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雪は、泣きながら、ただひたすらに走り続けていた。 涙で頬が冷え切り、呼吸は荒く、胸の奥で心臓が暴れる。
家を飛び出したのは、ほんの数十分前。まだ夜の帳が降りたばかりの時間だったが、雪にとっては世界の終わりが始まった瞬間だった。冷たい雨が降り始めたかと思えば、すぐに止み、空気はべたつくように重く、肌にまとわりつく。雪の胸の奥で渦巻く感情――それは絶望、怒り、悲しみ、そして何よりも自分自身に対する嫌悪だった。
最近の陸斗は、表面的には気遣いに満ちていたかもしれない。しかし、その根底にあるのは、αの血を継ぐ「跡継ぎ」という絶対的な価値観だ。雪は、自分が海斗の愛した人間ではなく、ただのΩとしての「器」に成り下がったように感じていた。自分のお腹の中にいるのは、愛する彼の忘れ形見ではない。血は繋がっているかもしれないが、その行為は愛から遠く、ただの義務、もしくは一族の存続という冷酷な論理に従ったものだ。
「俺は、どうせ……」
雪は喉の奥で呟いた。 この世から必要とされていない。いや、必要とされているのは、自分という人間そのものではなく、自分の持つΩの因子と、今腹に宿した命だけだ。
Ωとして生まれた者は、本能的にαに求められ、護られるようにできている。だが、護られることと、道具として扱われることは同じだ。雪は自分の存在を肯定できなかった。
(もう、俺なんかどうなってもいい……)
財布もスマホも置いてきてしまった。誰にも連絡が取れない。いや、そもそも自分を売った実家に帰ることもできない。どこにも行く場所がない。友達もいない。
一体自分は、どうすればいいのだろう?
気づけば、それは、ネオンと雑踏が織りなす、この街の深淵――煌びやかな表通りから一歩入った途端に、空気の色が変わる歓楽街だった。
騒がしい音楽と酔っぱらいの喧噪、そして様々な種類のαとΩのフェロモンが混ざり合い、強烈な化学反応を起こしていた。雪はフードを目深に被り、無意識に身を小さくしていたが、その仕草さえもかえって目立ってしまう。
Ωのフェロモンは、微かに漏れ出てしまうものだ。その香りは暗い路地裏の隅々まで漂い、まるで囁きのように周囲を誘っていた。
自暴自棄は、破滅願望へと形を変える。誰かに見つけられ、乱暴に扱われ、すべてを奪われたら――陸斗の家に戻る理由も、跡継ぎを産む義務も、すべて消えてしまうのではないか。そうすれば、海斗の愛した自分という過去の残像を、誰にも傷つけられることなく終わらせられるのではないか。
雪の思考は酩酊しているかのようにぼやけ、まるで深い霧の中を歩いているようだった。
路地裏は、表通りの喧噪から切り離された別世界だった。ゴミの匂い、古びたビルの湿気、野良猫の鳴き声。雪は壁にもたれかかり、一歩も動けなくなった。その姿は闇の中に浮かぶ、あまりにも無防備な獲物だった。
「おやおや、こんなところで何してるの?可愛らしいΩちゃん」
突然の声。三人の男が暗がりから現れる。彼らの纏うαフェロモンは粗野で不快な刺激臭を放ち、街の隅々を彷徨うチンピラたちだった。
「一人か?カラー着けてるから、番はいねえみたいだな」
「泣いてたの?可哀想に…」
男の一人が雪の頬に汚れた指を伸ばす。雪は反射的に身を引いたが、抵抗する気力は湧かなかった。
「男だけどかわいいし、いい匂いだな……」
「誘ってんのか?ん?」
視線は粘着質に雪の身体を這い回り、Ωのフェロモンは彼らの本能を刺激していた。
雪は俯いたまま、力なく呟いた。
「……どうでもいい」
その言葉は、男たちにとって、明確な肯定のサインだった。抵抗がないどころか、むしろ歓迎されているようなその態度に、彼らは歓喜する。
「大人しいな。さすがはΩ、従順なところがいい」
「こんな暗い路地で縮こまってないで、あったかいところへ行こうぜ。寒いだろ? ホテル行こう」
「その代わり、たっぷり可愛がってやるからよ」
一人の男が、雪の背後から回り込み、汚れた指先を雪の首筋に這わせたかと思うと、そのまま荒々しく腰に腕を回した。雪の身体に他者のαの熱と悪臭が絡みつく。もう、誰も自分を助けてはくれない。助けなど、もう来るはずがない。雪は、すべてを諦めるように、ゆっくりと目を閉じた。
「おい、お前ら、何やってんだ?!」
その声は、闇を切り裂くような鋭利さを持っていた。
雪が閉じかけた目に、一瞬、強烈な光が差し込んだ。 歓楽街の喧騒を貫いて、まるで獲物を探す猛獣のように、陸斗がそこに立っていた。
陸斗は、雪がいなくなったことに血が凍るような焦燥感に襲われていた。 家を飛び出した雪の匂いを必死に追い、雑踏の中を駆け抜け、ようやく辿り着いたのがこの裏路地だった。そこにいたのは、三人の男に囲まれている雪の姿――その光景を目にした瞬間、陸斗の理性は完全に吹き飛んだ。
「雪……!」
怒りと恐怖で震える声。 陸斗の身体から放たれたαフェロモンは、辺りの空気を一瞬にして凍らせた。それは支配的なαの中でも、さらに選ばれた血筋のαが本気で激昂した時にのみ発せられる、純粋な「殺意」にも似た威圧だった。
チンピラたちは驚愕に目を見開いた。彼らもαではあったが、陸斗のαに比べれば、ただの野良犬に過ぎない。本能が悲鳴を上げ、身体が震えだす。
「そいつから手を離せ」
陸斗は一歩、また一歩と歩みを進める。その足音は、路地裏の湿った空気を切り裂くように響いた。
「て、てめえ、誰だ!」
虚勢を張る声は上ずり、恐怖に掠れていた。
「そいつの、夫だ」
陸斗の目は、底なしの暗い炎を宿していた。瞬時に一人目の男に詰め寄り、その腕を掴むと、骨がきしむ音と共に捩じ上げた。男は情けない悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちる。
雪が危険に晒されている状況と、お腹の子の命が脅かされているという事実に、普段の冷静沈着な仮面は剥がれ落ち、純粋な闘争本能がむき出しになっていた。
「お前らごときが、このΩに手を出せると思うな。二度と、俺たちの前に現れるな」
陸斗は残りの二人を威圧的なフェロモンと的確な一撃で瞬時に地面に叩きつけた。彼らは恐怖で顔面蒼白になり、雪のフェロモンの甘さなどどうでもよくなっていた。
「ひぃっ……わ、わかった……!」
三人は這うようにして、路地の奥へと逃げ去っていく。陸斗は彼らの背中を、まるでゴミを見るかのような冷たい視線で見送った。
静寂が戻った裏路地。 陸斗はゆっくりと雪の方へと向き直った。
陸斗は荒い息を吐きながら、雪へと近づいた。その顔は怒り、安堵、そして深い動揺で歪んでいる。
「雪……無事か?どこか、怪我はないか?」
震える手で雪の肩にコートをかけようとしたが、その瞬間、雪は陸斗の手を激しく振り払った。
「触るな!」
雪の声はかすれ、ヒステリックに響いた。睨みつけるその目には、感謝の欠片もなく、ただ鋭い敵意と嘲笑が宿っていた。
「何しに来たんだよ!俺がどうなろうと、お前には関係ないだろ!お前はただ跡継ぎが欲しいだけだろ!!」
その言葉は、陸斗の胸の奥深く、最も触れられたくない場所を容赦なくえぐった。
「俺は、どうせ、お前たちにとって……ただのΩだ!俺が他の奴らに汚されて、もうΩとしての商品価値がなくなったら、用無しだ!そうなった方が、お前だっていいだろう!!」
雪は心に溜め込んでいた泥のような感情を、すべて陸斗に叩きつけた。
陸斗は雪の罵倒に言葉を失った。雪の瞳に映る絶望は、あまりにも深く、陸斗の心を激しく打ちのめした。雪の言葉は、図星でもあった。
しかし、この数日間、雪と海斗の話を共有し、雪の海斗に対する愛情と、その哀しみに触れるうちに、陸斗の中で何かが変わっていた。それは愛というにはまだ遠い、しかし、無視できないほどの大きな感情のうねりだった。
「跡継ぎ? ああ、そうだ! 最初はそうだった!俺は、この家を、兄貴の遺したものを守る義務があるから、あんたというΩを、責任として受け入れたんだ!」
陸斗は雪の言葉を否定せず、一度は受け入れた。しかし、そこで言葉を区切った後、彼は絶叫した。
「でも、今は違う!!」
陸斗は叫びながら立ち上がり、そして雪の身体を、拒絶されるのを覚悟の上で、強く、乱暴に抱きしめた。雪の華奢な身体が、陸斗の逞しい腕の中に、折れてしまいそうなくらい強く抱き締められる。
「俺はあんたがいなくなって、気が狂うかと思った! 跡継ぎのためなんかじゃない、ただ……ただ、あんたがいなくなったら…、俺は…!」
陸斗の心臓の鼓動が、雪の耳元で激しく脈打つ。それは、彼が今感じている感情の激しさを物語っていた。
雪は、陸斗の腕の中で、身動きが取れなかった。陸斗のαフェロモンは、救出の時のような威圧ではなく、ただ深く、雪の存在を包み込むように変化していた。雪は、それが単なるαの本能ではないことを、皮膚で感じていた。
陸斗は雪の肩に顔を埋め、絞り出すような声で続けた。
「俺のことが嫌いなのはわかってる……」
抱きしめる力をわずかに緩め、陸斗は雪の顔を見つめた。夜のネオンが彼の瞳に反射し、怒りとも悲しみともつかない複雑な光を宿していた。
「それでも……俺は、あんたのことを、大切にしたいと思っている」
「……なんでだよ。意味わかんねえ…」
雪は、蚊の鳴くような声で尋ねた。
陸斗は自嘲気味に笑った。
「時々、兄貴にあんたの惚気を聞かされた。可愛いだの、優しいだの……愛おしいだの……」
その言葉は、雪の胸に鋭く突き刺さった。海斗の声が蘇り、胸の奥で痛みが広がる。
「俺は、兄貴にはなれない……」
「当たり前だ……っ!」
短い、鋭い応酬。しかし陸斗は続けた。
「でも、兄貴の愛したあんたを、大切にしたいと思っている。…あんたと、兄貴の話をしたい…」
雪は言葉を失い、ただ陸斗を睨み返す。陸斗は、その視線から目を逸らさず、そのまま雪の身体を抱き上げた。
「下ろせ!自分で歩ける!!」
雪は必死に暴れたが、陸斗は首を振った。
「足が冷たいだろう。それに、ケガをしている」
陸斗は、雪の足首に小さな擦り傷があるのを見つけていた。
「一緒に帰るぞ」
「嫌だっ…!帰りたくない!」
雪の拒絶に、陸斗は一瞬言葉を詰まらせた。
「他に……っ」
言いかけて、陸斗は口を噤む。強引に言えば、また雪を傷つけるだけだと悟ったからだ。
「頼む……足にケガをしている。あんたの手当をしたい」
その声は、命令ではなく懇願に近かった。
陸斗は片手で雪を抱きしめたまま、もう片方の手でタクシーを呼んだ。
雪は黙ったまま、タクシーの後部座席に乗せられた。陸斗は雪の隣に座ると、すぐに雪の肩を抱き寄せた。雪の震えを少しでも和らげようとする、その掌の熱が伝わってくる。
彼のαフェロモンは、救出時の支配的な匂いではなく、不思議と安心を誘う、抑制された穏やかな匂いだった。
「安心しろよ…」
雪は小声で言う。
「何がだ…?」
「お腹の子は、100%お前の子どもだ…。疑うなら、遺伝子検査でもなんでもすればいい…」
雪は、ぶっきらぼうに、感情のない声で言った。陸斗は少し驚いたように目を見開いたが、静かに答える。
「そんなことしなくても、お前を信じる。信じると決めた」
「……そうかよ」
雪は視線を逸らし、窓の外の街灯を見つめた。
*
家に戻ると、陸斗は雪を抱き上げたまま風呂場へ連れて行き、温かい湯を張った。冷え切った身体が湯に沈むと、雪は抵抗する気力も失い、泥のように眠りへと落ちていった。
陸斗は、雪が眠りこけたのを確認すると、丁寧に身体を拭き、新しい寝間着に着替えさせた。そして、自分の寝室のキングサイズのベッドへと雪を運び込む。
彼は、雪の隣に横たわった。
雪の寝顔は、安堵からか、わずかに口元が緩んでいる。陸斗は、その柔らかな頬にそっと触れ、そして静かに、雪を背後から抱きしめた。
雪のΩフェロモンと、陸斗のαフェロモンが、穏やかに混ざり合う。それは、契約でも義務でもなく、ただの「共生」を求める、静かな本能の囁きだった。
雪は、その夜、陸斗の温もりの中で、初めて深く眠ることができた。
家を飛び出したのは、ほんの数十分前。まだ夜の帳が降りたばかりの時間だったが、雪にとっては世界の終わりが始まった瞬間だった。冷たい雨が降り始めたかと思えば、すぐに止み、空気はべたつくように重く、肌にまとわりつく。雪の胸の奥で渦巻く感情――それは絶望、怒り、悲しみ、そして何よりも自分自身に対する嫌悪だった。
最近の陸斗は、表面的には気遣いに満ちていたかもしれない。しかし、その根底にあるのは、αの血を継ぐ「跡継ぎ」という絶対的な価値観だ。雪は、自分が海斗の愛した人間ではなく、ただのΩとしての「器」に成り下がったように感じていた。自分のお腹の中にいるのは、愛する彼の忘れ形見ではない。血は繋がっているかもしれないが、その行為は愛から遠く、ただの義務、もしくは一族の存続という冷酷な論理に従ったものだ。
「俺は、どうせ……」
雪は喉の奥で呟いた。 この世から必要とされていない。いや、必要とされているのは、自分という人間そのものではなく、自分の持つΩの因子と、今腹に宿した命だけだ。
Ωとして生まれた者は、本能的にαに求められ、護られるようにできている。だが、護られることと、道具として扱われることは同じだ。雪は自分の存在を肯定できなかった。
(もう、俺なんかどうなってもいい……)
財布もスマホも置いてきてしまった。誰にも連絡が取れない。いや、そもそも自分を売った実家に帰ることもできない。どこにも行く場所がない。友達もいない。
一体自分は、どうすればいいのだろう?
気づけば、それは、ネオンと雑踏が織りなす、この街の深淵――煌びやかな表通りから一歩入った途端に、空気の色が変わる歓楽街だった。
騒がしい音楽と酔っぱらいの喧噪、そして様々な種類のαとΩのフェロモンが混ざり合い、強烈な化学反応を起こしていた。雪はフードを目深に被り、無意識に身を小さくしていたが、その仕草さえもかえって目立ってしまう。
Ωのフェロモンは、微かに漏れ出てしまうものだ。その香りは暗い路地裏の隅々まで漂い、まるで囁きのように周囲を誘っていた。
自暴自棄は、破滅願望へと形を変える。誰かに見つけられ、乱暴に扱われ、すべてを奪われたら――陸斗の家に戻る理由も、跡継ぎを産む義務も、すべて消えてしまうのではないか。そうすれば、海斗の愛した自分という過去の残像を、誰にも傷つけられることなく終わらせられるのではないか。
雪の思考は酩酊しているかのようにぼやけ、まるで深い霧の中を歩いているようだった。
路地裏は、表通りの喧噪から切り離された別世界だった。ゴミの匂い、古びたビルの湿気、野良猫の鳴き声。雪は壁にもたれかかり、一歩も動けなくなった。その姿は闇の中に浮かぶ、あまりにも無防備な獲物だった。
「おやおや、こんなところで何してるの?可愛らしいΩちゃん」
突然の声。三人の男が暗がりから現れる。彼らの纏うαフェロモンは粗野で不快な刺激臭を放ち、街の隅々を彷徨うチンピラたちだった。
「一人か?カラー着けてるから、番はいねえみたいだな」
「泣いてたの?可哀想に…」
男の一人が雪の頬に汚れた指を伸ばす。雪は反射的に身を引いたが、抵抗する気力は湧かなかった。
「男だけどかわいいし、いい匂いだな……」
「誘ってんのか?ん?」
視線は粘着質に雪の身体を這い回り、Ωのフェロモンは彼らの本能を刺激していた。
雪は俯いたまま、力なく呟いた。
「……どうでもいい」
その言葉は、男たちにとって、明確な肯定のサインだった。抵抗がないどころか、むしろ歓迎されているようなその態度に、彼らは歓喜する。
「大人しいな。さすがはΩ、従順なところがいい」
「こんな暗い路地で縮こまってないで、あったかいところへ行こうぜ。寒いだろ? ホテル行こう」
「その代わり、たっぷり可愛がってやるからよ」
一人の男が、雪の背後から回り込み、汚れた指先を雪の首筋に這わせたかと思うと、そのまま荒々しく腰に腕を回した。雪の身体に他者のαの熱と悪臭が絡みつく。もう、誰も自分を助けてはくれない。助けなど、もう来るはずがない。雪は、すべてを諦めるように、ゆっくりと目を閉じた。
「おい、お前ら、何やってんだ?!」
その声は、闇を切り裂くような鋭利さを持っていた。
雪が閉じかけた目に、一瞬、強烈な光が差し込んだ。 歓楽街の喧騒を貫いて、まるで獲物を探す猛獣のように、陸斗がそこに立っていた。
陸斗は、雪がいなくなったことに血が凍るような焦燥感に襲われていた。 家を飛び出した雪の匂いを必死に追い、雑踏の中を駆け抜け、ようやく辿り着いたのがこの裏路地だった。そこにいたのは、三人の男に囲まれている雪の姿――その光景を目にした瞬間、陸斗の理性は完全に吹き飛んだ。
「雪……!」
怒りと恐怖で震える声。 陸斗の身体から放たれたαフェロモンは、辺りの空気を一瞬にして凍らせた。それは支配的なαの中でも、さらに選ばれた血筋のαが本気で激昂した時にのみ発せられる、純粋な「殺意」にも似た威圧だった。
チンピラたちは驚愕に目を見開いた。彼らもαではあったが、陸斗のαに比べれば、ただの野良犬に過ぎない。本能が悲鳴を上げ、身体が震えだす。
「そいつから手を離せ」
陸斗は一歩、また一歩と歩みを進める。その足音は、路地裏の湿った空気を切り裂くように響いた。
「て、てめえ、誰だ!」
虚勢を張る声は上ずり、恐怖に掠れていた。
「そいつの、夫だ」
陸斗の目は、底なしの暗い炎を宿していた。瞬時に一人目の男に詰め寄り、その腕を掴むと、骨がきしむ音と共に捩じ上げた。男は情けない悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちる。
雪が危険に晒されている状況と、お腹の子の命が脅かされているという事実に、普段の冷静沈着な仮面は剥がれ落ち、純粋な闘争本能がむき出しになっていた。
「お前らごときが、このΩに手を出せると思うな。二度と、俺たちの前に現れるな」
陸斗は残りの二人を威圧的なフェロモンと的確な一撃で瞬時に地面に叩きつけた。彼らは恐怖で顔面蒼白になり、雪のフェロモンの甘さなどどうでもよくなっていた。
「ひぃっ……わ、わかった……!」
三人は這うようにして、路地の奥へと逃げ去っていく。陸斗は彼らの背中を、まるでゴミを見るかのような冷たい視線で見送った。
静寂が戻った裏路地。 陸斗はゆっくりと雪の方へと向き直った。
陸斗は荒い息を吐きながら、雪へと近づいた。その顔は怒り、安堵、そして深い動揺で歪んでいる。
「雪……無事か?どこか、怪我はないか?」
震える手で雪の肩にコートをかけようとしたが、その瞬間、雪は陸斗の手を激しく振り払った。
「触るな!」
雪の声はかすれ、ヒステリックに響いた。睨みつけるその目には、感謝の欠片もなく、ただ鋭い敵意と嘲笑が宿っていた。
「何しに来たんだよ!俺がどうなろうと、お前には関係ないだろ!お前はただ跡継ぎが欲しいだけだろ!!」
その言葉は、陸斗の胸の奥深く、最も触れられたくない場所を容赦なくえぐった。
「俺は、どうせ、お前たちにとって……ただのΩだ!俺が他の奴らに汚されて、もうΩとしての商品価値がなくなったら、用無しだ!そうなった方が、お前だっていいだろう!!」
雪は心に溜め込んでいた泥のような感情を、すべて陸斗に叩きつけた。
陸斗は雪の罵倒に言葉を失った。雪の瞳に映る絶望は、あまりにも深く、陸斗の心を激しく打ちのめした。雪の言葉は、図星でもあった。
しかし、この数日間、雪と海斗の話を共有し、雪の海斗に対する愛情と、その哀しみに触れるうちに、陸斗の中で何かが変わっていた。それは愛というにはまだ遠い、しかし、無視できないほどの大きな感情のうねりだった。
「跡継ぎ? ああ、そうだ! 最初はそうだった!俺は、この家を、兄貴の遺したものを守る義務があるから、あんたというΩを、責任として受け入れたんだ!」
陸斗は雪の言葉を否定せず、一度は受け入れた。しかし、そこで言葉を区切った後、彼は絶叫した。
「でも、今は違う!!」
陸斗は叫びながら立ち上がり、そして雪の身体を、拒絶されるのを覚悟の上で、強く、乱暴に抱きしめた。雪の華奢な身体が、陸斗の逞しい腕の中に、折れてしまいそうなくらい強く抱き締められる。
「俺はあんたがいなくなって、気が狂うかと思った! 跡継ぎのためなんかじゃない、ただ……ただ、あんたがいなくなったら…、俺は…!」
陸斗の心臓の鼓動が、雪の耳元で激しく脈打つ。それは、彼が今感じている感情の激しさを物語っていた。
雪は、陸斗の腕の中で、身動きが取れなかった。陸斗のαフェロモンは、救出の時のような威圧ではなく、ただ深く、雪の存在を包み込むように変化していた。雪は、それが単なるαの本能ではないことを、皮膚で感じていた。
陸斗は雪の肩に顔を埋め、絞り出すような声で続けた。
「俺のことが嫌いなのはわかってる……」
抱きしめる力をわずかに緩め、陸斗は雪の顔を見つめた。夜のネオンが彼の瞳に反射し、怒りとも悲しみともつかない複雑な光を宿していた。
「それでも……俺は、あんたのことを、大切にしたいと思っている」
「……なんでだよ。意味わかんねえ…」
雪は、蚊の鳴くような声で尋ねた。
陸斗は自嘲気味に笑った。
「時々、兄貴にあんたの惚気を聞かされた。可愛いだの、優しいだの……愛おしいだの……」
その言葉は、雪の胸に鋭く突き刺さった。海斗の声が蘇り、胸の奥で痛みが広がる。
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「当たり前だ……っ!」
短い、鋭い応酬。しかし陸斗は続けた。
「でも、兄貴の愛したあんたを、大切にしたいと思っている。…あんたと、兄貴の話をしたい…」
雪は言葉を失い、ただ陸斗を睨み返す。陸斗は、その視線から目を逸らさず、そのまま雪の身体を抱き上げた。
「下ろせ!自分で歩ける!!」
雪は必死に暴れたが、陸斗は首を振った。
「足が冷たいだろう。それに、ケガをしている」
陸斗は、雪の足首に小さな擦り傷があるのを見つけていた。
「一緒に帰るぞ」
「嫌だっ…!帰りたくない!」
雪の拒絶に、陸斗は一瞬言葉を詰まらせた。
「他に……っ」
言いかけて、陸斗は口を噤む。強引に言えば、また雪を傷つけるだけだと悟ったからだ。
「頼む……足にケガをしている。あんたの手当をしたい」
その声は、命令ではなく懇願に近かった。
陸斗は片手で雪を抱きしめたまま、もう片方の手でタクシーを呼んだ。
雪は黙ったまま、タクシーの後部座席に乗せられた。陸斗は雪の隣に座ると、すぐに雪の肩を抱き寄せた。雪の震えを少しでも和らげようとする、その掌の熱が伝わってくる。
彼のαフェロモンは、救出時の支配的な匂いではなく、不思議と安心を誘う、抑制された穏やかな匂いだった。
「安心しろよ…」
雪は小声で言う。
「何がだ…?」
「お腹の子は、100%お前の子どもだ…。疑うなら、遺伝子検査でもなんでもすればいい…」
雪は、ぶっきらぼうに、感情のない声で言った。陸斗は少し驚いたように目を見開いたが、静かに答える。
「そんなことしなくても、お前を信じる。信じると決めた」
「……そうかよ」
雪は視線を逸らし、窓の外の街灯を見つめた。
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陸斗は、雪が眠りこけたのを確認すると、丁寧に身体を拭き、新しい寝間着に着替えさせた。そして、自分の寝室のキングサイズのベッドへと雪を運び込む。
彼は、雪の隣に横たわった。
雪の寝顔は、安堵からか、わずかに口元が緩んでいる。陸斗は、その柔らかな頬にそっと触れ、そして静かに、雪を背後から抱きしめた。
雪のΩフェロモンと、陸斗のαフェロモンが、穏やかに混ざり合う。それは、契約でも義務でもなく、ただの「共生」を求める、静かな本能の囁きだった。
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