強制結婚~番になんか、なりたくない~(仮)

万里

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 陸斗に救出されてから数週間が経過した。 雪は、家出する前の荒んだ感情を少しずつ収束させ、陸斗の部屋で静かな日々を送っていた。あの夜、陸斗の腕の中で泥のように眠ってから、雪は一日のほとんどを陸斗の寝室で過ごすようになった。
 それは、純粋な愛やロマンスとはかけ離れた、まるでαとΩの本能的な「共生」だった。心を許したわけではない。だが、雪の身体は陸斗のフェロモンに安堵を覚え、陸斗は雪の存在を守ることを当然の義務として受け入れていた。

 妊娠初期特有の倦怠感と、それに伴うひどいつわりに雪は苦しめられた。体調が優れない時、雪が求めずとも、陸斗は常に傍にいた。雪の部屋ではなく、陸斗のキングサイズのベッドで眠る。それがいつしか、雪にとって最も安心できる時間となっていた。

 陸斗の部屋は、海斗の部屋と比べると驚くほどシンプルで機能的だった。余計な装飾もなく、整然とした空間。だが、その空間を支配する陸斗のαフェロモンは、雪の不安定なΩの心と身体を優しく包み込んだ。それは、まるで頑丈な巣の中に入れられたような、絶対的な安全の感覚だった。

 雪は、時折、無意識に陸斗のシャツを羽織っていることに気づいて、恥ずかしくて死にそうになった。シャツには、陸斗の落ち着いた樹木のようなフェロモンが濃く染み付いており、身につけると、つわりの吐き気さえも少し和らぐ気がした。 
(何やってるんだ、俺は……) 
 心は拒絶しているのに、身体は正直だった。陸斗の衣類に安堵を求めるΩとしての本能的な行動。それは、Ωの「巣作り」のような行為だった。海斗と結ばれていた時には感じたことのない、強烈な依存と安心感がそこにあった。


 夜中、雪が突然の吐き気で目を覚ますと、陸斗は必ず先に気づき、背中をさすってくれた。 
「大丈夫だ。ゆっくり息をしろ、雪」
 その声は優しく、それでいて揺るぎない力強さがあった。
 夢の中で、雪は過去の記憶に引きずり込まれる。

 ――海斗は、いつも雪を慈しむように抱きしめてくれた。 ある夜、雪は思わず言った。
  『海斗、なかなか、子どもができなくてごめん……』
 自分は海斗の子どもを産むためにここに来たのに、役割を果たせていない。
 海斗は雪の不安を打ち消すように、彼の髪を撫でた。 
『そんなこと、気にするな。雪と二人でいるだけで、僕は幸せだよ』
『ありがとう……』 
 海斗は微笑んだ。 
『でも、雪に似た子どもができたら、可愛いだろうなあ』
『……』
『雪は、きっといい親になるよ。優しくて、強くて……』
 その時、海斗の願いは、雪の心の最も柔らかい場所を締め付けた。海斗は、愛する雪との子どもを望んでいた。しかし、それは叶わぬ願いとなってしまった。

 雪の目からは、静かに涙が零れ落ちていた。 
「海斗……」
 小さな寝言が、暗闇に消える。隣で眠っていたはずの陸斗が、すぐに目を覚ました。彼は、何も言わずに雪の頬を伝う涙を拭い、ただ強く抱きしめ直した。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
 陸斗の穏やかなフェロモンが、雪の悲しみを覆い尽くし、再び雪を眠りへと誘った。雪は、海斗を愛する心と、陸斗に安堵を覚える身体のちぐはぐさに、どうしようもない戸惑いを感じながらも、その温もりから離れることはできなかった。

 *

 数週間後、雪は安定期に入った。つわりはまだ残っていたが、身体の倦怠感は幾分か和らぎ、少しずつ食欲も戻り始めていた。食卓で残さず食べられるようになった雪を見て、陸斗は安堵の表情を浮かべた。普段は冷徹な瞳をしている彼の顔に、わずかな柔らかさが宿るのを雪は感じ取った。

 雪は少し大きくなってきた自分のお腹を撫でる。 この子は陸斗の子だ。それは揺らがない。だが、陸斗と海斗は兄弟だ。だから海斗の血も混ざっている――そう自分に言い聞かせる。
(家とか跡継ぎとか、そんなこと俺には関係ない。海斗とは叶わなかった子ども……この子を大切に育てよう。海斗に言われたことに恥じないように、いい親になろう)
 雪は静かに覚悟を決めた。お腹の中にいる命は、過去と未来を繋ぐ唯一の光だった。
 しかし、その平穏は長くは続かなかった。

 *

 ある日、陸斗の家に親族が集結した。 皆、この一族の財産と権力を守ることに固執する、強固なαたちだ。彼らの纏うαフェロモンは、雪が部屋に入った瞬間、不快な圧力となって空気を支配した。まるで見えない鎖で縛られるように、雪の呼吸は浅くなり、心臓が早鐘を打つ。

 親族の一人、陸斗の叔父にあたる厳格なαが、口火を切った。 
「陸斗。我々が言いたいのは、雪さんの健康状態についてだ」
 陸斗は冷静に答えた。 
「叔父さん。雪は安定期に入りました。つわりも収まってきて、食欲も出てきています。何の心配もありません…」 
 その声には冷静さを装いながらも、強い警戒心が宿っていた。
「体調ではない。情緒だ」
 叔父は冷酷な目で雪を一瞥し、鼻で笑った。 
「Ωは情緒が不安定だと聞く。特に妊娠中は、その精神状態が胎児に悪影響を与える可能性がある。この家から逃げ出そうとしたこともあるそうじゃないか…?」
 陸斗は奥歯を噛み締めた。誰にも話していないはずの雪の家出が、親族の口から語られる。その事実が、背筋を冷たくした。
 別の親族がさらに口を挟む。 
「Ωは、優秀なαの子を産むための『器』だ。その器の管理は、一族の責務。陸斗は、まだ若く経験が足りない。我々が専門の施設を手配し、雪さんを保護すべきだ」
「保護、ですか……?それは軟禁ではないのですか…?」
 陸斗の声が低くなる。
「軟禁ではない。管理だ。跡継ぎを安全に産み落とすための最良の環境を提供する。専属の医師と看護師を用意しよう。何不自由ない生活をさせてやるというんだ。二度と逃げようとしないようにな」
 親族たちは、雪を人間としてではなく、ただの「Ωの因子」と「跡継ぎの生産能力」を持つ道具としてしか見ていなかった。彼らの言葉は冷酷で、雪の存在を徹底的に否定するものだった。
「きっと生まれる子はαだろう。その子を一族の手に渡すのが、雪さんの役目だ」 
「Ωの精神状態など、どうでもいい。重要なのは、無事にαの血を継ぐ者を産み出すことだ」
 雪は椅子に座ったまま、全身が凍り付くような感覚に陥った。彼らの言葉一つ一つが、雪の最も恐れていたこと――「自分は器に過ぎない」という事実を、これでもかと突きつけてくる。
 胸の奥で、怒りよりも深い絶望が広がった。 
(やっぱり……俺は、ただの器でしかないんだ。こんな俺が親になんかなれるわけがない…。ここにいるのは、一族の跡継ぎを産むための道具に過ぎない……)
 雪の指先は震え、視界は滲んでいく。声を上げることもできず、ただ冷たい絶望に飲み込まれていった。
 陸斗はその横顔を見つめ、拳を強く握りしめた。親族の言葉が雪を傷つけていることは明らかだった。

 その時、激しくテーブルを叩く音が響いた。陸斗だった。 重厚な木の机が震え、空気が一瞬にして張り詰める。彼は立ち上がり、その身体から放出されたαフェロモンは、親族たちのそれを凌駕する、圧倒的な威圧感を持っていた。
「もう止めてください…!!」
 陸斗の声は、氷のように冷たく、しかし芯から揺るぎない。 その言葉は、親族たちの口を一斉に閉ざさせる力を持っていた。
「あなた方の言うことは、すべて一族の『跡継ぎ』としての理屈だ。だが、この子の存在は、そんな冷酷な理屈で測れるものではありません」
 陸斗は、雪の隣に立つと、その肩に手を置いた。雪の身体に、陸斗の温かなフェロモンが染み渡り、親族の放つ嫌悪感を打ち消していく。雪は驚きに目を見開きながらも、その温もりにわずかに呼吸を整えた。
「雪とお腹の子は、俺の家族です。跡取りとしてではなく、一人の人間として大切に育てます。雪と一緒に」
 叔父が激昂する。 
「陸斗!何を言っている!貴様は当主の責任を放棄するつもりか!」
 陸斗は一歩も退かず、冷徹な目で叔父を見据えた。 
「放棄などしていません。これは、当主としての『責任』と、人間としての『情』に基づいた判断だ」
 その声は低く、重く、会議室の壁に反響した。
「雪は、兄の海斗が最も愛した人間であり、俺が今、最も守りたいと願う人間です。あなた方は彼を『器』と蔑むが、この子を宿す雪の命は、一族の未来そのものだ」
 陸斗の視線は、叔父を釘付けにした。 その瞳には、冷たい理性と燃えるような情熱が同居していた。
「この子の管理権を主張するなら、まず、雪に人間としての敬意を払ってください。それができないあなた方に、この子を託す気は毛頭ない」
 親族たちはざわめき、互いに視線を交わす。だが、陸斗の言葉の重みが、彼らの声を封じていた。
「もし、今後、雪に不当な圧力をかけたり、精神的な苦痛を与えるような行為があれば、俺は当主として、あなた方をこの一族の経営から排除する。これは脅しではありません」
 その瞬間、絶対的な沈黙が訪れた。 誰もが、普段の陸斗の冷静さからは想像もつかない、激しい情熱と断固たる意志に気圧されていた。
 雪は、隣で陸斗の声を聞きながら、胸の奥で複雑な感情を抱いていた。 自分を「家族」と呼び、守ると宣言する陸斗。その言葉は、恐怖と拒絶の中に、わずかな安堵をもたらしていた。
 陸斗は、彼らの望む『跡継ぎ』のためではなく、雪と、雪が産む子を『家族』として守るために、一族の伝統と対立する道を選んだのだ。
 その決断は、雪にとっても、親族にとっても、そして陸斗自身にとっても、後戻りできない分岐点だった。


 親族たちが怒りと不満を抱えながらも退散した後、広いリビングには雪と陸斗だけが残された。 重苦しい空気はまだ消えず、壁や床に染み付いたように漂っていた。雪は、未だにソファから立ち上がれずにいた。
 陸斗の言葉――「雪とお腹の子は、俺の家族です」という宣言が、心臓に焼き付いて離れなかった。
「よかったのか……?」
 雪は、陸斗に守られたことへの安堵と、陸斗を親族の前で追い詰めてしまった罪悪感とで、混乱していた。声は震え、視線は床に落ちたままだった。
 陸斗は荒い息を整えながら、雪の隣に腰を下ろした。 
「言ったはずだ。俺は、あんたを大切にしたいと…」
「でも、あんなこと言ったら、お前の一族での立場が……」
「どうでもいい」
 陸斗は即答した。瞳は鋭く、しかしその奥に揺らぎがあった。 
「兄貴が愛したあんたを、俺が道具として差し出すことなど、絶対にできない」
 その言葉に、雪の胸が強く締め付けられた。
 陸斗は疲れたように目を閉じ、低く呟いた。 
「……それとも、お前は俺と離れて…、不自由ない生活をする方がよかったか…?」
 その瞬間、雪の脳裏に、海斗の言葉が鮮明に蘇った。

 ――『雪、陸斗は、ああ見えてとても繊細なんだ』
 海斗はいつか、穏やかな夜にそう語った。
 海斗と陸斗は、常に比較され続けていた。陸斗はいつも海斗の影にいることを強いられ、αだからと完璧さを求められた。海斗は、そんな弟の心の傷を知っていた。
『僕がβだったばかりに、あいつは跡取りとして、理性を張り詰めて生きてきたんだ。感情に蓋をして、自分を押し殺して……』
『そうかな。あいつは、すごく完璧に見えるけど……?』
 雪が言うと、海斗は苦笑した。
『陸斗は、完璧に見せるのが上手いんだ。だから、雪。もし何かあったら、どうか陸斗を助けてあげてほしい。あいつの力になってあげてほしい……』
 海斗は、常に陸斗のことを心配していた。兄として、自分がβであるがゆえに陸斗を追い詰めているという罪悪感。そして、弟の孤独を少しでも癒したいという願い。

 ――雪ははっと顔を上げた。

 陸斗は、常に完璧なα、冷徹な当主の仮面を被っていた。しかし今、雪のために感情を爆発させ、一族に宣戦布告をした。海斗が願った『陸斗を助けてあげてほしい』という言葉が、雪の胸に重く響いた。
 雪は陸斗の横顔を見つめ、唇を震わせた。 
「おい……」
 俯いたまま、絞り出すように言葉を続ける。 
「……俺は、お前の傍にいるよ。家族、なんだろ…?この子を、俺と一緒に……育ててくれるんだろう?」
 陸斗はゆっくりと目を開け、雪の方を見た。 その瞳には、冷徹な当主の光ではなく、ただ一人の男としての真摯な決意が宿っていた。
「ああ」
 それは、愛の言葉ではなかった。だが、この日を経て、二人の間に、血縁でも契約でもない、強い「家族」としての絆が生まれた。

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