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〇2章【波乱と温泉】
9節~熱~ 4
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廊下の奥――少し照明の落ちた細い角を曲がると、ぽつんと古めかしい光が揺れていた。
その先には、小さなプレートで「レクリエーションスペース」と掲げられた一室。
温泉旅館特有の、懐かしさと場末感の入り混じったゲームコーナーがひっそりと広がっていた。
「うっわ、懐かしい……」
ヒロトの低い呟きは、近くを通った笑い声にかき消されていく。
中には、くすんだ銀色のエアホッケー台に、古いパチンコ台。
ジャラジャラとメダルが落ちる軽い音。
年季の入りすぎたクレーンゲームは、左右のライトが少しチカチカしている。
どれも色あせているのに、ボタンを押せば今もなお律儀に光や音を放っているあたり、妙な健気さがあった。
卓球台の端には 『ご利用の際はフロントまで』 の札。
倉本たちがここで騒ぎ倒していた光景が容易に想像でき、ヒロトは思わず苦笑した。
「わぁ~! ゲームコーナーだ!」
ぱぁっと目を輝かせたももを先頭に、女子たちが浴衣の袖をふわりとはためかせながら中へ入いく。
そこでは、同じく湯上がりの社員たちが賑やかに遊んでいる姿が見えた。
卓球でラリーをしている若い男たち。
クレーンゲームに悪戦苦闘する女子のグループ。
エアホッケーのパックが弾かれる軽快な音が、ランプの薄い光に跳ね返っていた。
潮が引いたように仕事の空気は消え去り、代わりに、小学生の放課後のようなゆるい温度がその場を満たしていた。
「うわ~、これいつの景品?」
ちひろが笑いながらクレーンゲームに駆け寄る。
しおりとすみれも、どこか懐かしそうにゆっくりと見て回っていた。
ただ、その輪の少し後ろ――
キリカだけは、一歩遅れて足を踏み入れていた。
浴衣の裾を指先でそっと押さえ、足元を気にしながら周囲を見回している。
落ち着かないというより、心ここにあらず、という表現のほうが近い。
「ホッケーでもやるか?」
ヒロトが後ろから声をかけると、キリカの肩がぴくりと揺れた。
呼び止められたというより、現実に引き戻された、という反応だ。
そして彼の言葉が耳に届かなかったかのように、一拍置いてから振り返る。
ぎこちない動きで見上げてくる顔には、ほんの少しの戸惑いが滲んでいた。
「……? どうした、体調悪いか?」
「い、いえ、その……」
キリカは視線を揺らし、口元をきゅっと結ぶ。
――サウナでの、あの言葉が反響していた。
『じゃあ、明坂せんぱいはそこで見ててください』
ももの、強い眼差し。
胸の奥を鋭く刺していった感情の熱。
『私だって』 と言いかけたのに声にならなかった、あの苦しさが、まだ喉の奥で渦巻いている。
だからだろう。
自分でも訳の分からない衝動が突き上げた。
「あ、あの!」
「おぉ、どうした?」
勢いよく上がった声に、キリカは自分で驚いたように口元を押さえる。
こほん、と小さく咳払いを入れ、姿勢を正した。
「あの、わ、私の、その……ゆ、ゆか……」
「……床?」
聞き取れた音をそのまま返すと、キリカは一瞬で言葉を失う。
言葉を選びあぐねて、ただ真っ赤になっていくキリカ。
しばらく頑張っていたが、呼吸が乱れ、ついに両肩からすっと力が抜けた。
「……なんでもないです……」
小さく絞り出された声には、疲労と、自分への失望と、諦めが混じっていた。
浴衣の裾が少し揺れ、項垂れた視線は床へ落ちる。
そんな彼女に、ヒロトは笑いながら声をかけた。
「なんだよ、変なヤツだな……ほら、やるぞ」
「……はい?」
ぽん、と軽くエアホッケー台を叩く。
乾いた音が静かに響き、キリカがハッとして顔を上げる。
「勝負だ。俺が負けたら、好きなもんなんでも奢ってやる。手加減してやるから、安心しろ」
言いながら、ヒロトは利き手ではない左手をひらひらと掲げて見せる。
その瞬間、キリカの瞳に灯りが宿った。
「……言いましたね? 負けそうになってから右手を使うとか、ダサいことしないでくださいよ?」
さっきまでの不安そうな顔はどこへやら。
すっかりやる気で腕をぐるぐる回している小さな後輩に、ヒロトは笑いそうになってしまった。
煽られやすく、乗せられやすい。
だからこそ、からかいたくなるし、見ていて飽きない。
「なにグズグズしてるんですかっ! ウナギ、奢ってくださいね!」
自分が負けるとは一ミリも思っていない顔だ。
言っていることは図々しいのに、その必死さが妙に可笑しい。
ヒロトは「はいはい」と苦笑しながらも、対面に立ち、コインを入れる。
吐き出された円盤状のパックをキリカが思い切り弾くと、「カァン!」と小気味の良い音が古ぼけたゲームコーナーの一角に響き渡った。
その先には、小さなプレートで「レクリエーションスペース」と掲げられた一室。
温泉旅館特有の、懐かしさと場末感の入り混じったゲームコーナーがひっそりと広がっていた。
「うっわ、懐かしい……」
ヒロトの低い呟きは、近くを通った笑い声にかき消されていく。
中には、くすんだ銀色のエアホッケー台に、古いパチンコ台。
ジャラジャラとメダルが落ちる軽い音。
年季の入りすぎたクレーンゲームは、左右のライトが少しチカチカしている。
どれも色あせているのに、ボタンを押せば今もなお律儀に光や音を放っているあたり、妙な健気さがあった。
卓球台の端には 『ご利用の際はフロントまで』 の札。
倉本たちがここで騒ぎ倒していた光景が容易に想像でき、ヒロトは思わず苦笑した。
「わぁ~! ゲームコーナーだ!」
ぱぁっと目を輝かせたももを先頭に、女子たちが浴衣の袖をふわりとはためかせながら中へ入いく。
そこでは、同じく湯上がりの社員たちが賑やかに遊んでいる姿が見えた。
卓球でラリーをしている若い男たち。
クレーンゲームに悪戦苦闘する女子のグループ。
エアホッケーのパックが弾かれる軽快な音が、ランプの薄い光に跳ね返っていた。
潮が引いたように仕事の空気は消え去り、代わりに、小学生の放課後のようなゆるい温度がその場を満たしていた。
「うわ~、これいつの景品?」
ちひろが笑いながらクレーンゲームに駆け寄る。
しおりとすみれも、どこか懐かしそうにゆっくりと見て回っていた。
ただ、その輪の少し後ろ――
キリカだけは、一歩遅れて足を踏み入れていた。
浴衣の裾を指先でそっと押さえ、足元を気にしながら周囲を見回している。
落ち着かないというより、心ここにあらず、という表現のほうが近い。
「ホッケーでもやるか?」
ヒロトが後ろから声をかけると、キリカの肩がぴくりと揺れた。
呼び止められたというより、現実に引き戻された、という反応だ。
そして彼の言葉が耳に届かなかったかのように、一拍置いてから振り返る。
ぎこちない動きで見上げてくる顔には、ほんの少しの戸惑いが滲んでいた。
「……? どうした、体調悪いか?」
「い、いえ、その……」
キリカは視線を揺らし、口元をきゅっと結ぶ。
――サウナでの、あの言葉が反響していた。
『じゃあ、明坂せんぱいはそこで見ててください』
ももの、強い眼差し。
胸の奥を鋭く刺していった感情の熱。
『私だって』 と言いかけたのに声にならなかった、あの苦しさが、まだ喉の奥で渦巻いている。
だからだろう。
自分でも訳の分からない衝動が突き上げた。
「あ、あの!」
「おぉ、どうした?」
勢いよく上がった声に、キリカは自分で驚いたように口元を押さえる。
こほん、と小さく咳払いを入れ、姿勢を正した。
「あの、わ、私の、その……ゆ、ゆか……」
「……床?」
聞き取れた音をそのまま返すと、キリカは一瞬で言葉を失う。
言葉を選びあぐねて、ただ真っ赤になっていくキリカ。
しばらく頑張っていたが、呼吸が乱れ、ついに両肩からすっと力が抜けた。
「……なんでもないです……」
小さく絞り出された声には、疲労と、自分への失望と、諦めが混じっていた。
浴衣の裾が少し揺れ、項垂れた視線は床へ落ちる。
そんな彼女に、ヒロトは笑いながら声をかけた。
「なんだよ、変なヤツだな……ほら、やるぞ」
「……はい?」
ぽん、と軽くエアホッケー台を叩く。
乾いた音が静かに響き、キリカがハッとして顔を上げる。
「勝負だ。俺が負けたら、好きなもんなんでも奢ってやる。手加減してやるから、安心しろ」
言いながら、ヒロトは利き手ではない左手をひらひらと掲げて見せる。
その瞬間、キリカの瞳に灯りが宿った。
「……言いましたね? 負けそうになってから右手を使うとか、ダサいことしないでくださいよ?」
さっきまでの不安そうな顔はどこへやら。
すっかりやる気で腕をぐるぐる回している小さな後輩に、ヒロトは笑いそうになってしまった。
煽られやすく、乗せられやすい。
だからこそ、からかいたくなるし、見ていて飽きない。
「なにグズグズしてるんですかっ! ウナギ、奢ってくださいね!」
自分が負けるとは一ミリも思っていない顔だ。
言っていることは図々しいのに、その必死さが妙に可笑しい。
ヒロトは「はいはい」と苦笑しながらも、対面に立ち、コインを入れる。
吐き出された円盤状のパックをキリカが思い切り弾くと、「カァン!」と小気味の良い音が古ぼけたゲームコーナーの一角に響き渡った。
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