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ヒートが終わり、強制的な契りが結ばれてから数日が経った。
陸斗と雪の間に横たわる空気は、以前よりもさらに重かった。張り詰めた緊張感はあるものの、Ωの安堵の香りにも置き換わっている。
雪の体は、αの陸斗と関係を持ったことで、Ωとしての本能に強く揺さぶられていた。意識では激しい屈辱と憎しみを抱いているにもかかわらず、陸斗が近くにいると、脈拍がわずかに安定し、張り詰めていた神経が僅かに緩むのを感じる。それは、感情を完全に無視した、生物としてのΩの反応だった。αの強い支配下に置かれ、強制的に体の繋がりを持った結果、雪のΩは、陸斗を『自分のα』として認識し始めていたのだ。
陸斗自身も変わった。以前は雪と顔を合わせることを避けるように、早朝に出かけ深夜に帰宅していたが、今は仕事を持ち帰るようになり、リビングや書斎にいる時間が増えた。雪がソファに座っていると、彼は数十メートル離れた書斎で、パソコンに向かっている。その距離は物理的には離れているが、αとΩが同じ空間にいるという事実は、彼らの関係が少し変化したことを示していた。
陸斗の放つαのフェロモンは、依然として冷たく硬い威圧感を伴っているが、以前のような、雪を完全に排除しようとする『拒絶』の匂いは薄れていた。代わりに、その支配的な香りの奥に、微かな『責任』のようなものが芽生え始めていた。
*
言葉による交流は、相変わらず冷たかった。 二人が直接会話を交わすのは、本当に必要最低限の時だけ。互いの存在は同じ家にありながらも、まるで透明な壁で隔てられているようだった。
ある日の昼下がり。 雪が冷蔵庫を開けると、ふとした違和感に気づく。冷凍庫の中が、まるでコンビニの陳列棚のように様変わりしていたのだ。
「……何、これ」
思わず息を呑む。 冷凍庫の半分を占めていたのは、海斗が最後に買ってきてくれた、あのコンビニ限定の高級バニラアイスだった。白いパッケージが整然と並び、ぎっしりと詰め込まれている。
雪は震える指先で、その冷たいパッケージに触れた。 陸斗が買ってきたのだ。あの夜、雪が激昂した理由が、たった一つのアイスだったことを理解した上で、彼はこの大量のアイスを買い置きしたのだろう。
海斗の声が記憶の奥から蘇る。
『これ結構売切れてて、なかなか見つからないんだ。通販でも売ってなくてさ。レアなんだよ』
笑いながらそう言っていた海斗の姿。あの時の温かさが、胸に痛いほど蘇る。
――こんなに揃えるためには、何件ものコンビニをはしごしたに違いない。
それを想像すると少し笑える。その行為は、あまりにも不器用で、感情を言葉にできない陸斗が選んだ、唯一の方法だった。物を満たすことで、相手の痛みを埋めようとする、稚拙でぎこちない謝罪のようで。
「……っ」
雪は胸が締め付けられるような、複雑な感情が湧き上がる。 憎しみの根源であるはずの男が、自分の一番大切なもの――海斗の記憶――を、形だけでも満たそうとしている。
食事も変わった。 以前は最低限の栄養を摂るためだけに並べられた、素っ気ない料理ばかりだった。
だが今は違う。 栄養バランスが整えられた和食が、湯気を立てながら食卓に並ぶようになった。炊き立ての白米、出汁の香りが優しい味噌汁、彩り豊かな小鉢。家政婦に改めて指示を出したのだろう。料理はどれも、雪が口にしやすいように工夫されていた。
特に雪の食が進まない時、家政婦は遠慮がちに言った。
「陸斗さんが、雪さんの食べやすいものを、と。いかがでしょうか……?」
雪は皿の上に置かれた柔らかい煮物を見つめた。 その瞬間、記憶の中から海斗の声が蘇る。
『雪は細いんだから、もっと食べた方がいいよ』
そう言って笑いながら、海斗はよく雪の皿に自分の分を取り分けてくれた。煮物の人参を『ほら、好き嫌いしないで、食べて見な。甘くて美味しいぞ』と差し出してくれたこともあった。雪はその笑顔を思い出し、胸が締め付けられる。
今、目の前にある温かい料理は、陸斗が指示を出したものだ。 憎しみの根源であるはずの男が、海斗の優しさを思い出させるからこそ、余計に苦しい。
けれど同時に、心の奥底でほんの僅かな温もりが芽生えるのを否定できなかった。
雪は箸を手に取り、皿の上の煮物をそっと口に運んだ。 柔らかな味が広がると同時に、海斗の笑顔が鮮やかに蘇り、涙が滲みそうになる。
陸斗は、雪を傷つけた直後から、まるでΩの保護者としての役割を、本能的に演じ始めていた。 言葉で優しさを伝えることは頑なに拒み続ける。謝罪の一言もなく、慰めの声もない。けれどその代わりに、行動だけは確かに雪の存在を認め、体と心を気遣うようになっていた。
雪はその不器用な気遣いに、激しく戸惑った。 憎むべきはずのαに、体が、そして心が、微かに応えようとしているのが、恐ろしかった。
*
ある夜、時計の針が深夜を回ろうとしていた。 陸斗はまだ書斎に籠っているものだと思っていた雪は、水を飲もうと静かにリビングへ向かった。
そこには予想外の光景があった。 巨大なプロジェクターには映像が映し出され、音量は小さく絞られている。陸斗はソファに深く沈み込み、グラスを片手に、ただ黙って画面を見つめていた。酒の香りが微かに漂い、彼の肩は重く落ちている。
雪はリビングの入り口で立ち止まった。 その映画のタイトルを、知っていたからだ。胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……それ、海斗の好きだった映画だ…」
無意識に呟いた声は小さく、陸斗に届いたかどうか分からない。だが、陸斗はゆっくりと視線を雪に向けた。
「ああ」陸斗は短く答えた。
「兄貴と、映画館で、一緒に見た…」
その言葉は淡々としていた。けれど、その響きの奥には、長い年月を抱え込んだ記憶の重みが潜んでいた。 海斗と陸斗が並んで映画を見ていた光景が、雪の脳裏に浮かぶ。暗い館内で肩を並べ、時折笑い合う声、何気ない会話、そしてもう二度と戻らない時間。雪自身も海斗と一緒に見たことがある映画だったからこそ、その記憶は胸を締め付ける。
リビングの空気は静かで、映像の淡い光だけが二人を包んでいた。雪は一歩踏み出すこともできず、ただ立ち尽くす。沈黙の中で、陸斗は視線を画面に戻し、ぽつぽつと語り始めた。
「兄貴は、βだが、俺より頭も、性格も…良かった。学校の成績だけじゃない。立ち振る舞い、人への接し方……みんなが兄貴のことを気に入る…」
その声は抑制されていたが、奥底には寂しさが滲んでいた。
「親も親族も、皆、兄貴の方を可愛がった。だから、常に言われたんだ。『どうして、お前がαなんだ?』と」
その言葉は、雪の胸に重く落ちた。 陸斗がそんな言葉を浴びてきたなど、想像すらしていなかった。雪にとってαとは、常に優遇され、力を持ち、支配する側の存在だと思っていた。だが、その裏には、血統ゆえの重圧と、兄への劣等感が積み重なっていたのだ。
「αの俺と、βの兄貴。家督を継ぐのは、αである俺だと最初から決まっていた…。兄貴は、俺が成人するまでの『繋ぎの存在』でしかなかった。それなのに、兄貴の方が後継者として人徳もあれば、才覚もあった…」
「……」
「俺は、ずっと、どうして自分がαなのかと思っていた。兄貴がαで、俺がβだったら良かったのに…」
陸斗は、自嘲するように笑った。その笑みは苦く、どこか壊れそうな脆さを含んでいた。 雪はその横顔を見つめ、胸が痛んだ。
「でも、兄貴だけは違った。『陸斗の方が、俺よりしっかりしてるから大丈夫だよ』と、俺のことをいつも笑って励ましてくれた。αの俺じゃなくて、ただの弟の俺を、兄貴だけは、受け入れてくれたんだ…。俺はそんな兄貴のことを、心から尊敬している…」
その言葉は、静かにリビングの空気に溶けていった。 プロジェクターの淡い光が陸斗の顔を照らし、その影は深い孤独を映し出していた。雪は胸の奥が痛むのを感じた。陸斗の声には、海斗への尊敬と、失った痛みが混じり合っていた。海斗を失った痛みは雪にとっても深いものだったが、陸斗にとってもまた、別の形で心を蝕んでいたのだ。
雪は、このαの意外な弱さと脆さに、心を深く揺さぶられた。 自分を支配し、傷つけたこの男もまた、海斗の優しい光に縋っていた、一人の人間だったのだ。
雪は震える声で、その共通の痛みに応じた。
「……俺も、そうだった」
陸斗は微かに肩を揺らした。驚きとも、共鳴ともつかない反応だった。
「俺だって、Ωなんて、腫れ物だった。ただαの子どもを産むだけの道具として扱われた……。見合いだってそうだ。海斗と結婚すれば親には何か見返りがあったんだろう。でも、海斗だけが、俺のことを見て、一人の人間として、愛をくれて、幸せにしたいって言ってくれた…」
その言葉に、陸斗の瞳がわずかに揺れた。
「俺は、海斗のことを、心から愛してる…っ」
二人の間に、静寂が訪れる。その静寂は、海斗という失われた共通項によって、初めて共有されたた。憎しみの鎖で繋がれたような二人だが、海斗への思いという、深い傷だけは、今、静かに重なり合ったのだ。
プロジェクターの光が淡く瞬き、画面の中の物語は進んでいく。 だが、雪と陸斗にとって、その時間は止まったように感じられた。互いの心の奥底にある痛みが、初めて言葉となり、同じ空気の中で響き合ったからだ。
*
陸斗との、深夜の短い交流から数日後。雪は自身の体の異変に、気づき始めた。
最初の兆候は、異常なまでの強い空腹感だった。朝食を食べたばかりなのに、昼前には胃が空っぽになったような感覚に襲われる。
「……まさか」
最初は気のせいだと思っていたが、倦怠感もひどくなった。午前中から体が鉛のように重く、一日中眠気に襲われる。そして、特定の匂いに、強い吐き気を感じるようになった。胸の奥から込み上げてくる吐き気に、思わず口元を抑えてしまう。
雪は、震えながらトイレの個室に駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
吐き気を収め、鏡を見た雪の顔は、血の気が引いていた。海斗を失った時の悲しみや、陸斗に犯された屈辱とは違う、もっと根源的な恐怖が、雪の全身を支配した。
Ωの体は正直だ。生理学的な知識が、雪の頭の中に冷酷な現実を叩きつける。
「そんな、はず、ない……」
雪は自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。腹を抱え、小さく震える。
周期的に海斗の子では、きっと、ない。海斗とは体のつながりもあったが、一度もこんな風になったことはなかった。
この体調の変化は、明らかに妊娠の初期症状だ。そして、その原因は、数日前にΩとしての本能を叩き起こした、あのα、陸斗との強制的な関係以外にあり得ない。
海斗の愛ではなく、陸斗のたった一度の暴力的な支配の結果、自分の体の中で、新しい命が育まれているかもしれない。
その事実は、雪にとって、海斗との過去を完全に、そして決定的に葬り去るに等しかった。
(いやだ……あいつの、子どもなんて……)
雪は涙を流しながら、必死に腹を抑えた。この体の中で育まれつつあるかもしれないものは、憎むべきαの痕跡。それは、彼らが結ばれてしまったという、逃れようのない運命の鎖を、さらに強く締め付ける。
(海斗の子どもだったら、よかったのに…)
恐怖と戸惑い、そして微かな本能的な期待が入り混じり、雪の心は混沌とした。
雪は、体調の異変を陸斗に隠そうと必死になった。食事の量を減らし、吐き気を悟られないように、部屋に籠る時間も増やした。しかし、Ωの本能的な変化は、αである陸斗には隠し通せないものだった。
その夜、夕食の席で事件は起こった。陸斗が家政婦に用意させたのは、雪好みのあっさりとした出汁茶漬けだったが、出汁の微かな生臭さが、雪の胃を直接抉った。
雪は一瞬、顔色を変え、口元を抑えた。
「っ……!」
雪は席を立ち、逃げるように洗面所へ向かおうとした。その背中に、陸斗の冷たい声が突き刺さる。
「待て」
陸斗の声は、命令だった。雪は立ち止まらざるを得ない。
「最近、食欲がないな。顔色も悪い」
陸斗は、視線を雪の腹部に向けた。αとしての本能が、雪の体の僅かな変化を嗅ぎ取っているのだろう。陸斗の表情は、冷静でありながら、鋭い警戒心を帯びていた。
「体調が悪いのか…?」
陸斗は表面的な理由を尋ねたが、その瞳の奥は、全く別の可能性を探っていた。
雪は首を横に振った。
「ち、違う……ちょっと、寝不足なだけだ…」
「寝不足?」
陸斗はソファから立ち上がり、雪との距離を詰める。彼のαのフェロモンが、雪のΩの核に、強い支配と、同時に好奇の圧力をかける。
「あんた、何か隠しているんじゃないか…?」
陸斗は、雪の顔を覗き込むように言った。その視線は鋭く、雪の嘘を突き破ろうとする。
「そんなことない…」
「嘘をつくな…!」
陸斗の言葉は、まるで雪の心の奥底を覗き見ているようだった。雪は、全身から冷や汗が吹き出るのを感じた。
逃れられない。このαの支配から、そして、自分の体の中で起こりつつある、恐ろしい運命から。
雪は、必死に唇を噛みしめることしかできなかった。
陸斗と雪の間に横たわる空気は、以前よりもさらに重かった。張り詰めた緊張感はあるものの、Ωの安堵の香りにも置き換わっている。
雪の体は、αの陸斗と関係を持ったことで、Ωとしての本能に強く揺さぶられていた。意識では激しい屈辱と憎しみを抱いているにもかかわらず、陸斗が近くにいると、脈拍がわずかに安定し、張り詰めていた神経が僅かに緩むのを感じる。それは、感情を完全に無視した、生物としてのΩの反応だった。αの強い支配下に置かれ、強制的に体の繋がりを持った結果、雪のΩは、陸斗を『自分のα』として認識し始めていたのだ。
陸斗自身も変わった。以前は雪と顔を合わせることを避けるように、早朝に出かけ深夜に帰宅していたが、今は仕事を持ち帰るようになり、リビングや書斎にいる時間が増えた。雪がソファに座っていると、彼は数十メートル離れた書斎で、パソコンに向かっている。その距離は物理的には離れているが、αとΩが同じ空間にいるという事実は、彼らの関係が少し変化したことを示していた。
陸斗の放つαのフェロモンは、依然として冷たく硬い威圧感を伴っているが、以前のような、雪を完全に排除しようとする『拒絶』の匂いは薄れていた。代わりに、その支配的な香りの奥に、微かな『責任』のようなものが芽生え始めていた。
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言葉による交流は、相変わらず冷たかった。 二人が直接会話を交わすのは、本当に必要最低限の時だけ。互いの存在は同じ家にありながらも、まるで透明な壁で隔てられているようだった。
ある日の昼下がり。 雪が冷蔵庫を開けると、ふとした違和感に気づく。冷凍庫の中が、まるでコンビニの陳列棚のように様変わりしていたのだ。
「……何、これ」
思わず息を呑む。 冷凍庫の半分を占めていたのは、海斗が最後に買ってきてくれた、あのコンビニ限定の高級バニラアイスだった。白いパッケージが整然と並び、ぎっしりと詰め込まれている。
雪は震える指先で、その冷たいパッケージに触れた。 陸斗が買ってきたのだ。あの夜、雪が激昂した理由が、たった一つのアイスだったことを理解した上で、彼はこの大量のアイスを買い置きしたのだろう。
海斗の声が記憶の奥から蘇る。
『これ結構売切れてて、なかなか見つからないんだ。通販でも売ってなくてさ。レアなんだよ』
笑いながらそう言っていた海斗の姿。あの時の温かさが、胸に痛いほど蘇る。
――こんなに揃えるためには、何件ものコンビニをはしごしたに違いない。
それを想像すると少し笑える。その行為は、あまりにも不器用で、感情を言葉にできない陸斗が選んだ、唯一の方法だった。物を満たすことで、相手の痛みを埋めようとする、稚拙でぎこちない謝罪のようで。
「……っ」
雪は胸が締め付けられるような、複雑な感情が湧き上がる。 憎しみの根源であるはずの男が、自分の一番大切なもの――海斗の記憶――を、形だけでも満たそうとしている。
食事も変わった。 以前は最低限の栄養を摂るためだけに並べられた、素っ気ない料理ばかりだった。
だが今は違う。 栄養バランスが整えられた和食が、湯気を立てながら食卓に並ぶようになった。炊き立ての白米、出汁の香りが優しい味噌汁、彩り豊かな小鉢。家政婦に改めて指示を出したのだろう。料理はどれも、雪が口にしやすいように工夫されていた。
特に雪の食が進まない時、家政婦は遠慮がちに言った。
「陸斗さんが、雪さんの食べやすいものを、と。いかがでしょうか……?」
雪は皿の上に置かれた柔らかい煮物を見つめた。 その瞬間、記憶の中から海斗の声が蘇る。
『雪は細いんだから、もっと食べた方がいいよ』
そう言って笑いながら、海斗はよく雪の皿に自分の分を取り分けてくれた。煮物の人参を『ほら、好き嫌いしないで、食べて見な。甘くて美味しいぞ』と差し出してくれたこともあった。雪はその笑顔を思い出し、胸が締め付けられる。
今、目の前にある温かい料理は、陸斗が指示を出したものだ。 憎しみの根源であるはずの男が、海斗の優しさを思い出させるからこそ、余計に苦しい。
けれど同時に、心の奥底でほんの僅かな温もりが芽生えるのを否定できなかった。
雪は箸を手に取り、皿の上の煮物をそっと口に運んだ。 柔らかな味が広がると同時に、海斗の笑顔が鮮やかに蘇り、涙が滲みそうになる。
陸斗は、雪を傷つけた直後から、まるでΩの保護者としての役割を、本能的に演じ始めていた。 言葉で優しさを伝えることは頑なに拒み続ける。謝罪の一言もなく、慰めの声もない。けれどその代わりに、行動だけは確かに雪の存在を認め、体と心を気遣うようになっていた。
雪はその不器用な気遣いに、激しく戸惑った。 憎むべきはずのαに、体が、そして心が、微かに応えようとしているのが、恐ろしかった。
*
ある夜、時計の針が深夜を回ろうとしていた。 陸斗はまだ書斎に籠っているものだと思っていた雪は、水を飲もうと静かにリビングへ向かった。
そこには予想外の光景があった。 巨大なプロジェクターには映像が映し出され、音量は小さく絞られている。陸斗はソファに深く沈み込み、グラスを片手に、ただ黙って画面を見つめていた。酒の香りが微かに漂い、彼の肩は重く落ちている。
雪はリビングの入り口で立ち止まった。 その映画のタイトルを、知っていたからだ。胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……それ、海斗の好きだった映画だ…」
無意識に呟いた声は小さく、陸斗に届いたかどうか分からない。だが、陸斗はゆっくりと視線を雪に向けた。
「ああ」陸斗は短く答えた。
「兄貴と、映画館で、一緒に見た…」
その言葉は淡々としていた。けれど、その響きの奥には、長い年月を抱え込んだ記憶の重みが潜んでいた。 海斗と陸斗が並んで映画を見ていた光景が、雪の脳裏に浮かぶ。暗い館内で肩を並べ、時折笑い合う声、何気ない会話、そしてもう二度と戻らない時間。雪自身も海斗と一緒に見たことがある映画だったからこそ、その記憶は胸を締め付ける。
リビングの空気は静かで、映像の淡い光だけが二人を包んでいた。雪は一歩踏み出すこともできず、ただ立ち尽くす。沈黙の中で、陸斗は視線を画面に戻し、ぽつぽつと語り始めた。
「兄貴は、βだが、俺より頭も、性格も…良かった。学校の成績だけじゃない。立ち振る舞い、人への接し方……みんなが兄貴のことを気に入る…」
その声は抑制されていたが、奥底には寂しさが滲んでいた。
「親も親族も、皆、兄貴の方を可愛がった。だから、常に言われたんだ。『どうして、お前がαなんだ?』と」
その言葉は、雪の胸に重く落ちた。 陸斗がそんな言葉を浴びてきたなど、想像すらしていなかった。雪にとってαとは、常に優遇され、力を持ち、支配する側の存在だと思っていた。だが、その裏には、血統ゆえの重圧と、兄への劣等感が積み重なっていたのだ。
「αの俺と、βの兄貴。家督を継ぐのは、αである俺だと最初から決まっていた…。兄貴は、俺が成人するまでの『繋ぎの存在』でしかなかった。それなのに、兄貴の方が後継者として人徳もあれば、才覚もあった…」
「……」
「俺は、ずっと、どうして自分がαなのかと思っていた。兄貴がαで、俺がβだったら良かったのに…」
陸斗は、自嘲するように笑った。その笑みは苦く、どこか壊れそうな脆さを含んでいた。 雪はその横顔を見つめ、胸が痛んだ。
「でも、兄貴だけは違った。『陸斗の方が、俺よりしっかりしてるから大丈夫だよ』と、俺のことをいつも笑って励ましてくれた。αの俺じゃなくて、ただの弟の俺を、兄貴だけは、受け入れてくれたんだ…。俺はそんな兄貴のことを、心から尊敬している…」
その言葉は、静かにリビングの空気に溶けていった。 プロジェクターの淡い光が陸斗の顔を照らし、その影は深い孤独を映し出していた。雪は胸の奥が痛むのを感じた。陸斗の声には、海斗への尊敬と、失った痛みが混じり合っていた。海斗を失った痛みは雪にとっても深いものだったが、陸斗にとってもまた、別の形で心を蝕んでいたのだ。
雪は、このαの意外な弱さと脆さに、心を深く揺さぶられた。 自分を支配し、傷つけたこの男もまた、海斗の優しい光に縋っていた、一人の人間だったのだ。
雪は震える声で、その共通の痛みに応じた。
「……俺も、そうだった」
陸斗は微かに肩を揺らした。驚きとも、共鳴ともつかない反応だった。
「俺だって、Ωなんて、腫れ物だった。ただαの子どもを産むだけの道具として扱われた……。見合いだってそうだ。海斗と結婚すれば親には何か見返りがあったんだろう。でも、海斗だけが、俺のことを見て、一人の人間として、愛をくれて、幸せにしたいって言ってくれた…」
その言葉に、陸斗の瞳がわずかに揺れた。
「俺は、海斗のことを、心から愛してる…っ」
二人の間に、静寂が訪れる。その静寂は、海斗という失われた共通項によって、初めて共有されたた。憎しみの鎖で繋がれたような二人だが、海斗への思いという、深い傷だけは、今、静かに重なり合ったのだ。
プロジェクターの光が淡く瞬き、画面の中の物語は進んでいく。 だが、雪と陸斗にとって、その時間は止まったように感じられた。互いの心の奥底にある痛みが、初めて言葉となり、同じ空気の中で響き合ったからだ。
*
陸斗との、深夜の短い交流から数日後。雪は自身の体の異変に、気づき始めた。
最初の兆候は、異常なまでの強い空腹感だった。朝食を食べたばかりなのに、昼前には胃が空っぽになったような感覚に襲われる。
「……まさか」
最初は気のせいだと思っていたが、倦怠感もひどくなった。午前中から体が鉛のように重く、一日中眠気に襲われる。そして、特定の匂いに、強い吐き気を感じるようになった。胸の奥から込み上げてくる吐き気に、思わず口元を抑えてしまう。
雪は、震えながらトイレの個室に駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
吐き気を収め、鏡を見た雪の顔は、血の気が引いていた。海斗を失った時の悲しみや、陸斗に犯された屈辱とは違う、もっと根源的な恐怖が、雪の全身を支配した。
Ωの体は正直だ。生理学的な知識が、雪の頭の中に冷酷な現実を叩きつける。
「そんな、はず、ない……」
雪は自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。腹を抱え、小さく震える。
周期的に海斗の子では、きっと、ない。海斗とは体のつながりもあったが、一度もこんな風になったことはなかった。
この体調の変化は、明らかに妊娠の初期症状だ。そして、その原因は、数日前にΩとしての本能を叩き起こした、あのα、陸斗との強制的な関係以外にあり得ない。
海斗の愛ではなく、陸斗のたった一度の暴力的な支配の結果、自分の体の中で、新しい命が育まれているかもしれない。
その事実は、雪にとって、海斗との過去を完全に、そして決定的に葬り去るに等しかった。
(いやだ……あいつの、子どもなんて……)
雪は涙を流しながら、必死に腹を抑えた。この体の中で育まれつつあるかもしれないものは、憎むべきαの痕跡。それは、彼らが結ばれてしまったという、逃れようのない運命の鎖を、さらに強く締め付ける。
(海斗の子どもだったら、よかったのに…)
恐怖と戸惑い、そして微かな本能的な期待が入り混じり、雪の心は混沌とした。
雪は、体調の異変を陸斗に隠そうと必死になった。食事の量を減らし、吐き気を悟られないように、部屋に籠る時間も増やした。しかし、Ωの本能的な変化は、αである陸斗には隠し通せないものだった。
その夜、夕食の席で事件は起こった。陸斗が家政婦に用意させたのは、雪好みのあっさりとした出汁茶漬けだったが、出汁の微かな生臭さが、雪の胃を直接抉った。
雪は一瞬、顔色を変え、口元を抑えた。
「っ……!」
雪は席を立ち、逃げるように洗面所へ向かおうとした。その背中に、陸斗の冷たい声が突き刺さる。
「待て」
陸斗の声は、命令だった。雪は立ち止まらざるを得ない。
「最近、食欲がないな。顔色も悪い」
陸斗は、視線を雪の腹部に向けた。αとしての本能が、雪の体の僅かな変化を嗅ぎ取っているのだろう。陸斗の表情は、冷静でありながら、鋭い警戒心を帯びていた。
「体調が悪いのか…?」
陸斗は表面的な理由を尋ねたが、その瞳の奥は、全く別の可能性を探っていた。
雪は首を横に振った。
「ち、違う……ちょっと、寝不足なだけだ…」
「寝不足?」
陸斗はソファから立ち上がり、雪との距離を詰める。彼のαのフェロモンが、雪のΩの核に、強い支配と、同時に好奇の圧力をかける。
「あんた、何か隠しているんじゃないか…?」
陸斗は、雪の顔を覗き込むように言った。その視線は鋭く、雪の嘘を突き破ろうとする。
「そんなことない…」
「嘘をつくな…!」
陸斗の言葉は、まるで雪の心の奥底を覗き見ているようだった。雪は、全身から冷や汗が吹き出るのを感じた。
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