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前話の夜、陸斗に体調の異変を指摘されて以来、雪は恐怖で押し潰されそうになっていた。 自分の体の中で育まれつつあるかもしれない命――それは海斗の優しい影を完全に消し去り、陸斗の支配の証となるものだと感じられた。雪にとって、それは希望ではなく、絶望そのものだった。
しかし、雪の嘘を信じようとしなかった陸斗は、翌朝には決断を下していた。
「着替えろ。病院に連れていく」
低く鋭い声。陸斗は有無を言わせぬαの威圧的なフェロモンを放ちながら、雪の自室の前に立ち塞がった。その存在感は壁のように重く、逃げ場を完全に塞いでいた。
「嫌だ!なんでもないって言ってるだろ!ただの風邪だ!」
雪は必死に抵抗し、ドアの陰に身を隠すようにして叫んだ。だが、その声は震え、説得力を欠いていた。恐怖と焦燥が混じり合い、言葉は空気に溶けて消えていく。
陸斗の瞳は冷酷だった。
「風邪ならなおさら医師に診せろ。いいから、とにかく病院に行くぞ」
その言葉には一片の揺らぎもなく、命令としての重みだけがあった。
雪の抵抗は無力だった。 肩を掴まれ、強引に引き出される。足は震え、心臓は早鐘のように鳴り響く。必死に「行きたくない」と繰り返す雪の声は、陸斗の圧倒的な気配にかき消されていった。
陸斗に無理やり連れられ、普段からこの家の人間が利用している病院へと向かうことになった。 車の窓から見える街並みは、いつもと同じはずなのに、雪には遠く歪んで見えた。人々の姿も、看板も、全てが霞んで揺れ、現実感を失っていく。病院へ近づくたびに、胸の奥で恐怖が膨れ上がり、息が詰まりそうになる。
――その場所で何が告げられるのか。 それを思うだけで、雪の全身は冷たい汗に覆われていた。
「俺は仕事があるから、あとは頼んだぞ」
陸斗は短く言い残し、家政婦に雪を託すと、車で仕事へ向かった。背中を見送る雪の胸には、安堵と絶望が同時に広がった。支配者がいない空間で息ができるはずなのに、これから突きつけられる現実の方が、何倍も恐ろしかった。
病院の診察室。
雪は診察台に座らされ、医師の質問に答えるうちに、自身の体の変化がただの風邪ではないことを思い知らされていく。倦怠感、微熱、吐き気――それらは一つ一つ、医師の冷静な言葉によって「兆候」として並べられていった。
血液検査、ホルモン値のチェック、そしてエコー検査。 無機質な機械音が響く中、雪は硬直したまま、冷たいジェルを腹部に塗られる感覚に身を震わせた。
そして――エコーの画面に映し出された、小さな影。 それはまだ曖昧で、輪郭も不確かなものだった。だが、確かにそこに「存在」があった。
医師が淡々とした声で告げる。
「妊娠していますね。二週間から三週間といったところでしょうか」
その言葉は、雪の耳には死刑宣告のように響いた。 瞬間、血の気が引き、顔面蒼白になった雪は、ベッドの上で震えが止まらなくなった。
海斗の愛ではなく、陸斗の暴力的な支配によってもたらされた命。 その事実が、雪の心を鋭く突き刺す。
――嫌だ。嘘だ。こんなもの、認めない。
心の中で激しく叫ぶ。だが声にはならず、ただ嗚咽が喉を震わせるだけだった。 エコー画面の小さな影は、雪にとって希望ではなく、絶望の象徴だった。
雪は両手で顔を覆い、震える唇からかすれた声を漏らした。
「……いやだ……」
診察室の白い壁は冷たく無機質で、雪の拒絶の声を吸い込み、何も返さなかった。
雪は、この真実を陸斗に告げることの恐ろしさに、体が麻痺していた。
診察室を出ると、雪は家政婦に詰め寄った。
「……あの、このことは……まだ、あいつ、陸斗には言わないで。自分で言うから……」
家政婦は少し困ったように眉を寄せ、しかし静かに頷いた。
「かしこまりました」
その返事に、雪は安堵の息を漏らした。胸の奥に張り詰めていた糸が、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。だが、その安堵は脆く、帰路につく足取りは重く沈んでいた。
「どうだった」
陸斗は帰宅すると同時に立ったまま問いかけた。氷のような視線が雪を射抜き、逃げ場を与えない。
雪は喉が詰まるような感覚に襲われながら、必死に声を絞り出した。
「……なんでもない、ただの風邪だ」
震える声。自分でも嘘だと分かっている。だが、言わなければならなかった。
「薬をもらったから、もう大丈夫…」
陸斗は雪の顔をじっと見つめた。 その瞳は冷たく、微かなΩのフェロモンの動揺と、偽りの匂いを嗅ぎ取っていた。雪の言葉が真実ではないことを、本能的に理解していた。
しかし、陸斗は大きな病気ではないならと深く追及しなかった。
「……そうか」
短い返事。氷のような声。 医師がそう言ったのなら、と、陸斗は表面上は納得したように見えた。
*
雪が嘘をついてから、わずか数時間後のことだった。
この家のかかりつけの病院は、表向きには「厳密なプライバシー保護」を謳っていた。だがその裏では、α血統を持つ本家筋の親族の監視下に置かれていた。特に、家督を継ぐ陸斗の周辺情報は、常に親族間で共有される対象となっていた。
『雪さんが、妊娠されたそうです』
病院の管理システムそのものが、αの血統に関わるΩの妊娠情報を、自動的に本家の情報網へと流す仕組みになっていた。雪が必死に隠そうとした事実は、あっけなく外部へ漏れ出していたのだ。
その情報は、陸斗の耳に入る前に、彼を快く思わない遠縁の親族の元へと届いた。彼らは、陸斗が海斗の死後も雪を追い出さず、かといって番にするわけでもなく、半ば放置している現状に不満を抱いていた。
『陸斗が、繋ぎのΩに子を孕ませた』
『兄の死んだすぐ後に、よくやるものだ』
『家督の安定のためには良いが、なぜ公にしない』
親族たちの間で、ささやきは瞬く間に広がった。彼らにとって雪の妊娠は、陸斗を揺さぶる格好の材料だった。家督の安定を理由に表向きは歓迎しながらも、その裏では陸斗の立場を弱めるための道具として利用しようとしていた。
『公表しないのは、何か隠しているからだ』
『本当に陸斗の子どもなのか?』
冷ややかな声が飛び交い、陸斗の評判を傷つける言葉が次々と積み重ねられていく。
やがて、親族たちは早速陸斗に連絡を取った。
書斎で仕事をしていた陸斗の携帯電話が、低い振動音を立てた。画面に表示されたのは、親族の筆頭である叔父の名。 陸斗は眉をひそめながら応答した。
「陸斗、おめでとう」
唐突な言葉に、陸斗は一瞬、意味を掴めずに沈黙した。
「……叔父さん、どうされましたか?」
「どうって、雪さんが妊娠したんだろう?」
その瞬間、陸斗の血の気が引いた。指先から冷たさが広がり、握っていたペンが机に落ちる。
「……何を、言っているんですか?」
声は低く、震えていた。
「とぼけなくてもいい。病院からの報告があった。お前の子なんだろう?なぜすぐに番にならないんだ?」
叔父の言葉は冷徹で、疑念と圧力を含んでいた。 陸斗は一瞬で、全てを理解した。雪が嘘をついたこと。体調不良が風邪などではなかったこと。そして、この事実が、雪の口からではなく、外部の、最も面倒な親族の口から伝えられたという屈辱的な事実。
胸の奥で、強烈な不信感が爆発した。 なぜ言わなかったのか。なぜ隠したのか。そんなに自分との繋がりが、自分の子どもができたことが嫌なのか。
陸斗の心は、怒りと失望で渦を巻いた。 それは、αとしての責任感を否定されただけではない。雪に対して抱き始めていた親近感――不器用ながらも行動で示してきた気遣い、その全てを拒絶されたような感覚だった。
机に置かれた書類の文字が霞み、視界が揺れる。 叔父の声はなおも続いていたが、陸斗の耳には遠く響くだけだった。
*
陸斗は、仕事道具を放り出し、荒々しい足音でリビングへと向かった。 その足音は、床板を震わせるほど重く、怒りの気配を家中に響かせていた。
雪は、ソファでクロを抱きながらテレビを見ていた。 その顔にはまだ疲労の影が残り、無理に平穏を装っているのが見て取れた。だが、陸斗の影が雪の顔全体を覆い隠した瞬間、張り詰めていた仮面は容易く崩れ落ちた。
「雪」
低く、αとしての威圧を込めた声。 雪はクロを抱きしめたまま、びくりと体を震わせた。
「な、に……?」
「あんたの不調は、ただの風邪だと、そう言ったな?」
冷たく言い放つ陸斗の声に、雪の全身が凍りつく。
「あ……ああ、そうだけど……」
「嘘をつくな」
陸斗は雪の襟元を掴み上げそうになるのを、辛うじて堪えた。
「叔父から連絡があった。お前は妊娠していると、病院から知らせがあったそうだ」
雪は言葉を失った。全身の血が逆流し、息が止まる。まさか、病院を出てから数時間で、親族に情報が行くとは夢にも思っていなかった。
「な……なんで……?」
雪の動揺した声に、陸斗の怒りはさらに募った。
「なぜ俺に隠した?!子どもができたら、まず俺に報告するのが常識だろう!なぜ俺が、家の連中から、お前が妊娠したという最も重要な事実を知らされなければならないんだ!」
その怒りは、単なる情報隠蔽へのものではなかった。 雪が自分をαとして認めていない、頼ってもいない――その拒絶のサインが、陸斗の心を深く抉ったのだ。怒鳴り声に驚き、クロが雪の手をするりと抜けて降りていく。
「それ、は……動揺、して……」
雪は震える声で言った。
「本当か?」
「……」
「その子は、本当に、俺の子どもなのか?」
陸斗の問いは、雪の心にナイフのように突き刺さった。
「っ……当たり前だ!海斗が死んでから、俺の体に触れたのはお前だけだ!」
必死に反論する雪。しかし陸斗の疑念は深まるばかりだった。
「本当にそうか?兄貴の死後、お前は誰とも会っていないと思っていた。だが、本当にそうなのか?俺のいない間に誰かを家に引き入れていたんじゃないのか?でなければ、なぜ俺に隠す必要がある!」
その言葉は屈辱的で、残酷だった。 雪が海斗への思慕を守るために必死でついた嘘を、一瞬で踏み潰し、雪の純粋な心を疑う最低の言葉。
雪は顔面を真っ赤にし、全身が震え上がった。 目の前にいるのは、深夜に海斗の映画を見て弱音を吐露したあの人間的なαではない。 今ここにいるのは、自分を支配し、海斗との絆を汚し、そして自分と子どもの全てを疑う冷酷な獣だった。
「……お前なんか、大嫌いだ」
雪は絞り出すように言った。
「二度と近寄るな、このクソ野郎!」
雪はソファから立ち上がり、陸斗の胸を両手で強く突き飛ばした。 力の差は歴然としているが、その勢いは陸斗を一歩後退させた。
この家に、自分の居場所はもうない。
雪は玄関に向かって走り出した。クロが廊下で心配そうに「ニャア」と鳴きながら追いかけようとするのを振り切り、勢いよく玄関のドアを開け放つ。
「雪!待て!」
陸斗の声が背後から響く。しかし雪は振り返らなかった。 冬の夜の冷たい外気が、火照った雪の頬を鋭く叩いた。
「もう、嫌だ……!」
裸足のまま、雪がちらつく冷たい舗道を、ただひたすらに家から遠ざかるように走り続けた。
しかし、雪の嘘を信じようとしなかった陸斗は、翌朝には決断を下していた。
「着替えろ。病院に連れていく」
低く鋭い声。陸斗は有無を言わせぬαの威圧的なフェロモンを放ちながら、雪の自室の前に立ち塞がった。その存在感は壁のように重く、逃げ場を完全に塞いでいた。
「嫌だ!なんでもないって言ってるだろ!ただの風邪だ!」
雪は必死に抵抗し、ドアの陰に身を隠すようにして叫んだ。だが、その声は震え、説得力を欠いていた。恐怖と焦燥が混じり合い、言葉は空気に溶けて消えていく。
陸斗の瞳は冷酷だった。
「風邪ならなおさら医師に診せろ。いいから、とにかく病院に行くぞ」
その言葉には一片の揺らぎもなく、命令としての重みだけがあった。
雪の抵抗は無力だった。 肩を掴まれ、強引に引き出される。足は震え、心臓は早鐘のように鳴り響く。必死に「行きたくない」と繰り返す雪の声は、陸斗の圧倒的な気配にかき消されていった。
陸斗に無理やり連れられ、普段からこの家の人間が利用している病院へと向かうことになった。 車の窓から見える街並みは、いつもと同じはずなのに、雪には遠く歪んで見えた。人々の姿も、看板も、全てが霞んで揺れ、現実感を失っていく。病院へ近づくたびに、胸の奥で恐怖が膨れ上がり、息が詰まりそうになる。
――その場所で何が告げられるのか。 それを思うだけで、雪の全身は冷たい汗に覆われていた。
「俺は仕事があるから、あとは頼んだぞ」
陸斗は短く言い残し、家政婦に雪を託すと、車で仕事へ向かった。背中を見送る雪の胸には、安堵と絶望が同時に広がった。支配者がいない空間で息ができるはずなのに、これから突きつけられる現実の方が、何倍も恐ろしかった。
病院の診察室。
雪は診察台に座らされ、医師の質問に答えるうちに、自身の体の変化がただの風邪ではないことを思い知らされていく。倦怠感、微熱、吐き気――それらは一つ一つ、医師の冷静な言葉によって「兆候」として並べられていった。
血液検査、ホルモン値のチェック、そしてエコー検査。 無機質な機械音が響く中、雪は硬直したまま、冷たいジェルを腹部に塗られる感覚に身を震わせた。
そして――エコーの画面に映し出された、小さな影。 それはまだ曖昧で、輪郭も不確かなものだった。だが、確かにそこに「存在」があった。
医師が淡々とした声で告げる。
「妊娠していますね。二週間から三週間といったところでしょうか」
その言葉は、雪の耳には死刑宣告のように響いた。 瞬間、血の気が引き、顔面蒼白になった雪は、ベッドの上で震えが止まらなくなった。
海斗の愛ではなく、陸斗の暴力的な支配によってもたらされた命。 その事実が、雪の心を鋭く突き刺す。
――嫌だ。嘘だ。こんなもの、認めない。
心の中で激しく叫ぶ。だが声にはならず、ただ嗚咽が喉を震わせるだけだった。 エコー画面の小さな影は、雪にとって希望ではなく、絶望の象徴だった。
雪は両手で顔を覆い、震える唇からかすれた声を漏らした。
「……いやだ……」
診察室の白い壁は冷たく無機質で、雪の拒絶の声を吸い込み、何も返さなかった。
雪は、この真実を陸斗に告げることの恐ろしさに、体が麻痺していた。
診察室を出ると、雪は家政婦に詰め寄った。
「……あの、このことは……まだ、あいつ、陸斗には言わないで。自分で言うから……」
家政婦は少し困ったように眉を寄せ、しかし静かに頷いた。
「かしこまりました」
その返事に、雪は安堵の息を漏らした。胸の奥に張り詰めていた糸が、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。だが、その安堵は脆く、帰路につく足取りは重く沈んでいた。
「どうだった」
陸斗は帰宅すると同時に立ったまま問いかけた。氷のような視線が雪を射抜き、逃げ場を与えない。
雪は喉が詰まるような感覚に襲われながら、必死に声を絞り出した。
「……なんでもない、ただの風邪だ」
震える声。自分でも嘘だと分かっている。だが、言わなければならなかった。
「薬をもらったから、もう大丈夫…」
陸斗は雪の顔をじっと見つめた。 その瞳は冷たく、微かなΩのフェロモンの動揺と、偽りの匂いを嗅ぎ取っていた。雪の言葉が真実ではないことを、本能的に理解していた。
しかし、陸斗は大きな病気ではないならと深く追及しなかった。
「……そうか」
短い返事。氷のような声。 医師がそう言ったのなら、と、陸斗は表面上は納得したように見えた。
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雪が嘘をついてから、わずか数時間後のことだった。
この家のかかりつけの病院は、表向きには「厳密なプライバシー保護」を謳っていた。だがその裏では、α血統を持つ本家筋の親族の監視下に置かれていた。特に、家督を継ぐ陸斗の周辺情報は、常に親族間で共有される対象となっていた。
『雪さんが、妊娠されたそうです』
病院の管理システムそのものが、αの血統に関わるΩの妊娠情報を、自動的に本家の情報網へと流す仕組みになっていた。雪が必死に隠そうとした事実は、あっけなく外部へ漏れ出していたのだ。
その情報は、陸斗の耳に入る前に、彼を快く思わない遠縁の親族の元へと届いた。彼らは、陸斗が海斗の死後も雪を追い出さず、かといって番にするわけでもなく、半ば放置している現状に不満を抱いていた。
『陸斗が、繋ぎのΩに子を孕ませた』
『兄の死んだすぐ後に、よくやるものだ』
『家督の安定のためには良いが、なぜ公にしない』
親族たちの間で、ささやきは瞬く間に広がった。彼らにとって雪の妊娠は、陸斗を揺さぶる格好の材料だった。家督の安定を理由に表向きは歓迎しながらも、その裏では陸斗の立場を弱めるための道具として利用しようとしていた。
『公表しないのは、何か隠しているからだ』
『本当に陸斗の子どもなのか?』
冷ややかな声が飛び交い、陸斗の評判を傷つける言葉が次々と積み重ねられていく。
やがて、親族たちは早速陸斗に連絡を取った。
書斎で仕事をしていた陸斗の携帯電話が、低い振動音を立てた。画面に表示されたのは、親族の筆頭である叔父の名。 陸斗は眉をひそめながら応答した。
「陸斗、おめでとう」
唐突な言葉に、陸斗は一瞬、意味を掴めずに沈黙した。
「……叔父さん、どうされましたか?」
「どうって、雪さんが妊娠したんだろう?」
その瞬間、陸斗の血の気が引いた。指先から冷たさが広がり、握っていたペンが机に落ちる。
「……何を、言っているんですか?」
声は低く、震えていた。
「とぼけなくてもいい。病院からの報告があった。お前の子なんだろう?なぜすぐに番にならないんだ?」
叔父の言葉は冷徹で、疑念と圧力を含んでいた。 陸斗は一瞬で、全てを理解した。雪が嘘をついたこと。体調不良が風邪などではなかったこと。そして、この事実が、雪の口からではなく、外部の、最も面倒な親族の口から伝えられたという屈辱的な事実。
胸の奥で、強烈な不信感が爆発した。 なぜ言わなかったのか。なぜ隠したのか。そんなに自分との繋がりが、自分の子どもができたことが嫌なのか。
陸斗の心は、怒りと失望で渦を巻いた。 それは、αとしての責任感を否定されただけではない。雪に対して抱き始めていた親近感――不器用ながらも行動で示してきた気遣い、その全てを拒絶されたような感覚だった。
机に置かれた書類の文字が霞み、視界が揺れる。 叔父の声はなおも続いていたが、陸斗の耳には遠く響くだけだった。
*
陸斗は、仕事道具を放り出し、荒々しい足音でリビングへと向かった。 その足音は、床板を震わせるほど重く、怒りの気配を家中に響かせていた。
雪は、ソファでクロを抱きながらテレビを見ていた。 その顔にはまだ疲労の影が残り、無理に平穏を装っているのが見て取れた。だが、陸斗の影が雪の顔全体を覆い隠した瞬間、張り詰めていた仮面は容易く崩れ落ちた。
「雪」
低く、αとしての威圧を込めた声。 雪はクロを抱きしめたまま、びくりと体を震わせた。
「な、に……?」
「あんたの不調は、ただの風邪だと、そう言ったな?」
冷たく言い放つ陸斗の声に、雪の全身が凍りつく。
「あ……ああ、そうだけど……」
「嘘をつくな」
陸斗は雪の襟元を掴み上げそうになるのを、辛うじて堪えた。
「叔父から連絡があった。お前は妊娠していると、病院から知らせがあったそうだ」
雪は言葉を失った。全身の血が逆流し、息が止まる。まさか、病院を出てから数時間で、親族に情報が行くとは夢にも思っていなかった。
「な……なんで……?」
雪の動揺した声に、陸斗の怒りはさらに募った。
「なぜ俺に隠した?!子どもができたら、まず俺に報告するのが常識だろう!なぜ俺が、家の連中から、お前が妊娠したという最も重要な事実を知らされなければならないんだ!」
その怒りは、単なる情報隠蔽へのものではなかった。 雪が自分をαとして認めていない、頼ってもいない――その拒絶のサインが、陸斗の心を深く抉ったのだ。怒鳴り声に驚き、クロが雪の手をするりと抜けて降りていく。
「それ、は……動揺、して……」
雪は震える声で言った。
「本当か?」
「……」
「その子は、本当に、俺の子どもなのか?」
陸斗の問いは、雪の心にナイフのように突き刺さった。
「っ……当たり前だ!海斗が死んでから、俺の体に触れたのはお前だけだ!」
必死に反論する雪。しかし陸斗の疑念は深まるばかりだった。
「本当にそうか?兄貴の死後、お前は誰とも会っていないと思っていた。だが、本当にそうなのか?俺のいない間に誰かを家に引き入れていたんじゃないのか?でなければ、なぜ俺に隠す必要がある!」
その言葉は屈辱的で、残酷だった。 雪が海斗への思慕を守るために必死でついた嘘を、一瞬で踏み潰し、雪の純粋な心を疑う最低の言葉。
雪は顔面を真っ赤にし、全身が震え上がった。 目の前にいるのは、深夜に海斗の映画を見て弱音を吐露したあの人間的なαではない。 今ここにいるのは、自分を支配し、海斗との絆を汚し、そして自分と子どもの全てを疑う冷酷な獣だった。
「……お前なんか、大嫌いだ」
雪は絞り出すように言った。
「二度と近寄るな、このクソ野郎!」
雪はソファから立ち上がり、陸斗の胸を両手で強く突き飛ばした。 力の差は歴然としているが、その勢いは陸斗を一歩後退させた。
この家に、自分の居場所はもうない。
雪は玄関に向かって走り出した。クロが廊下で心配そうに「ニャア」と鳴きながら追いかけようとするのを振り切り、勢いよく玄関のドアを開け放つ。
「雪!待て!」
陸斗の声が背後から響く。しかし雪は振り返らなかった。 冬の夜の冷たい外気が、火照った雪の頬を鋭く叩いた。
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