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朝永壮士(ともなが・そうし)には、好きな人がいた。
幼馴染の宮田雅人(みやた・まさと)は、いつも眩しかった。笑顔も、声も、走る姿も。まるで太陽みたいで、みんながついていくリーダーで。壮士は気づいたときにはもう、彼に恋をしていた。
雅人が入った陸上部に壮士も真似して入った。同じ高校に進学して寮に入ったのも、ただ彼の傍にいたかったから。ずっと近くにいられると思っていた。それだけでよかった。
人は、生まれながらにして分けられる。
α(アルファ)、β(ベータ)、そしてΩ(オメガ)。
それは性別とは別に存在する、もうひとつの性――第二性と呼ばれるものだった。
αは支配者。強く、安定したフェロモンを持ち、社会の中枢を担うことが多い。βは中庸。特別な性質を持たないが、最も多く存在し、日常を支える。Ωは受容者。発情期という特殊な周期を持ち、番(つがい)という絆を結ぶことができる。
その絆は、ただの恋愛とは違う。身体の奥に刻まれるような、抗えない結びつき。
Ωは、発情期になると強いフェロモンを放ち、周囲のαを惹きつける。理性を奪い、衝動を呼び起こす。だからこそ、Ωはカラーをつける。自分を守るために。誰かを傷つけないために。
この世界では、愛は時に本能と衝突する。
「好き」だけでは、結ばれないこともある。
それでも、人は誰かを想う。
*
6月も半ば。梅雨の湿気が肌にまとわりつくような午後、壮士は部活中にふと頭が痛くなった。寒気がして、身体が重い。誰にも告げず、寮の自室へ戻ろうとした。
廊下を歩いていると、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
――いい匂い。
気づけば、足が勝手に動いていた。扉を開けると、そこは雅人の部屋だった。
足の力が抜けて、壮士はその場に崩れ落ちた。膝が床に触れた瞬間、じんとした熱が背骨を這い上がる。息が荒くなり、喉が渇く。体全体がじわじわと熱を帯びていき、指先まで火照る。
ヒートだ。
まだ完全には来ていない。けれど、“兆し”が迫っている。
いつもなら、もっと遅いはずだった。周期は把握していたし、抑制剤も欠かさず飲んでいた。ヒートが近づくと、なるべく実家に帰るようにしていた。誰にも迷惑をかけないように。誰にも知られないように。
なのに、なんで今?
「……っう……」
呻き声が漏れる。頭がぼんやりして、思考がまとまらない。香りが濃くなっていく。部屋の空気が甘く、重く、まとわりついてくる。
――このまま、この部屋にいてはいけない。
理性が警告している。逃げなければ。ここにいたら、取り返しがつかなくなる。
でも、身体が言うことをきかない。
立ち上がろうとしても、膝が震えて力が入らない。指先が痺れて、ドアノブまでの距離が果てしなく遠く感じる。
「……壮士?……どうした?」
視界の端に、彼の姿が揺れる。近づいてくる。その匂いが、さらに壮士の理性を溶かしていく。
「……お前、ヒートか?」
雅人の声が、低く震えていた。
壮士は反射的に首を振った。けれど、否定の言葉は喉の奥で詰まり、すぐに崩れた。
「ちが……いや……ごめ……っ」
言い逃れなんてできるわけがない。部屋の空気は甘く濃く、壮士の身体は明らかにヒートの兆しを見せていた。唇を噛んで、どうにか理性を繋ぎ止めようとする。
「はぁ……ごめ……ヒートだから……、保健の先生……呼んで……」
情けなくて、涙が滲んだ。
Ωなんて、一つもいいことがない。しかも男だ。男のΩは妊娠率も低い。社会的価値も低い。何の意味もない。ただ、欲望を垂れ流すだけのヒートと、一生付き合っていかなきゃいけない。
好きな人の前で、こんな醜態を晒して。
「まさ……と…?」
呼びかけた声は震えていた。雅人の瞳が、いつもと違う色をしていた。獰猛な光を宿して、壮士を見下ろしている。呼吸が荒く、肩が上下していた。
「壮士……」
長く息を吐きながら、雅人が近づいてくる。壮士は逃げようとした。けれど、身体に力が入らない。膝が震えて、床に縋るように座り込むしかなかった。
肩を掴まれた瞬間、強い力に思わず声が漏れる。
「痛っ……」
雅人の手は熱を帯びていた。そして、彼自身から発せられる匂いが鼻を衝いた。いつもよりも濃く、鋭く、壮士の本能を刺激する。
――フェロモンに、充てられた?
聞いたことはある。αは、Ωのヒートに充てられて、強制的に発情することがあると。
「……まさとっ……!」
雅人の瞳が、壮士の首筋を追っている。呼吸が荒く、理性が薄れていくのがわかる。
壮士は、震える指で雅人の胸を押し返そうとした。
「やめっ……嫌だ……!」
声はかすれていた。涙が頬を伝う。
ずっと、彼のことが好きだった。
幼い頃の壮士の世界を変えてくれたのは、雅人だ。雅人が笑って手を差し伸べてくれた、あの瞬間から、ずっと。
今、壮士の頬を伝っている涙が、何の感情から来ているのか、自分でもわからなかった。驚きなのか、ショックなのか、悲しみなのか、それとも悔しさなのか。ただ、涙は止まらず、ボロボロとこぼれ落ちていく。
床に倒され、背中に雅人の体温が触れた。熱い息が首筋にかかって、壮士は反射的に項を両手で覆った。
「噛んじゃダメ……!」
声が震える。けれど、雅人の声はそれ以上に荒れていた。
「噛ませろっ!!」
「ひ……っ! ヤダっ!!」
壮士の腕に、雅人の歯が食い込む。本気だった。痛みが走る。けれど、壮士は歯を食いしばって耐えた。痛い。でも、離さない。絶対に、項だけは守らなきゃいけない。
こんな自分なんかと、男のΩなんかと、番になったら――。
「壮士、手をどけろっ!」
「ダメぇ……! 雅人に、傷がつくから……っ!」
後悔と恐怖が混ざり合って、壮士の声はもう言葉にならなかった。
そのときだった。
コンコン、とドアをノックする音が響いた。
ドアノブが回る音。壮士の耳に、それだけははっきりと届いた。
「宮田?」
部屋のドアが開いたのは、確かに覚えている。
そこに立っていたのは、雅人と同室の――新藤(しんどう)だった。驚いたような顔で、目を見開いていた。あれは、今思えば傑作だった。
そのあと、新藤が雅人を羽交い絞めにして、壮士から引き離した。
「宮田、落ち着け! お前、今ヤバいって!」
「離せっ!!」
雅人が暴れる音。新藤の必死な声。部屋の空気が一気に冷えたような気がした。
壮士は、項を抱えたまま、床に崩れ落ちた。
視界が滲んで、音が遠くなっていく。
――ああ、もう、限界だ。
意識が、プツンと途切れた。
*
「……悪かった…」
落ち着いた声で、雅人がそう言った。
壮士は、ゆっくりと首を横に振った。
あの騒動のあと、壮士は病院に運ばれた。ヒートの発症による高熱と混乱。点滴で抑制剤を投与され、ようやく身体は落ち着いた。
雅人も、α用の抑制剤を飲まされて、しばらく寮の部屋に閉じ込められていたらしい。誰にも会わせてもらえず、ただ一人で頭を冷やしていたと、ぽつりと話した。
「責任は……とる」
雅人の言葉に、壮士は笑ってみせた。
「何の責任? 番にもなってないし、子どもができたわけでもない。どうってことないよ」
明るく、何事もなかったように。そう振る舞った。けれど、心臓はズキズキと痛んでいた。叫びたくなるほどに。
本当は、番になりたかった。
子どもも、ほしかった。
でも、こんな自分が、彼を縛ってはいけない。男のΩなんて、社会的にも生物的にも不利で、何も持っていない。
好きだけど――雅人は、自分を好きじゃない。
そんなことは、わかっている。
「俺が……雅人の部屋にいたのが、悪いんだよ……。ごめんね……」
雅人は何も言わず、壮士の手を見つめていた。
噛まれた痕。歯形と血まみれだった腕には、今は白い包帯が巻かれている。
「酷いことをした……」
雅人の声は、震えていた。
「大丈夫だから……」
壮士は微笑んだ。
「そんな心配そうな顔をするなよ…」
(期待するだろ…)それは言葉には出さなかった。
好きで、好きで、好きで、好きで、仕方がなかった。
だから、一緒にはいられない。
雅人は、壮士を変えてくれた。世界の色を変えてくれた。だからこそ、迷惑なんてかけたくなかった。
雅人が何か言いかけた唇を、壮士はそっと遮った。
「俺は、大丈夫」
嘘だった。でも、そう言うしかなかった。
(これ以上一緒にいたら、雅人に迷惑をかける…。それならいっそ、離れよう…)
でも、雅人の未来を守るためなら――
幼馴染の宮田雅人(みやた・まさと)は、いつも眩しかった。笑顔も、声も、走る姿も。まるで太陽みたいで、みんながついていくリーダーで。壮士は気づいたときにはもう、彼に恋をしていた。
雅人が入った陸上部に壮士も真似して入った。同じ高校に進学して寮に入ったのも、ただ彼の傍にいたかったから。ずっと近くにいられると思っていた。それだけでよかった。
人は、生まれながらにして分けられる。
α(アルファ)、β(ベータ)、そしてΩ(オメガ)。
それは性別とは別に存在する、もうひとつの性――第二性と呼ばれるものだった。
αは支配者。強く、安定したフェロモンを持ち、社会の中枢を担うことが多い。βは中庸。特別な性質を持たないが、最も多く存在し、日常を支える。Ωは受容者。発情期という特殊な周期を持ち、番(つがい)という絆を結ぶことができる。
その絆は、ただの恋愛とは違う。身体の奥に刻まれるような、抗えない結びつき。
Ωは、発情期になると強いフェロモンを放ち、周囲のαを惹きつける。理性を奪い、衝動を呼び起こす。だからこそ、Ωはカラーをつける。自分を守るために。誰かを傷つけないために。
この世界では、愛は時に本能と衝突する。
「好き」だけでは、結ばれないこともある。
それでも、人は誰かを想う。
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6月も半ば。梅雨の湿気が肌にまとわりつくような午後、壮士は部活中にふと頭が痛くなった。寒気がして、身体が重い。誰にも告げず、寮の自室へ戻ろうとした。
廊下を歩いていると、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
――いい匂い。
気づけば、足が勝手に動いていた。扉を開けると、そこは雅人の部屋だった。
足の力が抜けて、壮士はその場に崩れ落ちた。膝が床に触れた瞬間、じんとした熱が背骨を這い上がる。息が荒くなり、喉が渇く。体全体がじわじわと熱を帯びていき、指先まで火照る。
ヒートだ。
まだ完全には来ていない。けれど、“兆し”が迫っている。
いつもなら、もっと遅いはずだった。周期は把握していたし、抑制剤も欠かさず飲んでいた。ヒートが近づくと、なるべく実家に帰るようにしていた。誰にも迷惑をかけないように。誰にも知られないように。
なのに、なんで今?
「……っう……」
呻き声が漏れる。頭がぼんやりして、思考がまとまらない。香りが濃くなっていく。部屋の空気が甘く、重く、まとわりついてくる。
――このまま、この部屋にいてはいけない。
理性が警告している。逃げなければ。ここにいたら、取り返しがつかなくなる。
でも、身体が言うことをきかない。
立ち上がろうとしても、膝が震えて力が入らない。指先が痺れて、ドアノブまでの距離が果てしなく遠く感じる。
「……壮士?……どうした?」
視界の端に、彼の姿が揺れる。近づいてくる。その匂いが、さらに壮士の理性を溶かしていく。
「……お前、ヒートか?」
雅人の声が、低く震えていた。
壮士は反射的に首を振った。けれど、否定の言葉は喉の奥で詰まり、すぐに崩れた。
「ちが……いや……ごめ……っ」
言い逃れなんてできるわけがない。部屋の空気は甘く濃く、壮士の身体は明らかにヒートの兆しを見せていた。唇を噛んで、どうにか理性を繋ぎ止めようとする。
「はぁ……ごめ……ヒートだから……、保健の先生……呼んで……」
情けなくて、涙が滲んだ。
Ωなんて、一つもいいことがない。しかも男だ。男のΩは妊娠率も低い。社会的価値も低い。何の意味もない。ただ、欲望を垂れ流すだけのヒートと、一生付き合っていかなきゃいけない。
好きな人の前で、こんな醜態を晒して。
「まさ……と…?」
呼びかけた声は震えていた。雅人の瞳が、いつもと違う色をしていた。獰猛な光を宿して、壮士を見下ろしている。呼吸が荒く、肩が上下していた。
「壮士……」
長く息を吐きながら、雅人が近づいてくる。壮士は逃げようとした。けれど、身体に力が入らない。膝が震えて、床に縋るように座り込むしかなかった。
肩を掴まれた瞬間、強い力に思わず声が漏れる。
「痛っ……」
雅人の手は熱を帯びていた。そして、彼自身から発せられる匂いが鼻を衝いた。いつもよりも濃く、鋭く、壮士の本能を刺激する。
――フェロモンに、充てられた?
聞いたことはある。αは、Ωのヒートに充てられて、強制的に発情することがあると。
「……まさとっ……!」
雅人の瞳が、壮士の首筋を追っている。呼吸が荒く、理性が薄れていくのがわかる。
壮士は、震える指で雅人の胸を押し返そうとした。
「やめっ……嫌だ……!」
声はかすれていた。涙が頬を伝う。
ずっと、彼のことが好きだった。
幼い頃の壮士の世界を変えてくれたのは、雅人だ。雅人が笑って手を差し伸べてくれた、あの瞬間から、ずっと。
今、壮士の頬を伝っている涙が、何の感情から来ているのか、自分でもわからなかった。驚きなのか、ショックなのか、悲しみなのか、それとも悔しさなのか。ただ、涙は止まらず、ボロボロとこぼれ落ちていく。
床に倒され、背中に雅人の体温が触れた。熱い息が首筋にかかって、壮士は反射的に項を両手で覆った。
「噛んじゃダメ……!」
声が震える。けれど、雅人の声はそれ以上に荒れていた。
「噛ませろっ!!」
「ひ……っ! ヤダっ!!」
壮士の腕に、雅人の歯が食い込む。本気だった。痛みが走る。けれど、壮士は歯を食いしばって耐えた。痛い。でも、離さない。絶対に、項だけは守らなきゃいけない。
こんな自分なんかと、男のΩなんかと、番になったら――。
「壮士、手をどけろっ!」
「ダメぇ……! 雅人に、傷がつくから……っ!」
後悔と恐怖が混ざり合って、壮士の声はもう言葉にならなかった。
そのときだった。
コンコン、とドアをノックする音が響いた。
ドアノブが回る音。壮士の耳に、それだけははっきりと届いた。
「宮田?」
部屋のドアが開いたのは、確かに覚えている。
そこに立っていたのは、雅人と同室の――新藤(しんどう)だった。驚いたような顔で、目を見開いていた。あれは、今思えば傑作だった。
そのあと、新藤が雅人を羽交い絞めにして、壮士から引き離した。
「宮田、落ち着け! お前、今ヤバいって!」
「離せっ!!」
雅人が暴れる音。新藤の必死な声。部屋の空気が一気に冷えたような気がした。
壮士は、項を抱えたまま、床に崩れ落ちた。
視界が滲んで、音が遠くなっていく。
――ああ、もう、限界だ。
意識が、プツンと途切れた。
*
「……悪かった…」
落ち着いた声で、雅人がそう言った。
壮士は、ゆっくりと首を横に振った。
あの騒動のあと、壮士は病院に運ばれた。ヒートの発症による高熱と混乱。点滴で抑制剤を投与され、ようやく身体は落ち着いた。
雅人も、α用の抑制剤を飲まされて、しばらく寮の部屋に閉じ込められていたらしい。誰にも会わせてもらえず、ただ一人で頭を冷やしていたと、ぽつりと話した。
「責任は……とる」
雅人の言葉に、壮士は笑ってみせた。
「何の責任? 番にもなってないし、子どもができたわけでもない。どうってことないよ」
明るく、何事もなかったように。そう振る舞った。けれど、心臓はズキズキと痛んでいた。叫びたくなるほどに。
本当は、番になりたかった。
子どもも、ほしかった。
でも、こんな自分が、彼を縛ってはいけない。男のΩなんて、社会的にも生物的にも不利で、何も持っていない。
好きだけど――雅人は、自分を好きじゃない。
そんなことは、わかっている。
「俺が……雅人の部屋にいたのが、悪いんだよ……。ごめんね……」
雅人は何も言わず、壮士の手を見つめていた。
噛まれた痕。歯形と血まみれだった腕には、今は白い包帯が巻かれている。
「酷いことをした……」
雅人の声は、震えていた。
「大丈夫だから……」
壮士は微笑んだ。
「そんな心配そうな顔をするなよ…」
(期待するだろ…)それは言葉には出さなかった。
好きで、好きで、好きで、好きで、仕方がなかった。
だから、一緒にはいられない。
雅人は、壮士を変えてくれた。世界の色を変えてくれた。だからこそ、迷惑なんてかけたくなかった。
雅人が何か言いかけた唇を、壮士はそっと遮った。
「俺は、大丈夫」
嘘だった。でも、そう言うしかなかった。
(これ以上一緒にいたら、雅人に迷惑をかける…。それならいっそ、離れよう…)
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