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壮士は雅人と離れ、別々の大学に進学した。
そして、あれから壮士は、Ω専用のカラーをつけることにした。
首輪のようなそれは、項を守るためのもの。万が一、誰かに噛まれても番にならないように、特殊な素材で作られていて、簡単には破れない。見た目はシンプルだけど、重くて、硬くて、首が苦しい。
周囲の視線も痛い。
「自分はΩです」と、名札をぶら下げて歩いているようなものだった。できることなら外したい。でも――あんなことがあったから。
自分も、相手も、守るために。
事故が起こらないように。誰かを傷つけないように。誰かに傷つけられないように。
ヒートは、いつどこで起こるかわからない。抑制剤を飲んでいても、完全に防げるわけじゃない。もし、公共の場で発症してしまったら。もし、近くにαがいたら。
そのとき、壮士の身体が誰かを興奮させてしまったら――。
番を作れば、ヒートは安定する。けれど、こんな男のΩなんかと番になってくれるαなんて、まずいないだろう。
妊娠率も低いし、社会的価値も低い。何の得にもならない。
だから、自分の身は自分で守るしかない。
一人で生きていくしかない。
雅人のことは、今でも忘れられない。ずっと好きだった。今も、ずっと。
でも、あの日のことを思い出すたびに、心が軋んだ。
カラーを見るたびに、思い出す。
もう、あんなふうにはなりたくない。
壮士は、鏡の中の自分を見つめながら、カラーの留め具をカチリと締めた。
*
季節は、春と夏の狭間。
空気は湿り気を帯びていて、風はぬるく、肌にまとわりつくようだった。朝から降ったり止んだりを繰り返す雨は、どこかあの日と似ていた。
壮士は、なるべく考えないようにしていた。
でも、この時期になると、記憶は勝手に蘇る。雨の匂い、空の色、風の温度――全部が、あの日を思い出させる。
その朝、壮士は少し熱っぽかった。喉の奥が重く、身体がだるい。でも、ただの思い過ごしだろうと自分に言い聞かせて、授業を終えてから部活へ向かった。
練習はいつも通りだった。走って、汗をかいて、仲間と笑って。何も変わらないはずだった。
けれど、部室で着替えようとしたとき――異変は突然訪れた。
ロッカーの前に立ち、手を伸ばす。
「あれ……?」
指先に力が入らない。握ったはずのロッカーの取っ手から、手がするりと滑り落ちた。
もう一度、手を伸ばす。けれど、指が震えて、力が入らない。
ロッカーが開けられない。
呼吸が浅くなっていく。背中にじんわりと汗が滲み、視界がぼやける。
――まさか。
壮士は、胸の奥がざわつくのを感じた。
ヒートの前兆。
まだ周期には早いはずだった。
なのに、どうして。
雨音が、部室の窓を叩いていく。
「……朝永、どうした?」
隣にいた伊川晴臣(いかわ・はるおみ)が、異変に気づいて声をかけてくる。
壮士は返事をしようとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。膝の力が抜けて、ぺたんと床に座り込む。冷たい床の感触が、妙に遠く感じる。
動悸がする。胸が苦しい。息がうまく吸えない。
「具合が悪いのか?」
晴臣が心配そうに顔を覗き込んでくる。壮士は目を逸らした。視界が滲んで、涙がこぼれそうになる。
ヒートの周期がずれることは、時々ある。わかっていたはずだった。だからこそ、いつもは肌身離さず抑制剤を持ち歩いていた。
なのに、今日に限って――。
朝、少し熱っぽかったのに「思い過ごしだろう」と自分に言い聞かせた。あの瞬間の自分を、今すぐ殴りたい。
晴臣は、壮士の顔を見て何かを察したのか、周囲に気づかれないように耳元でそっと囁いた。
「抑制剤は……?」
壮士は、唇を噛んで首を振った。
「……アパート……」
声はかすれていた。情けなくて、悔しくて、涙が滲む。
どうして、こういう日に限って忘れるんだろう。
どうして、こんなときに限って、身体が裏切るんだろう。
周囲のざわめきが遠くなる。晴臣の視線が、鋭く壮士を見つめていた。何かを言いかけて、言葉を飲み込んだような顔。
壮士は、震える手で自分の首元を押さえた。カラーは、しっかりと留まっている。項は守られている。けれど、それだけでは足りない。
このままじゃ、また誰かを巻き込んでしまう。
あの時みたいに――。
雨の匂いが、窓の外から漂ってきた。
壮士は、震える身体を抱きしめながら、ただ耐えるしかなかった。
晴臣はすぐにロッカーから、さっき着替えたばかりのジャージを引っ張り出すと、それを壮士の肩にそっとかけ、包み込むように身体をくるんだ。
そして、何のためらいもなく、壮士を抱きかかえた。
「へっ……?!」
軽々と持ち上げられて、壮士は思わず声を上げた。驚きと羞恥が一気に押し寄せる。晴臣の腕の中で、身体がふわりと浮いた。
近くにいた大原に、晴臣が声をかける。
「朝永が調子が悪いらしい。保健室に連れていくから、荷物を頼む」
「は……?え……?大丈夫か?」
戸惑う大原に、晴臣は低く、しかし強い口調で言った。
「早く!」
その声に、大原は慌てて頷き、晴臣の荷物と壮士の荷物をまとめてくれる。
大原が何か言いかけていたが、晴臣はそれを振り切るように、壮士を抱えたまま部室の外へ出た。
雨は、いつの間にか上がっていた。空はまだ曇っていて、地面は濡れていたけれど、空気は少しだけ澄んでいた。
周囲の視線が痛かった。皆がこちらを見ている気がして、壮士は顔を伏せた。あまりの恥ずかしさに、声を絞り出す。
「下ろせよ……!!大丈夫だからっ……!!」
そう言ったものの――。
「どう考えても、大丈夫じゃないだろう!!!」
晴臣の声が、低く、鋭く響いた。
いつもは冷静で、滅多に怒ったりしない彼の怒鳴り声に、壮士は驚いて言葉を失った。
晴臣のジャージから、彼の匂いがした。安心するような、でも今の壮士には少し刺激が強い香り。
浅い息を繰り返しながら、壮士は晴臣の腕の中で揺られていた。壮士は時々うわ言のように呟く。
「……雅人……まさと……」
苦しげに、掠れた声で。自分でも気づかないうちに、あの名前を呼んでいた。
「雅人ってやつに連絡するか……?」
その言葉に、壮士は反射的に首を振った。
「ダメだ!! 絶対に、ダメ……!!」
声が裏返るほど強く否定した。晴臣が驚いたように目を見開く。
「番じゃないのか?」
その問いに、壮士は目を伏せた。
「……そんなんじゃねえよ……」
言葉が喉の奥で重くなる。番になんてなれるわけがない。
「失礼します。すみません、Ωのヒートが始まったみたいで…」
保健室に入ると、晴臣は看護師に説明した。看護師はヒート抑制剤を用意してくれるようだ。
「はぁ、はぁ……」
浅い呼吸を繰り返すたびに、胸が上下し、喉の奥が焼けるように熱かった。肌は汗で湿り、ジャージの内側がじっとりと張り付いている。
晴臣が、そっと壮士の身体をベッドに下ろした。熱を持った身体が、ベッドの上でじわじわと沈んでいく。
大原が荷物と一緒にスポーツドリンクを持ってきた。自販機で買ってきてくれたらしい。彼は壮士が風邪をひいたと思っているようで、心配そうな顔で「お大事に」と言って帰っていった。
壮士は、目を閉じていた。けれど、身体の熱は収まらず、呼吸はどんどん浅くなる。ジャージの中が苦しくて、胸が締めつけられるようだった。
晴臣が、そっとジャージの前を開けようと手を伸ばした。その瞬間、壮士の身体がビクッと震えた。
「イヤっ!!触るな……っ!!」
晴臣は、すぐに手を引いた。
「……悪い」
壮士は、目を逸らしたまま、震える声で言った。
「も……帰れ……っ 大丈夫だからっ……!!」
本当は、大丈夫なんかじゃない。身体は熱に浮かされて、理性は揺らいでいた。晴臣の匂いが、近くにあるだけで、心がざわつく。
「薬、飲めるか?」
晴臣の声が、静かに耳に届いた。
壮士は、なんとか身体を起こそうとした。けれど、力が入らない。腕も背中も重くて、思うように動かない。少しだけ首を持ち上げたが、すぐにベッドに沈み込んだ。
そのとき、晴臣がそっと背中に腕を回して、壮士の身体を支えながら起こしてくれた。
「んっ……」
思わず漏れた甘い声に、自分でも驚いた。けれど、抵抗する気力はなかった。晴臣の腕の中は、熱くて、安心するようで、怖かった。
「朝永、口を開けろ」
言われるままに、壮士は素直に口を開いた。
薬が舌の上に置かれる。次に、晴臣がコップを口元に持ってきた。けれど、うまく飲めずに、水が唇の端から零れ落ちた。
「……っ」
恥ずかしさに顔が熱くなる。けれど、晴臣は何も言わず、コップの水を自分の口に含んだ。
そして、壮士の唇にそっと重ねる。
水が、晴臣の口から壮士の口へと流し込まれる。唇も、口の中も、熱かった。触れ合う感触に、壮士の心臓が跳ねる。
ゴクリ、と喉が鳴る。
薬を飲み込んだことを確認すると、晴臣はそっと口を離した。
壮士は、涙の滲む瞳で晴臣を見つめた。
「くち……っ」
震える声で、そう言うと、晴臣は少しだけ眉を下げて答えた。
「ああ、悪い…。でも早く薬を飲んだ方がいいだろう。何もしないから、少しこうしていてもいいか? 朝永が辛くなければ」
壮士は、ほんの少しだけ頷いた。
「……いいけど……」
声はかすれていたけれど、拒絶ではなかった。
「薬が効くまで、もう少しの辛抱だ……」
晴臣の声は、優しくて、静かだった。
壮士は、彼の腕の中で浅い呼吸を繰り返しながら、熱に浮かされた意識の中で、ほんの少しだけ安心していた。
晴臣は壮士の髪をそっと撫でる。指先が額から前髪をすくい、耳の後ろへと流れる。壮士は目を閉じたまま、微かに眉を寄せる。
「ん……。伊川は……大丈夫なのか……? お前、αだろ……?」
掠れた声で、壮士がそう言うと、晴臣は少しだけ目を伏せた。
「……ああ、俺は大丈夫だ」
その言葉に、壮士は安心したように、ふっと息を吐いた。
「だから、安心して眠れ」
そう言うと、壮士は静かに目を閉じた。
しばらくして、薬が効いてきたのか、寝息が聞こえ始めた。
晴臣は、ベッドの傍らに座ったまま、壮士の顔を見つめていた。
そして、あれから壮士は、Ω専用のカラーをつけることにした。
首輪のようなそれは、項を守るためのもの。万が一、誰かに噛まれても番にならないように、特殊な素材で作られていて、簡単には破れない。見た目はシンプルだけど、重くて、硬くて、首が苦しい。
周囲の視線も痛い。
「自分はΩです」と、名札をぶら下げて歩いているようなものだった。できることなら外したい。でも――あんなことがあったから。
自分も、相手も、守るために。
事故が起こらないように。誰かを傷つけないように。誰かに傷つけられないように。
ヒートは、いつどこで起こるかわからない。抑制剤を飲んでいても、完全に防げるわけじゃない。もし、公共の場で発症してしまったら。もし、近くにαがいたら。
そのとき、壮士の身体が誰かを興奮させてしまったら――。
番を作れば、ヒートは安定する。けれど、こんな男のΩなんかと番になってくれるαなんて、まずいないだろう。
妊娠率も低いし、社会的価値も低い。何の得にもならない。
だから、自分の身は自分で守るしかない。
一人で生きていくしかない。
雅人のことは、今でも忘れられない。ずっと好きだった。今も、ずっと。
でも、あの日のことを思い出すたびに、心が軋んだ。
カラーを見るたびに、思い出す。
もう、あんなふうにはなりたくない。
壮士は、鏡の中の自分を見つめながら、カラーの留め具をカチリと締めた。
*
季節は、春と夏の狭間。
空気は湿り気を帯びていて、風はぬるく、肌にまとわりつくようだった。朝から降ったり止んだりを繰り返す雨は、どこかあの日と似ていた。
壮士は、なるべく考えないようにしていた。
でも、この時期になると、記憶は勝手に蘇る。雨の匂い、空の色、風の温度――全部が、あの日を思い出させる。
その朝、壮士は少し熱っぽかった。喉の奥が重く、身体がだるい。でも、ただの思い過ごしだろうと自分に言い聞かせて、授業を終えてから部活へ向かった。
練習はいつも通りだった。走って、汗をかいて、仲間と笑って。何も変わらないはずだった。
けれど、部室で着替えようとしたとき――異変は突然訪れた。
ロッカーの前に立ち、手を伸ばす。
「あれ……?」
指先に力が入らない。握ったはずのロッカーの取っ手から、手がするりと滑り落ちた。
もう一度、手を伸ばす。けれど、指が震えて、力が入らない。
ロッカーが開けられない。
呼吸が浅くなっていく。背中にじんわりと汗が滲み、視界がぼやける。
――まさか。
壮士は、胸の奥がざわつくのを感じた。
ヒートの前兆。
まだ周期には早いはずだった。
なのに、どうして。
雨音が、部室の窓を叩いていく。
「……朝永、どうした?」
隣にいた伊川晴臣(いかわ・はるおみ)が、異変に気づいて声をかけてくる。
壮士は返事をしようとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。膝の力が抜けて、ぺたんと床に座り込む。冷たい床の感触が、妙に遠く感じる。
動悸がする。胸が苦しい。息がうまく吸えない。
「具合が悪いのか?」
晴臣が心配そうに顔を覗き込んでくる。壮士は目を逸らした。視界が滲んで、涙がこぼれそうになる。
ヒートの周期がずれることは、時々ある。わかっていたはずだった。だからこそ、いつもは肌身離さず抑制剤を持ち歩いていた。
なのに、今日に限って――。
朝、少し熱っぽかったのに「思い過ごしだろう」と自分に言い聞かせた。あの瞬間の自分を、今すぐ殴りたい。
晴臣は、壮士の顔を見て何かを察したのか、周囲に気づかれないように耳元でそっと囁いた。
「抑制剤は……?」
壮士は、唇を噛んで首を振った。
「……アパート……」
声はかすれていた。情けなくて、悔しくて、涙が滲む。
どうして、こういう日に限って忘れるんだろう。
どうして、こんなときに限って、身体が裏切るんだろう。
周囲のざわめきが遠くなる。晴臣の視線が、鋭く壮士を見つめていた。何かを言いかけて、言葉を飲み込んだような顔。
壮士は、震える手で自分の首元を押さえた。カラーは、しっかりと留まっている。項は守られている。けれど、それだけでは足りない。
このままじゃ、また誰かを巻き込んでしまう。
あの時みたいに――。
雨の匂いが、窓の外から漂ってきた。
壮士は、震える身体を抱きしめながら、ただ耐えるしかなかった。
晴臣はすぐにロッカーから、さっき着替えたばかりのジャージを引っ張り出すと、それを壮士の肩にそっとかけ、包み込むように身体をくるんだ。
そして、何のためらいもなく、壮士を抱きかかえた。
「へっ……?!」
軽々と持ち上げられて、壮士は思わず声を上げた。驚きと羞恥が一気に押し寄せる。晴臣の腕の中で、身体がふわりと浮いた。
近くにいた大原に、晴臣が声をかける。
「朝永が調子が悪いらしい。保健室に連れていくから、荷物を頼む」
「は……?え……?大丈夫か?」
戸惑う大原に、晴臣は低く、しかし強い口調で言った。
「早く!」
その声に、大原は慌てて頷き、晴臣の荷物と壮士の荷物をまとめてくれる。
大原が何か言いかけていたが、晴臣はそれを振り切るように、壮士を抱えたまま部室の外へ出た。
雨は、いつの間にか上がっていた。空はまだ曇っていて、地面は濡れていたけれど、空気は少しだけ澄んでいた。
周囲の視線が痛かった。皆がこちらを見ている気がして、壮士は顔を伏せた。あまりの恥ずかしさに、声を絞り出す。
「下ろせよ……!!大丈夫だからっ……!!」
そう言ったものの――。
「どう考えても、大丈夫じゃないだろう!!!」
晴臣の声が、低く、鋭く響いた。
いつもは冷静で、滅多に怒ったりしない彼の怒鳴り声に、壮士は驚いて言葉を失った。
晴臣のジャージから、彼の匂いがした。安心するような、でも今の壮士には少し刺激が強い香り。
浅い息を繰り返しながら、壮士は晴臣の腕の中で揺られていた。壮士は時々うわ言のように呟く。
「……雅人……まさと……」
苦しげに、掠れた声で。自分でも気づかないうちに、あの名前を呼んでいた。
「雅人ってやつに連絡するか……?」
その言葉に、壮士は反射的に首を振った。
「ダメだ!! 絶対に、ダメ……!!」
声が裏返るほど強く否定した。晴臣が驚いたように目を見開く。
「番じゃないのか?」
その問いに、壮士は目を伏せた。
「……そんなんじゃねえよ……」
言葉が喉の奥で重くなる。番になんてなれるわけがない。
「失礼します。すみません、Ωのヒートが始まったみたいで…」
保健室に入ると、晴臣は看護師に説明した。看護師はヒート抑制剤を用意してくれるようだ。
「はぁ、はぁ……」
浅い呼吸を繰り返すたびに、胸が上下し、喉の奥が焼けるように熱かった。肌は汗で湿り、ジャージの内側がじっとりと張り付いている。
晴臣が、そっと壮士の身体をベッドに下ろした。熱を持った身体が、ベッドの上でじわじわと沈んでいく。
大原が荷物と一緒にスポーツドリンクを持ってきた。自販機で買ってきてくれたらしい。彼は壮士が風邪をひいたと思っているようで、心配そうな顔で「お大事に」と言って帰っていった。
壮士は、目を閉じていた。けれど、身体の熱は収まらず、呼吸はどんどん浅くなる。ジャージの中が苦しくて、胸が締めつけられるようだった。
晴臣が、そっとジャージの前を開けようと手を伸ばした。その瞬間、壮士の身体がビクッと震えた。
「イヤっ!!触るな……っ!!」
晴臣は、すぐに手を引いた。
「……悪い」
壮士は、目を逸らしたまま、震える声で言った。
「も……帰れ……っ 大丈夫だからっ……!!」
本当は、大丈夫なんかじゃない。身体は熱に浮かされて、理性は揺らいでいた。晴臣の匂いが、近くにあるだけで、心がざわつく。
「薬、飲めるか?」
晴臣の声が、静かに耳に届いた。
壮士は、なんとか身体を起こそうとした。けれど、力が入らない。腕も背中も重くて、思うように動かない。少しだけ首を持ち上げたが、すぐにベッドに沈み込んだ。
そのとき、晴臣がそっと背中に腕を回して、壮士の身体を支えながら起こしてくれた。
「んっ……」
思わず漏れた甘い声に、自分でも驚いた。けれど、抵抗する気力はなかった。晴臣の腕の中は、熱くて、安心するようで、怖かった。
「朝永、口を開けろ」
言われるままに、壮士は素直に口を開いた。
薬が舌の上に置かれる。次に、晴臣がコップを口元に持ってきた。けれど、うまく飲めずに、水が唇の端から零れ落ちた。
「……っ」
恥ずかしさに顔が熱くなる。けれど、晴臣は何も言わず、コップの水を自分の口に含んだ。
そして、壮士の唇にそっと重ねる。
水が、晴臣の口から壮士の口へと流し込まれる。唇も、口の中も、熱かった。触れ合う感触に、壮士の心臓が跳ねる。
ゴクリ、と喉が鳴る。
薬を飲み込んだことを確認すると、晴臣はそっと口を離した。
壮士は、涙の滲む瞳で晴臣を見つめた。
「くち……っ」
震える声で、そう言うと、晴臣は少しだけ眉を下げて答えた。
「ああ、悪い…。でも早く薬を飲んだ方がいいだろう。何もしないから、少しこうしていてもいいか? 朝永が辛くなければ」
壮士は、ほんの少しだけ頷いた。
「……いいけど……」
声はかすれていたけれど、拒絶ではなかった。
「薬が効くまで、もう少しの辛抱だ……」
晴臣の声は、優しくて、静かだった。
壮士は、彼の腕の中で浅い呼吸を繰り返しながら、熱に浮かされた意識の中で、ほんの少しだけ安心していた。
晴臣は壮士の髪をそっと撫でる。指先が額から前髪をすくい、耳の後ろへと流れる。壮士は目を閉じたまま、微かに眉を寄せる。
「ん……。伊川は……大丈夫なのか……? お前、αだろ……?」
掠れた声で、壮士がそう言うと、晴臣は少しだけ目を伏せた。
「……ああ、俺は大丈夫だ」
その言葉に、壮士は安心したように、ふっと息を吐いた。
「だから、安心して眠れ」
そう言うと、壮士は静かに目を閉じた。
しばらくして、薬が効いてきたのか、寝息が聞こえ始めた。
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