強制結婚~番になんか、なりたくない~(仮)

万里

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 雪(ユキ)は、自分の左手の薬指に、冷たい銀のリングが嵌められているのを虚ろに見つめた。それは海斗がくれた、番(つがい)の証ではない、ただの飾りだった。β(ベータ)である海斗と、希少なΩ(オメガ)である雪は、正式に番の契りを交わすことは許されなかった。だが、雪にとって、このリングは、愛する海斗との「永遠の約束」そのものだった。

 その海斗が、たった一週間前に、自動車事故で急逝した。
 飛び出した子どもを助けようとして亡くなってしまった。海斗は優しさを絵に描いたような人だった。 誰にでも分け隔てなく接して、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる。そんな海斗らしい最期だった。

 雪は、自分が立っている場所がどこであるのか、もう理解できなかった。豪華な大理石のホール、高価な調度品、そしてすべてを押しつぶすような、この家の無機質な権威。すべてが雪の絶望を深める。

 海斗は、この厳格なα(アルファ)家系にあって、珍しくβだった。だが、海斗は優しかっただけではない。穏やかで人望があり、経営能力も非常に高かったため、家や親族からも一目置かれていた。そんな海斗の跡継ぎを切望した親族が、Ωである自分を紹介した。
『出会いはこういう形だけど、僕は君に幸せになってもらえるよう、努力をするよ』
 見合いの日、そう穏やかに告げた海斗の言葉通り、雪は初めて心からの安息を得た。海斗だけは雪の全てを受け止めてくれた。海斗の前で、雪は初めて「穏やかな自分」でいることができたのだ。

 海斗を失った今、雪の心の内に残るのは、深い悲しみと、そしてαの家系に対する根源的な反発だけだった。
(俺はある意味、自由になる…)
 そう、自分に言い聞かせていた雪の淡い希望は、海斗の葬儀が終わり、弔問客がすべて引き上げた、この薄暗い座敷で、無残に砕かれることになる。

 重厚な引き戸が開き、一人の男が入ってきた。海斗の弟。そして、この家の次期当主となるα。
 陸斗(リクト)。
 陸斗の醸し出す空気は、海斗の暖かさとは真逆だ。刃物のように鋭く、完璧な容姿の奥に隠された冷徹な知性。そして、強いαのフェロモンが、雪のΩとしての本能を逆撫でする。
「何の用だ」
 雪の口調は、荒々しく、刺々しい。それは、海斗の生前、陸斗と顔を合わせた時の雪の態度そのものだった。
 陸斗は、その雪の無礼な態度に表情一つ変えない。その黒い瞳は、雪の存在をただの「不要物」と見定めているようだった。
「あんたの今後の処遇についてだ」
 陸斗は一枚の重い封書を、テーブルに滑らせた。
「処遇? 俺はもう、この家の人間じゃない。お役御免だろ。さっさと消えるよ」
「残念ながら、そうはいかない」陸斗は静かに、しかし冷酷に言い放った。
「あんたは希少なΩだ。家の血筋を絶やすわけにはいかない」
 そして、陸斗は雪の人生を決定づける、最も屈辱的な一言を、何の感情もなく吐き捨てた。
「あんたには、このまま俺と結婚してもらう。形式的な番としてだ。家からの通達だ」

 その瞬間、雪の血管が沸騰した。
「はあ?!ふざけんな!!」
 雪は立ち上がり、手近にあった分厚い座布団を思い切り蹴り飛ばした。座布団は壁に激突し、大きな音を立てる。
「海斗が死んだら、弟のお前と結婚しろって? 俺を何だと思ってる! 貴様らαの血筋を繋ぐための道具か、それとも海斗の遺品か!」
 陸斗は、雪の怒鳴り声に、ようやく表情を歪ませた。しかしそれは、怒りではなく、苛立ちだ。
「道具だろうが遺品だろうが、結果は同じだろうが。家はあんたを、次の跡継ぎを得るための『資産』と見なしている。俺は、その資産を引き継ぐよう命じられただけだ」
「引き継ぐだと? てめえは、何とも思わねえのか!」
 雪は激しい屈辱に、奥歯が軋むほど噛みしめた。彼らは、海斗が愛した自分を、まるで家具か宝石のように扱っている。
「俺はαだ。家の血筋が最優先だ」陸斗は冷たく言い放つ。「だが、一つだけ言っておく」
 陸斗は鋭く雪を睨みつけた。
「俺だって、心底納得がいっていない。なぜ俺が、兄貴の残した『負債』を背負わされるのか。あんたは、俺にとって迷惑な存在だということを忘れるな」
「っ……!」
 雪は、頭を殴られたような衝撃を受けた。海斗への侮辱、自分への嫌悪。陸斗の言葉は、すべてが雪の神経を逆撫でする。
「嫌だ! お前みたいな、冷血で、傲慢なαの番になんて、なるわけないだろ!」
 雪は、全身のΩフェロモンを荒々しく放ち、明確な拒絶の意思を示した。だが、陸斗のαフェロモンは、それを上回る冷たい圧力で雪を押しつぶそうとする。
「拒否権はないと、言っただろうが。お互いにな。抵抗しても無駄だ」
 陸斗の瞳には、一切の揺らぎがない。この男は、感情ではなく、計算で動いている。
 雪は、自分がこの男に一生縛られるという現実と、海斗がいない世界で他に生きる術がないという絶望に、ただ立ち尽くすしかなかった。

 *

 その夜。雪は自室で、海斗が生きていた頃の会話を思い出していた。
 海斗は時折、弟の陸斗のことを穏やかに話すことがあった。
『弟の陸斗は、僕と違ってαで、とても優秀だ。でも、優秀すぎるんだ。すべてを背負いすぎて、自分を追い詰めている。僕がβだったから、弟に負担をかけてるんだ』
 海斗はいつも、陸斗を心配していた。ある日の午後、海斗ふと、こんなことを言った。
『雪と陸斗は、違うけど少し似ているね』
『どこがだよ?!あんなやつと似てねえだろ!!』
『はは。二人とも自分の本心を隠すのが下手で、正直だ。そして、心根は優しい。だから、きっと仲良くなれると思うよ』
 雪は、その時、激しく反発した。
『仲良くなんかなれるわけないだろ!! あんな生意気で、人を馬鹿にしたαと、俺が似てるわけがない!』
 海斗はただ優しく笑うだけだった。
(海斗、見てるか? あなたの予言は、完全に外れたぞ)
 仲良くなるどころか、憎悪しかない。雪は自嘲した。
(あんなやつと結婚するなんて、死んだ方がマシかもな……)
 雪は、海斗の遺した猫のクロを抱きしめ、その柔らかな毛に顔を埋めた。クロだけが、雪の荒れた心を静かに受け止めてくれる。

 結局、雪は家からの通達に従わざるを得なかった。翌日、二人は新しい屋敷へと移り住んだ。形式上は夫婦。だが、実態は監視者と被監視者だった。

 *

 新しい屋敷は、広大で豪華だったが、海斗との愛の温もりはどこにもない。陸斗は徹底したフェロモン抑制システムを稼働させ、雪との空間を分断した。

 陸斗は、文字通り朝早くから深夜まで仕事に没頭した。雪と顔を合わせることは稀だ。顔を合わせても、互いに目を合わせず、業務的な連絡事項以外は口をきかない。
 雪にとって、陸斗の存在は、常に「冷たい空気」であった。

「おい、雪」
「なんだよ」
「あんた、ちゃんと飯を食べてるのか?」
「お前には関係ないだろ」
 言葉の端々には、互いへの苛立ちと軽蔑が滲む。

 雪は陸斗を憎んでいたが、同時に、陸斗のその冷酷な態度が、雪をこれ以上傷つけないための「防衛策」ではないかと、ふと考えることもあった。しかし、すぐにその考えを打ち消す。このαが優しさなど持つはずがない。

 雪は、毎日、海斗との思い出の品を眺め、クロを抱きしめ、孤独な時間を過ごした。海斗がいなくなって、雪の荒い気性はさらに悪化していた。だが、陸斗と衝突するエネルギーさえ、今は惜しい。


 ある日の深夜、雪は海斗が好きだった映画を、一人でこっそり鑑賞していた。海斗がよく座っていたソファに、雪は横たわっている。
 そのとき、玄関のドアが開く音がした。陸斗が帰宅したのだ。
 陸斗は、雪のいるリビングを通り過ぎ、書斎へと向かおうとした。いつものように、雪を無視するつもりだったのだろう。
 しかし、その瞬間。
 雪は、映画に集中しすぎて、自身のΩフェロモンの抑制がわずかに緩んでいた。その甘く、微かな香りが、リビングの入り口で立ち止まった陸斗の鼻腔を襲った。
「ッ……」
 陸斗の足が止まった。彼のαとしての本能が、制御を失いそうになるのを、雪は感じ取った。
 雪はハッと息を飲み、すぐに体からフェロモンを引っ込めた。
 陸斗は、雪のいるソファを背後から見つめていた。雪のΩのフェロモンは、噂通り非常に魅力的で、純粋なαの血を引く陸斗にとって、抗いがたい誘惑だった。
 雪は、陸斗の強大なフェロモンが、一瞬だが、怒りとは別の「支配」と「欲望」の熱を帯びたのを感じた。
(畜生……っ)
 雪は恐怖と、αの本能的な支配に屈服しそうになる屈辱で、全身が震えるのを感じた。
 陸斗はすぐに理性を取り戻した。彼は雪を「兄の残した負債」とみなし、感情を排除して接していた。この一瞬の本能の揺らぎは、陸斗にとって許しがたいものだったに違いない。
 陸斗は、何も言わずに、荒々しい足音を立てて書斎へと消えていった。
 雪は、陸斗が去った後も、しばらく動くことができなかった。陸斗の冷徹な仮面の下に隠された、αとしての「獣」の存在を、雪は初めて肌で感じたのだ。
(番になんか、なりたくない。絶対に、このαに屈してなんかやるもんか)
 雪は、自分の体に固く誓いを立てた。しかし、その夜、雪は自分のΩとしての本能が、陸斗のαのフェロモンにわずかでも反応したことに、深い絶望を覚えるのだった。
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