情が抜け落ちた。
「ほう? イルはどんな愛を知っているんだ? 誰をどんなふうに愛したのか言え」
ユージンの指に力がこもり、強く手を掴まれる。彼の指の関節が白く浮き上がった。痛みに顔をしかめながら、イリーシャはまっすぐ彼を見つめ返した。
「……少なくとも私は、あの夜以前のジーンのことは、好きでしたよ」
ユージンが瞠目する。イリーシャは必死に言い募った。
「あなたはずっと優しかった。私もロビンも、あなたを兄のように慕っていた。そういうのが、私の知る愛です。どうしてそれではいけないんですか」
「兄か」
ユージンが喉を鳴らして低く笑う。その仄暗さに、イリーシャは我知らず身を引いた。けれどそれを許さないというように彼は腕を伸べ、イリーシャの頬を手のひらで包む。氷の塊を押し付けられているような気がした。
「俺はそれでは我慢できない。イルのすべてを手に入れたい。そのためなら何だってする」
「……ロビンを殺したのもそのためだと?」
「そうだ」
イリーシャの声を抑えた問いに、ユージンは落ち着き払って頷いた。彼女の滑らかな肌の感触を楽しみながら、
「ロビンを殺した。俺がクロッセル家の当主の座に就いた。だから俺はイルと結婚できた。謝罪はしない。俺はまたイルを奪われそうになれば、何度でも同じことを繰り返す。それが俺の愛だ」
「そんなのは愛じゃない!」
「ならば」
ぐっと身を寄せ、イリーシャの顔を覗き込まれる。散大した瞳孔に、火花が散っているように見えた。
「この激情は何だ? 誰かを手に入れたいと思うことは罪か? あいにくと、俺はこのやり方しか知らない。一体誰が、愛なるものとそれ以外とを区別する?」
イリーシャは目を閉じ、泣き出しそうになりながら首を横に振った。彼女にだって分からない。知らないものは区別できない。少なくとも、彼女が抱いたことのない何かであることは確かだった。
もつれそうになる舌をなんとか動かし、言い返す。
「でも、それでも、私は、ただ相手の幸せを祈るような温かなものを愛と呼びたい……」
「そうか」
ユージンは憐れむような眼差しをイリーシャに向ける。彼女の白い耳殻に唇を近づけ、低く声を吹き込んだ。
「それなら、俺のような男に愛される不幸を諦めてくれ」
囁かれるたびにイリーシャの肩がぴくんと跳ねる。ユージンはなだめるように彼女の頭を撫で、優しく耳たぶに口づけた。イリーシャの小さな唇から、弱々しい吐息が漏れる。
「イルにとっては化け物だろうが、俺にはこれしかできないんだよ」
そうして静かに身体を離し、赤くなったイリーシャの目元を指先でたどった。
「今日は疲れただろう? 眠るといい。俺ももう寝る」
話の終わりを示す、穏やかな口調だった。
けれど、イリーシャはそれでは満足できなかった。
この男の何もかもが恐ろしかった。これほどの激情を抱えて、優しい兄の顔をしていたこと、彼自身も尋常でない自覚があるらしいこと、それにもかかわらず自分の思うがままに振る舞うこと。
——だが何よりも、許せない、と思ったのは。
イリーシャへの愛の名の下に、たった一人の弟を殺し、平然としていることだ。
イリーシャはベッドの上からユージンに顔を向けた。できるだけ無垢で、清らかな表情を作って。そうして少し小首を傾げ、イリーシャはとびきり優しく囁いた。
「だからあの夏の日、キスしなかったんですか?」
ユージンの肩が揺れる。イリーシャはぐっと身を寄せて、彼の耳元に息を吹きかけた。
「あのときのあなたなら、私は拒まなかったのに」
途端、激しく腕を引っ張られて、ぐるんと世界が反転した。気づけばイリーシャはベッドに押し倒されて、ユージンを仰いでいた。
イリーシャの上に覆いかぶさったユージンは、無表情で見下ろしている。イリーシャの手首は彼の右手でひとまとめに拘束され、頭上に縫いつけられていた。両足の間にユージンの膝が割って入り、抵抗を抑えている。
もっとも、イリーシャに抗うつもりはなかった。
抗わなくてはならないのはユージンだ。やるならやれ、という思いでイリーシャは彼をひたと見据えた。あなたの言う愛とやらがどれほどのものか、ここで証明してみせろ。怜悧な面を向ける彼女は今や、裁きの庭の主だった。
ユージンの手がイリーシャの顎を掴む。乱暴に上向かせられ、ぐっと顔を寄せられた。ユージンの形の良い眉が苦しげにひそめられる。赤い瞳が情欲で濡れていた。
二人の顔が、あの夏の日と同じくらい近づく。けれど、あのときと違ってイリーシャは目を閉じなかったし、ユージンの手つきはずっと荒っぽかった。
吐息が混ざり合う。イリーシャは目を逸らさない。熱情に浮かされたユージンの顔をじっと見つめても、恐ろしいほど凪いだ心持ちだった。
しばらく、ユージンは耐えているようだった。奥歯を噛んで、苦悶の声を漏らす。目の前に差し出された獲物と、彼の愛とやらを秤にかけて、どちらに傾くか見定めている。
イリーシャはその均衡を、かき乱してやりたくなった。唇をほとんど動かさず、ささめきかける。
「……しないんですか」
「………………………………しない」
長い沈黙のあと、ユージンはぽつりと呟いた。
ぎこちなくイリーシャから手を離す。こわばった動きで彼女の上から退いた。ベッドが軋んで、静かな部屋に大きな音が響く。
ユージンの顔からは、先ほどの荒々しさが綺麗に拭い去られていた。石を投げ込まれた湖面が落ち着くように。そこにはすでに激情の欠片も見当たらなかった。
敷布の上で、喉元をさらして寝そべるイリーシャを愛おしそうに見つめる。
「俺は別に、イルの身体だけが欲しいわけじゃない」
寝室の角灯が消される。彼女の隣に、ユージンが身を横たえる気配がした。
「寒くないか?」
掛布を引き上げ、声をかけてくる。イリーシャは黙って首を横に振った。
それきり、一睡もできずに朝を待った。
0
あなたにおすすめの小説
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない
斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。
襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……!
この人本当に旦那さま?
って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない
ラム猫
恋愛
幼い頃に、セレフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セレフィアはそれを喜んで受け入れた。
その後、十年以上彼と再会することはなかった。
三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セレフィアはその場を離れた。
しかし治療師として働いているセレフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。
それどころか、シルヴァードはセレフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。
「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」
「お願い、セレフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」
※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
番探しにやって来た王子様に見初められました。逃げたらだめですか?
ゆきりん(安室 雪)
恋愛
私はスミレ・デラウェア。伯爵令嬢だけど秘密がある。長閑なぶどう畑が広がる我がデラウェア領地で自警団に入っているのだ。騎士団に入れないのでコッソリと盗賊から領地を守ってます。
そんな領地に王都から番探しに王子がやって来るらしい。人が集まって来ると盗賊も来るから勘弁して欲しい。
お転婆令嬢が番から逃げ回るお話しです。
愛の花シリーズ第3弾です。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる