琥珀の檻

万里

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 あの忌まわしくも甘美な夜を境に、サリムの中の何かが決定的に壊れ、そして昏い毒の花が芽吹いた。

 かつてアザルに向けていた、陽光のように純粋な敬愛。それは今や、底知れぬ沼のようにどろりとした執着へと変質し、若き王太子の胸を内側から焼き焦がし続けている。父ジャファルの影に怯え、その顔色を窺っていた幼い少年はもうどこにもいない。

 サリムは、公務の合間を縫っては「琥珀の間」へと通い詰めるようになった。


「叔父様……」

 そう言ってアザルの肩に触れるサリムの手は、かつての愛らしい子どものものではなく、獲物の感触を確かめる捕食者のそれであった。アザルの肌に残る、自分と父が刻んだ「痕」を服の上からなぞるように触れ、陶酔したような溜息を漏らす。

 アザルが突き放そうとしても、サリムはその強靭な腕で静かに、しかし抗いようのない力で彼を繋ぎ止める。その瞳に宿るのは、父ジャファルから引き継いだ冷酷な支配欲と、若さゆえの制御不能な渇愛。

「逃げようとしないでください。……僕に大人の悦びを教えたのは、貴方と父上なのですから」

 閉じられた琥珀の間の静寂の中で、サリムはアザルの耳元で低く囁く。婚礼を控えた王太子という立場を利用し、彼はアザルを、誰の手も届かない自分たち親子の深い檻へと、一歩ずつ引きずり込んでいくのだった。

 *

 砂漠の午後の熱気が、薄いヴェールを抜けて微かに室内に忍び込む。アザルは豪奢な長椅子に身を横たえ、虚脱した瞳で天井に描かれた緻密な装飾を眺めていた。かつて戦場を駆けたあの鋭い眼光は、繰り返される蹂躙によって白濁し、深い倦怠に沈んでいる。

 そこへ、公務の合間を縫って現れたサリムが、音もなく近づき、いつものようにアザルの足元に跪いた。

「……叔父様。今日もお美しいですね」

 サリムの声は、上質な絹が擦れ合うような甘さを帯びながらも、その奥底には獲物を食らい尽くそうとする飢えた獣の響きを孕んでいた。彼はアザルの足首を、壊れ物を扱うような手つきで……しかし、決して逃さないという確かな力強さで掴み、その甲に熱い、執拗な口づけを落とす。

「……サリム。また来たのか。いい加減、婚礼の準備に集中しろ。……俺を弄んで、何が楽しい」

 アザルは顔を背け、冷たい言葉を吐き捨てる。だが、その声は以前のような獅子の咆哮を思わせる鋭さを失い、どこか湿り気を帯びた、諦めに似た響きが混じっていた。

 兄ジャファルに徹底的に調教され、その息子にまで愛欲の道具として扱われる屈辱。そんな自分を呪い、死にたいほどに嫌悪しながらも、サリムが時折見せる「若さゆえの真っ直ぐな、狂おしいほどの情熱」に、凍りついた心がわずかばかり綻んでしまう瞬間がある。その自分自身の脆さを、アザルは殺したいほどに憎んでいた。

「婚礼なんてどうでもいいのです。……僕が、本当に大切なのは、貴方だけです」

 サリムは這い上がるようにして、長椅子に横たわるアザルの身体に覆い被さった。若さゆえの荒い吐息がアザルの頬を焼き、支配者の血を引く重みが全身にのしかかる。

 その瞬間、アザルが身に纏う薄衣が乱れ、豊かな黒髪に隠されていた項(うなじ)が露わになった。

「…………ッ!」

 サリムの指先が、凍りついたように止まった。

 アザルの淡い褐色の項。そこには、数日前に父ジャファルが刻みつけたであろう、おぞましいほどに濃く、鮮明な「情欲の痕」が焼き付いていた。それは、ジャファルが自らの牙を立て、執拗に吸い上げ、己の絶対的な領土であることを誇示するために残した、どす黒く熟れた紫紅色の刻印。

 サリムの視界が、烈火のごとき嫉妬で真っ赤に染まった。 あの日、父は自分に「教導」だと言ってアザルを分け与えた。だが、それは欺瞞だ。父は自分に「おこぼれ」を恵んでやったに過ぎず、その実、裏ではこうして暴力的なまでの独占欲をアザルの全身に刻みつけ、芯まで染め上げているのだ。

(……父上は、叔父様に、どこまですれば気が済むのだ!)

 サリムの喉の奥から、低く濁った獣の唸り声が漏れる。彼はアザルの肩を掴むと、骨がきしむほどの力任せに、自分の方へと無理やり振り向かせた。

「サリム……っ、やめろ……っ!」 
「嫌です! なぜ父上の言いなりになっているのですか?! 叔父様は、父上の所有物などではない! 誰のものでもないはずだ!」

 サリムの琥珀色の瞳は、激しい怒りと所有欲、そして振り向いてもらえない悲しみで血走っていた。彼はアザルの両手首を長椅子のクッションに叩きつけるように押し付け、自らの全体重をかけて叔父を組み伏せる。

「叔父様……僕だけのものになってください! 父上にはもう抱かれないでください……!」 
「何を……っ?!」

 アザルの悲痛な拒絶は、サリムの凶暴な口づけによって無残に飲み込まれた。 それは、ジャファルのような洗練された支配の手口ではない。痛みを厭わず、唇を噛み切り、自分の存在を無理やり相手の奥底へ捩じ込むような、稚拙で、それゆえに手がつけられないほど手ひどい蹂躙だった。

 サリムは、父がつけた忌まわしい紫紅色の痕跡の上から、文字通り「食らいついた」。

 父ジャファルの痕跡をすべて塗り潰し、消し去らんと、自分の歯形を、吸い痕を、執念深く重ねていく。アザルの柔らかな肌を己の牙で汚し、自らの所有権を上書きしていく様は、狂気そのものだった。

「痛……っ! やめろ、サリム……離せ……っ!」

 アザルの悲鳴に近い叫びが、室内の重苦しい静寂を切り裂く。 だが、サリムの手は止まらない。彼はアザルの薄衣を獣のような手つきで剥ぎ取り、露わになった褐色の肌に、次々と自身の刻印を刻んでいく。自分の指で、自分の唇で、敬愛していたはずの叔父の身体を蹂躙し、支配していく感覚に、サリムは背徳的なまでの悦楽を覚えた。

「いいですよ、叔父様。もっと泣いて。……その零れ落ちる涙も、全部僕だけのものだ。父上には、もう指一本触れさせたくない……っ!」

 サリムはアザルの項に深く顔を埋め、獲物の匂いを嗅ぐように執拗にその芳香を吸い込み、自身の昂ぶった熱を擦りつける。アザルは絶望の中で、横たわる長椅子の高価な張地を、爪が剥がれんばかりに掻きむしった。

「んあっ、……も、やめっ……! ぁっ!」

 叩きつけられるような愛撫と、皮膚を食い破るような口づけ。アザルは身体をガクガクと震わせ、襲い来る快楽と苦痛の混濁に、もはや思考の糸をズタズタに引き裂かれていた。

「も、いやぁ……、っ、……にい、さま……兄様ぁ……っ!」

 混濁した意識の中で、つい縋るように漏れたその呼び名。それがサリムの逆鱗に触れた。サリムの瞳に昏い焔が灯り、彼はアザルの豊かな髪を鷲掴みにして、力任せに自分の方へと向かせる。

「叔父様、見てください。……父上ではありません。僕は、サリムです」 
「さり、む……?」

 焦点の合わないアザルの瞳が、自分を組み伏せる若者の顔を捉える。サリムは歪んだ悦びに口角を上げ、アザルの耳元で甘く、そして残酷に囁いた。

「そう、サリムです。……気持ちいいですか? 身体はこんなに正直に、僕を求めて跳ねている」 
「……う、ん、……ぁっ、気持ちいいからっ……! も、やめてぇ……お願……っ!」

 誇り高き獅子の面影はどこにもなかった。アザルは涙と鼻水、そしてよだれに塗れ、縋るような眼差しで甥に懇願する。その無残な姿こそが、サリムの中の独占欲を極限まで煽り立てた。

「叔父様、愛しています。……僕だけを見て、僕のことだけを考えてください」

 そう言い放つと、サリムはアザルの顎を強引に割り、逃げ場のない口中へと自身の欲望を突き立てた。

「んっ、……んんっ……! ぁ、……っ!!」

 口腔を蹂躙され、言葉にならない悲鳴が喉の奥で押し潰される。

 兄ジャファルが、時間をかけて冷徹に、精神の深淵からアザルを蝕む「静かなる狂気」だとするならば、今目の前にいるサリムは、すべてを力でなぎ倒し、火の海に変えてしまうような「剥き出しの狂気」そのものだった。

 かつて自分を守ると誓い、「おじさま、だいすき!」と太陽のような笑みを向けてくれた、あの純粋で愛らしかった甥はもうどこにもいない。

 そこにいるのは、王家に代々受け継がれる「愛という名の支配」に血を目覚めさせた、一匹の若く、飢えた捕食者。サリムの喉が鳴るたび、アザルの尊厳は砂上の楼閣のように崩れ去り、彼は自分が、父と子という二人の支配者に引き裂かれる運命にあることを、絶望と共に身体に刻み込まれていった。

「早く、僕だけのものになってください、叔父様……。僕が、貴方を父上から救い出してあげるから」

 サリムは熱に浮かされたようにそう囁きながら、アザルの唇を再び強引に、窒息せんばかりの勢いで奪った。

 砂漠の夕陽が部屋に深く差し込み、二人の褐色の影を壁に長く引き延ばす。 アザルという名の「至宝」は、逃げ場のない熱砂の檻の中で、親子二代の歪んだ執念によって、刻一刻と摩耗し、壊れていく。

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