強制結婚~番になんか、なりたくない~(仮)

万里

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 海斗が姿を消してから、流れる時間は凍りついたようだった。陸斗は、まるで何かから逃げるかのように、仕事にその身を投じ続けた。朝早く、雪がまだ眠っている間に家を出て、夜遅く、雪がすでに自室に籠った後に帰宅する。彼らの生活空間は、紙一重の距離を保ちながら、完全に分断されていた。

 陸斗の痕跡は、リビングにはない。彼が唯一立ち入るのは、玄関から廊下を抜けた先にある自室と、時折使うキッチンと洗面所だけだ。陸斗は雪と目を合わせることを、会話を交わすことを、徹底的に拒否した。彼の存在は、雪にとって凍えるような空気の振動としてしか感じられなかった。その冷たさが、海斗の残した温かい記憶を、一層際立たせる。

 雪の日常は、家という名の檻の中で、孤独に塗り固められていた。昼間の静寂は、耳鳴りがするほど重い。外出する気力も、理由もなかった。唯一の話し相手は、海斗が可愛がっていた、漆黒の毛並みを持つオス猫、「クロ」だけだ。
 クロは、海斗がいなくなってから、雪のそばを離れなくなった。雪がリビングのソファで膝を抱えていると、クロは必ずその隣に丸くなり、喉を鳴らす。
「クロ……ねえ、海斗、どこ行っちゃったんだろうね」
 雪が独り言のように呟くと、クロは大きな琥珀色の瞳を雪に向け、まるで応えるように「ニャア」と一度だけ鳴いた。その声は、海斗の優しい低音とは似ても似つかないが、雪の心の空洞に、唯一響く音だった。雪はクロの毛並みを優しく撫でる。その小さな体温だけが、この冷え切った家の中で雪を繋ぎ止める命綱だった。

 陸斗が家にいる間は、さらに空気が重くなる。雪はほとんど自室から出なかった。陸斗のαの気配が、家の隅々まで張り詰めているのを感じるからだ。それは威圧的で、硬く、鉄のような匂いがする。雪は抑制剤を飲んだ後も、その重圧に耐えるために、布団の中で体を丸め、小さく息を潜めた。

 *

 ある日の午後。 キッチンへ向かった雪は、喉の渇きを覚えて冷蔵庫を開け、飲みかけのスポーツドリンクに手を伸ばした。ふとした気まぐれで、冷凍庫の扉を開ける。
「……あ」
 思わず声が漏れる。 そこにあったのは、雪にとって何よりも大切なものだった。冷凍庫の一番奥、ひっそりと隠されるように置かれていた白いカップ――バニラアイス。
 それは海斗が雪のために買ってきてくれたものだった。コンビニ限定の少し高級なアイスで、海斗自身が一番好きだと言っていた。渡してくれたとき、彼は笑いながら言った。
『雪はアイス好き?ヒートで熱があるときは冷たいものがいいと思って買ってきたよ。このバニラアイス、すごく美味いんだ。僕のおススメ』
 そして、ほんの少し寂しそうに笑いながら続けた。
『僕がβだから、ヒートを収めてやれなくてごめんね』
 その言葉と共に渡されたアイスは、雪にとって海斗が自分を認めてくれた証のように思えた。 思い返せば、ヒートで身体が熱に浮かされていた夜、海斗がスプーンで少しずつ口に運んでくれたことがあった。冷たさが喉をすべり落ちるたび、苦しさがほんの少し和らぎ、海斗の優しい声と笑顔が胸に染み込んでいった。
 だからこそ、最後の一個になってしまった今も、雪はそれを食べることができなかった。寂しい時、苦しい時に冷凍庫を開けて、その存在を確かめるだけで、心が少しだけ温かくなるのだ。
「大丈夫。まだ、ある……」
 雪はそっと手を伸ばし、白いカップに触れる。指先に伝わる冷たさは、まるで海斗の手のひらの温もりを思い出させるようだった。 この冷たさだけが、海斗との最後の繋がり。 雪は目を閉じ、胸の奥に広がる静かな痛みと、微かな安らぎを抱きしめるように、そのカップをそっと撫でた。

 陸斗が珍しく定時に近い時間に帰宅した夜だった。 玄関のドアが重く閉じられる音に続いて、ネクタイを緩める仕草。リビングのドアが開くと同時に、雪は自室で読んでいた本から視線を上げ、気配に息を止めた。
「……はあ…、疲れた」
 低く、苛立ちを含んだ声が廊下に響く。 その声は、家の空気を一瞬で重くする。陸斗は靴を脱ぎ捨てるようにして、真っ直ぐキッチンへ向かった。冷蔵庫のドアが勢いよく開く音に、雪の心臓はきしむように痛んだ。
 夕食を作る気力もなく、ただ甘いものを求めているのだろう。陸斗は冷蔵庫の中を乱雑に漁り、次いで冷凍庫を開ける。ガタン、と響く音。雪の胸に悪い予感が走り、居ても立ってもいられなくなる。
 自室のドアを押し開け、廊下に出ると――そこには、キッチンカウンターに肘をつき、白いカップアイスの蓋を開けている陸斗の姿があった。
 それは、海斗が雪に残した最後の一個。 冷凍庫の奥に隠すようにしまっていた、大切なバニラアイス。
 雪の血が一瞬で沸騰する。
「な、に……してんだよ」
 震える声。陸斗はスプーンでアイスを掬い、口に運びながら面倒くさそうに振り返る。
「ああ?あんたのアイスか?腹減ってたから、食うぞ。別にいいだろ?」
 その声には何の感情もない。雪の胸を締め付ける痛みは、陸斗には届かない。理解しようともしない。
「それは、俺の!海斗が、俺のために買ってきてくれたアイスだ!」
 叫びながら駆け寄り、雪は食べかけのカップを奪い取った。
 陸斗は一瞬凍りついたように動きを止めたが、すぐに怒鳴り声を上げた。
「てめえ、何しやがる!」
 腕を掴まれる。雪は反射的に陸斗の胸倉に掴みかかる。
「返せよ!どうして勝手に食べるんだ!最後の一個だったんだぞ!海斗が、俺のために!買ってきてくれた、最後の、最後の……!」
 雪の声は嗚咽に混じり、言葉が途切れ途切れになる。海斗の死を受け入れられない悲しみ、陸斗の冷たい拒絶への絶望、この家での孤独――それら全てが、たった一つのアイスを巡る衝突をきっかけに堰を切ったように溢れ出す。
「お前のものじゃない!勝手に、勝手に俺のものに触るな!」
「うるせえ!いい加減にしろ!たかがアイスクリーム一つで、こんなに騒ぐな!」
 陸斗の苛立ちが爆発し、雪を突き飛ばす。背中がキッチンの壁に打ち付けられ、衝撃で息が詰まる。
 その瞬間、雪の心の中で何かが弾けた。

 壁に打ち付けられた衝撃が背中に鈍い痛みを残し、陸斗のα特有の強い威圧的なフェロモンが空気を満たす。 その圧力に晒されながら、雪の胸の奥では海斗への切ない思慕と、陸斗への激しい怒りがせめぎ合い、感情の振幅が極端に揺さぶられていた。
 その瞬間、雪の体に異変が走る。 心臓が異常な速度で脈打ち、血液が全身を駆け巡るたびに皮膚が熱を帯びていく。体温は急速に上昇し、抑制剤で押し込めていたΩの本能が、堰を切ったように表層へと押し上がってくる。
「っ……あ、つ……」
 呻き声が漏れる。額から汗が滴り落ち、呼吸は浅く速く乱れる。下腹部の奥から湧き上がる熱と痛みは、理性ではもう抑えきれない。
 ――ヒートだ。
 雪はパニックに陥った。こんな感情的な衝突の直後に発症するなど、想像もしていなかった。毎朝欠かさず抑制剤を飲んでいたはずなのに、今日に限って効きが悪い。いや、海斗を失って以来、積み重なったストレスと孤独が、ついに体の限界を超えたのだ。
 よろめきながら自室へ戻ろうとする雪。
(早く…、追加の抑制剤を飲まないと…)
「どこへ行く、雪!話は終わってないだろ!」
 陸斗の怒鳴り声が背後から響き、肩を掴まれる。 その手の体温が火照った肌に触れた瞬間、雪の中で必死に保っていたΩの理性が一気に崩壊していく。
 次の瞬間、雪の体から甘く、しかし同時に強い拒絶の匂いが溢れ出した。 それは空気を歪ませるほど濃密で、純粋なΩのヒートのフェロモンだった。
 部屋の空気が一変する。雪は震える肩を押さえ、必死に呼吸を整えようとするが、熱はさらに強まり、視界が揺らぎ始める。
「……やめろ、触るな……」

 陸斗は、その匂いを嗅いだ瞬間、全ての思考を奪われた。 この数ヶ月間、兄を失った痛みと雪を拒絶する罪悪感、そしてαとしての本能と理性の狭間で、張り詰めた糸のように過ごしてきた。その極度の緊張状態に、目の前で爆発したΩの甘い香りが、決定的な引き金を引いた。
 理性の鎖が、音を立てて砕け散る。
「……っ」
 陸斗の瞳の色が変わり、彼の体から噴き出すαのフェロモンが雪のフェロモンと衝突し、絡み合い、家中の空気を切り裂く。獰猛で強烈な支配の匂いが広がり、雪はそれが何を意味するかを理解し、絶望に打ちひしがれた。
「いや、だ……!いやだ、やめろ……陸斗!」
 雪は震える声で叫び、陸斗の手を振り払おうともがいた。体が熱いのに、皮膚の表面は鳥肌が立っている。恐怖で体が震える。
 陸斗は獣のような唸り声を上げ、雪の細い体を、力任せに壁に押し付けた。
「あんた、ヒートか……!」
 荒い息遣いが雪の首筋にかかり、圧倒的なαの気配が覆いかぶさる。首には番防止用のカラーがあるため番になることはないはずなのに、それでも雪は恐怖に支配される。
「触るな!触るなっ!!」
 雪は涙を流しながら叫び、陸斗の胸を両手で叩いた。しかしΩがヒートに入った時、αの圧力に抗う力など微塵もない。
「助けて!海斗!海斗……!」
 無意識に漏れた夫の名前。最も心の支えであった存在の名を呼ぶその声は、陸斗の胸に残っていた僅かな理性を焼き尽くす炎となった。
「兄貴の名前を呼ぶな!!」
 陸斗の吼え声は家全体を揺るがすほどの怒りと渇望に満ちていた。海斗の代わりになれない自分、海斗を失った現実、そして目の前で海斗の名を呼ぶ雪。その全てが陸斗を衝動の奴隷にする。
 雪の抵抗は、無力だった。陸斗は雪の首筋に顔を埋め、Ωのフェロモンを深く吸い込んだ。
「離せ……!離せよ!うっ……やめ、ろ……!」
 雪のかすれる声は、陸斗のαの本能には届かない。陸斗は雪の腕を強引に掴み、抵抗を完全に封じる。彼の力は、雪の細い手首を砕くほどに強烈だった。
「お前は……俺の、ものだ……」
 陸斗はそう呟き、雪の抵抗を強引に制圧した。雪は、全身の力を失い、ただ泣き叫ぶことしかできない。その声は、やがて嗚咽となり、そして、強い拒絶のフェロモンと共に、虚しく空気に溶けていった。
 陸斗は、Ωの体温に導かれるまま、理性を捨て、本能のままに行動した。
 雪の意識は、屈辱と激しい痛み、そして悲しみで、遠くへ霞んでいく。視界の端に、棚の上の猫、クロの琥珀色の瞳が見えた。クロは、ただ静かに、その光景を見つめているだけだった。


 全てが終わった後、雪は床の上で身動き一つせず、ただ虚空を見つめていた。
 体の痛みよりも、心の奥底で燃え盛る屈辱と悲しみが、雪を支配していた。それは、海斗の存在を最後に繋ぎ止めていた希望の糸が、陸斗の手によって無惨に引きちぎられたような感覚だった。
 陸斗は雪の上で、しばらく荒い呼吸を繰り返していた。やがて、彼はゆっくりと身を起こし、雪から顔を背ける。そのαの支配的なフェロモンが、一瞬、罪悪感と混乱の色に染まったように雪には感じられたが、すぐに硬い鉄のような拒絶の匂いへと戻ってしまう。
 陸斗は無言で、雪の体を抱き上げた。雪は抵抗する気力もなく、ただ陸斗の腕の中に身を委ねる。その体は、ヒートの余熱と、涙で冷え切っていた。
 バスルームへ雪を運び、手早く、しかし慎重に雪の体を綺麗にしてやった。その間も、雪は微動だにせず、虚ろな目を天井に向けていた。陸斗の動作はまるで、壊れ物を扱う作業のようだった。

 陸斗は雪をバスローブに包むと、雪の自室へと連れて行った。そして、雪を優しくベッドに寝かせ、掛け布団を肩まで引き上げた。
 陸斗が部屋を出ようと背を向けた、その瞬間だった。
「……海、斗……」
 雪の口から、掠れた声が漏れた。
 陸斗の足が、ぴたりと止まる。
「くそっ…!」
 彼は振り返らず、その言葉を振り払うかのように、そのまま部屋を出て行った。
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