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ドン!
胸に銃弾を食らった男が、目を見開いたまま、ゆっくりと運河のなかへ落ちていった。
宵闇。
拳銃を発砲した若いチンピラのもとに、銃声を聞きつけた仲間が集まってくる。
「殺しちまったのかよ」
「この野郎、銃を持ってやがったんだ」
「だからって、何も殺っちまわなくても……」
するとそこに、高価なスーツを着た一人の男が姿を見せた。三十代後半の、細身だが、鷹のように鋭い眼光の男だった。
「あっ……」
チンピラたちが慌てて場所を空ける。
「誰が殺した?」
「へえ、俺です」
「誰が殺していいと言った?」
スーツの男の手が、素早く動いた。
次の瞬間には、若いチンピラの眼前に、拳銃が突きつけられていた。
「す…すいやせん、あいつが銃を持ってて、つい……」
「薬は?」
「それが……」
チンピラが言い淀んだ。
男の細い目が、さらに鋭利さを増した。
チンピラは「ひっ」と声にならない悲鳴をあげた。
殺される。
皆、一様に息を止めた。
……銃声はない。
静寂のなか、やがて男は銃を下げた。
チンピラたちから、安堵の息が漏れた。
「何としても探しだせ。取引がある三日以内にな」
男が命令すると、チンピラたちは弾かれたように散っていった。
「…………」
男は、暗闇のなかで、運河に目を向けた。
運河に落ちた男の死体は、淀んだ流れに乗って、じわじわ進んでいる。いずれどこかの岸に引っかかるか、汚泥のなかに埋まるか。
住人が騒ぎだす気配はない。
スラムでは、こんな騒ぎなど日常茶飯事だ。たかがチンピラの死体など、気に掛ける者もいない。
「おまえも馬鹿な男だな、ノーキン」
流れる死体に向け、男は無表情に……僅かに哀れみの表情を浮かべながら吐き捨てた。
背後に気配を感じたのは、そのときだ。
「誰だ」
咄嗟に振り返り、拳銃を構えた。
「…………」
不規則な足音がして、路地裏から人影が姿を見せる。
杖を突き、腰の曲がった老婆だった。おぼつかない足取りで歩いている。
男は肩の力を抜いた。
「婆さん、いつからそこにいた」
だが、男の問いかけに老婆は答えない。男を見ようともしない。
「おい婆さん、聞いてるのか」
男は拳銃を手にしたまま、老婆に近付いていった。
老婆はようやく遅い歩みを止め、顔を上げて男を見た。
その目は、黄色く濁っていた。
「目が悪いのか」
「あ。誰かおるんかね」
老婆は唇を震わせながら、弱々しい声を発した。
「婆さん、今ここで起きたことを見た……いや、聞いたのか?」
「はあ。夏至はとっくに過ぎたよ」
「何だって?」
そのとき、けたたましい足音とともに、路地裏から薄着の女が飛びだしてきた。
男は、今度はそちらに銃口を向けた。
「な…なんだよ、あんた」
女はびくりと身を竦ませた。
だが悲鳴をあげるようなことはなかった。
これがスラムの女だ。
「娼婦か」
「だから何だい。悪いけど、今日はもう店仕舞いだよ」
「この婆さんの知りあいか?」
「そうだよ。あたいのアパートの下の部屋に住んでるんだ。もう、ばあちゃん。探したよ」
女は、老婆の肩を優しく抱いた。
「早く帰ろう。今夜はシチューを作ったんだ」
「へえ、雨は降っておらんぞう」
「何言ってんの。ほら早く。ああ、あんた」
突っ立っている男に向かって、女は申し訳なさそうに言った。
「婆さんが何かしたんなら、大目に見てやっとくれ。この通り、目も見えないし、もうずっと前からこんな調子なんだからさ。昔はよく、あたいらの面倒見てくれたもんだけどねえ……」
それだけ言うと、女は溜め息を吐きながら老婆の背中を押し、路地裏に消えていった。
「花火はまだかのう」
老婆の声が聞こえ、女が何か答えているようだった。
二人が去っていった後も、男はじっと老婆の歩いていった暗闇を見続けていた。
胸に銃弾を食らった男が、目を見開いたまま、ゆっくりと運河のなかへ落ちていった。
宵闇。
拳銃を発砲した若いチンピラのもとに、銃声を聞きつけた仲間が集まってくる。
「殺しちまったのかよ」
「この野郎、銃を持ってやがったんだ」
「だからって、何も殺っちまわなくても……」
するとそこに、高価なスーツを着た一人の男が姿を見せた。三十代後半の、細身だが、鷹のように鋭い眼光の男だった。
「あっ……」
チンピラたちが慌てて場所を空ける。
「誰が殺した?」
「へえ、俺です」
「誰が殺していいと言った?」
スーツの男の手が、素早く動いた。
次の瞬間には、若いチンピラの眼前に、拳銃が突きつけられていた。
「す…すいやせん、あいつが銃を持ってて、つい……」
「薬は?」
「それが……」
チンピラが言い淀んだ。
男の細い目が、さらに鋭利さを増した。
チンピラは「ひっ」と声にならない悲鳴をあげた。
殺される。
皆、一様に息を止めた。
……銃声はない。
静寂のなか、やがて男は銃を下げた。
チンピラたちから、安堵の息が漏れた。
「何としても探しだせ。取引がある三日以内にな」
男が命令すると、チンピラたちは弾かれたように散っていった。
「…………」
男は、暗闇のなかで、運河に目を向けた。
運河に落ちた男の死体は、淀んだ流れに乗って、じわじわ進んでいる。いずれどこかの岸に引っかかるか、汚泥のなかに埋まるか。
住人が騒ぎだす気配はない。
スラムでは、こんな騒ぎなど日常茶飯事だ。たかがチンピラの死体など、気に掛ける者もいない。
「おまえも馬鹿な男だな、ノーキン」
流れる死体に向け、男は無表情に……僅かに哀れみの表情を浮かべながら吐き捨てた。
背後に気配を感じたのは、そのときだ。
「誰だ」
咄嗟に振り返り、拳銃を構えた。
「…………」
不規則な足音がして、路地裏から人影が姿を見せる。
杖を突き、腰の曲がった老婆だった。おぼつかない足取りで歩いている。
男は肩の力を抜いた。
「婆さん、いつからそこにいた」
だが、男の問いかけに老婆は答えない。男を見ようともしない。
「おい婆さん、聞いてるのか」
男は拳銃を手にしたまま、老婆に近付いていった。
老婆はようやく遅い歩みを止め、顔を上げて男を見た。
その目は、黄色く濁っていた。
「目が悪いのか」
「あ。誰かおるんかね」
老婆は唇を震わせながら、弱々しい声を発した。
「婆さん、今ここで起きたことを見た……いや、聞いたのか?」
「はあ。夏至はとっくに過ぎたよ」
「何だって?」
そのとき、けたたましい足音とともに、路地裏から薄着の女が飛びだしてきた。
男は、今度はそちらに銃口を向けた。
「な…なんだよ、あんた」
女はびくりと身を竦ませた。
だが悲鳴をあげるようなことはなかった。
これがスラムの女だ。
「娼婦か」
「だから何だい。悪いけど、今日はもう店仕舞いだよ」
「この婆さんの知りあいか?」
「そうだよ。あたいのアパートの下の部屋に住んでるんだ。もう、ばあちゃん。探したよ」
女は、老婆の肩を優しく抱いた。
「早く帰ろう。今夜はシチューを作ったんだ」
「へえ、雨は降っておらんぞう」
「何言ってんの。ほら早く。ああ、あんた」
突っ立っている男に向かって、女は申し訳なさそうに言った。
「婆さんが何かしたんなら、大目に見てやっとくれ。この通り、目も見えないし、もうずっと前からこんな調子なんだからさ。昔はよく、あたいらの面倒見てくれたもんだけどねえ……」
それだけ言うと、女は溜め息を吐きながら老婆の背中を押し、路地裏に消えていった。
「花火はまだかのう」
老婆の声が聞こえ、女が何か答えているようだった。
二人が去っていった後も、男はじっと老婆の歩いていった暗闇を見続けていた。
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