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第6章
四 心を開いて
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四
完敗だった。
弁護士事務所を出てきた芽依と鞍馬は二人して同時に空を仰ぎ見てため息をついた。
すると、鞍馬が芽依に声をかけた。
「阿倍野さん」
「はい……」
「喉乾きませんか?」
「えっ? あ……、そうですね。少しお茶しましょうか」
そういい、芽依たちは駅前にあるカフェに入り、緊張と絶望の心を少し休ませることにした。
*****
「やっぱり、でしたね……」
鞍馬が儚げに言った。
「私の方はもう手段がない感じでしたけど、鞍馬さんの件はまだ望みがないわけではなさそうでしたから……」
「もういいんです」
「えっ?」
鞍馬の諦めをにじませる言い方に、芽依は鞍馬の顔を見つめ返した。
「専門家から話が聞けて、正直、少しすっきりしました」
「それは、本心……ですか?」
芽依はおそるおそるに聞いてみる。
鞍馬は芽依から顔をそらしたままだったが、その表情は落ち着いていた。
「……はい。それに、たとえ僕が志摩ユウキを訴えてレシピを取り戻したとしても、盗用されていたものだという事実は消えません」
鞍馬の言葉はもっともであった。
法的手段を取り、たとえ勝ちを取ったとしても、心にできた傷までは消えないのだ。
私たちは、たとえどんなことがあろうとも、その傷を背負ったまま生きなければならないのだ。
(受けた傷ごとなくなってくれたらいいのに……)
そんなことを、芽依は強く思った。
「僕にとっては、レシピっていうのは我が子みたいな存在でひとつひとつに愛があります。たとえ傷だらけになっていたとしても、見捨てるつもりはありません。けど、万が一もし僕がレシピを取り戻したとしても、僕の元では日の目をみることはないだろうともおもってます」
「えっ?」
「僕には力がない。細々とした個人販売で収入を得ているいっぱしの調香師です。志摩ユウキだったからこそ万人に好まれた。悔しいですがこれも事実です。だから僕のレシピは、たとえ志摩ユウキのもとであろうと、誰かの日常を飾れているのならそれでもいいかと思うようになりました」
「鞍馬さん……」
そういうと、鞍馬はアイスコーヒーを半分ほどまで飲み干した。
「私、鞍馬さんの香り、とても好きです」
「えっ?」
「実は、鞍馬さんが金木犀にやってきた日。私、鞍馬さんのこと、思わず見入っちゃったんです。いい香りがする人だなあって」
「僕の香り?」
「あの、バニラみたいな。主張も強くないし、それなのに心地よくて、本当にいい香りって思うものだったから。よく、いい香りのする女性に男性って振り返ってしまうっていうじゃないですか。あれと同じことをしてました。金木犀の雰囲気を邪魔しない。夜に馴染むとてもいい香りでした。あれも、鞍馬さんが作ったものなんですか?」
「はい。あれも僕が考えた調香法で作った香りて、今はSEEmyが作ってるものです」
「SEEmyが。そうだったんですか……」
鞍馬はストローでグラスの中の氷をかき混ぜながらいった。
「あの香り、僕もお気に入りなんです。だから、完成したときの喜びはいまだって思い出せます。でも嬉しい」
「鞍馬さんの香りは、きっと慕われる香りなんだと思います。あ……私なんかに言われても信憑性ないですよね」
「そんなことありませんよ、阿倍野さん」
「それだけの才能があるんですから、鞍馬さんらしくやればいいと思います」
「僕らしく……」
そう言うと、今度は芽依がアイスカフェラテを半分まで飲み干した。
「僕。人見知りだし、誰かを頼ることも苦手なんです。レシピを盗まれたとなったとき、誰かに助けて欲しいと思った。けど、誰にも話すことは出来ないし、そんな目にあったことが恥ずかしくも思えたりして。相手は志摩ユウキだし、僕はあやかしだ。誰が聞いても志摩ユウキを信じるに違いない。だから、相談なんて出来なかった。それで、気付いたら心が疲弊してしまっていました」
「それで病院を受診したんですか?」
「眠れなくなった上に、加えて、希死念慮も出てきたから」
その言葉に芽依は驚いた。
他人にはどうにも出来ないデリケートな感情だ。けれども、そこからは救わねばと芽依は思った。
「そこまで……。い、今はどうなんですか?」
すると、鞍馬は芽依の言葉から悟ったのか、笑顔で答えた。
「安心してください。今はありません」
「よかった……」
「ちょうど、夜カフェ〈金木犀〉というカフェに酒呑童子がいると知ってから起きなくなりました。唯一、僕が生きる道はそこしかないと思い、夜な夜な店を探し回ってました」
「そうだったんですか……」
「おかげで、金木犀で天童さんと鴑羅さんに出会えた。それからほんの少しずつだけど、気持ちにも変化がおきましたよ」
「でも、その……金木犀の話ってどこで聞いたんですか? 金木犀ってネットで検索しても出てこないのに」
「禊を課せられたあやかしなら、一度は耳にする話だと思います。何でも、やばいあやかしがやっているカフェがあるって」
「や、やばい……ですか?」
「困ったら金木犀を頼れっていうくらいですからね。ただ、そこにいるのは大あやかしの酒呑童子だから覚悟はしろって。そう聞くと。なかなか勇気が出なかったんですけど……」
「やっぱり、酒呑童子って大物なんですか?」
「はい。大物ですよ」
「……そうなんだ」
「大酒飲みで、気性が荒くて。問題ばかり起こすあやかしで手をつけらないといういい伝えが残っていますからね。禊を課してもすぐ破るという話は有名です」
「禊を破る?」
(それ。ガチでやばいじゃん)
「でも、今の天童さんはそんな様子ありませんけどね」
完敗だった。
弁護士事務所を出てきた芽依と鞍馬は二人して同時に空を仰ぎ見てため息をついた。
すると、鞍馬が芽依に声をかけた。
「阿倍野さん」
「はい……」
「喉乾きませんか?」
「えっ? あ……、そうですね。少しお茶しましょうか」
そういい、芽依たちは駅前にあるカフェに入り、緊張と絶望の心を少し休ませることにした。
*****
「やっぱり、でしたね……」
鞍馬が儚げに言った。
「私の方はもう手段がない感じでしたけど、鞍馬さんの件はまだ望みがないわけではなさそうでしたから……」
「もういいんです」
「えっ?」
鞍馬の諦めをにじませる言い方に、芽依は鞍馬の顔を見つめ返した。
「専門家から話が聞けて、正直、少しすっきりしました」
「それは、本心……ですか?」
芽依はおそるおそるに聞いてみる。
鞍馬は芽依から顔をそらしたままだったが、その表情は落ち着いていた。
「……はい。それに、たとえ僕が志摩ユウキを訴えてレシピを取り戻したとしても、盗用されていたものだという事実は消えません」
鞍馬の言葉はもっともであった。
法的手段を取り、たとえ勝ちを取ったとしても、心にできた傷までは消えないのだ。
私たちは、たとえどんなことがあろうとも、その傷を背負ったまま生きなければならないのだ。
(受けた傷ごとなくなってくれたらいいのに……)
そんなことを、芽依は強く思った。
「僕にとっては、レシピっていうのは我が子みたいな存在でひとつひとつに愛があります。たとえ傷だらけになっていたとしても、見捨てるつもりはありません。けど、万が一もし僕がレシピを取り戻したとしても、僕の元では日の目をみることはないだろうともおもってます」
「えっ?」
「僕には力がない。細々とした個人販売で収入を得ているいっぱしの調香師です。志摩ユウキだったからこそ万人に好まれた。悔しいですがこれも事実です。だから僕のレシピは、たとえ志摩ユウキのもとであろうと、誰かの日常を飾れているのならそれでもいいかと思うようになりました」
「鞍馬さん……」
そういうと、鞍馬はアイスコーヒーを半分ほどまで飲み干した。
「私、鞍馬さんの香り、とても好きです」
「えっ?」
「実は、鞍馬さんが金木犀にやってきた日。私、鞍馬さんのこと、思わず見入っちゃったんです。いい香りがする人だなあって」
「僕の香り?」
「あの、バニラみたいな。主張も強くないし、それなのに心地よくて、本当にいい香りって思うものだったから。よく、いい香りのする女性に男性って振り返ってしまうっていうじゃないですか。あれと同じことをしてました。金木犀の雰囲気を邪魔しない。夜に馴染むとてもいい香りでした。あれも、鞍馬さんが作ったものなんですか?」
「はい。あれも僕が考えた調香法で作った香りて、今はSEEmyが作ってるものです」
「SEEmyが。そうだったんですか……」
鞍馬はストローでグラスの中の氷をかき混ぜながらいった。
「あの香り、僕もお気に入りなんです。だから、完成したときの喜びはいまだって思い出せます。でも嬉しい」
「鞍馬さんの香りは、きっと慕われる香りなんだと思います。あ……私なんかに言われても信憑性ないですよね」
「そんなことありませんよ、阿倍野さん」
「それだけの才能があるんですから、鞍馬さんらしくやればいいと思います」
「僕らしく……」
そう言うと、今度は芽依がアイスカフェラテを半分まで飲み干した。
「僕。人見知りだし、誰かを頼ることも苦手なんです。レシピを盗まれたとなったとき、誰かに助けて欲しいと思った。けど、誰にも話すことは出来ないし、そんな目にあったことが恥ずかしくも思えたりして。相手は志摩ユウキだし、僕はあやかしだ。誰が聞いても志摩ユウキを信じるに違いない。だから、相談なんて出来なかった。それで、気付いたら心が疲弊してしまっていました」
「それで病院を受診したんですか?」
「眠れなくなった上に、加えて、希死念慮も出てきたから」
その言葉に芽依は驚いた。
他人にはどうにも出来ないデリケートな感情だ。けれども、そこからは救わねばと芽依は思った。
「そこまで……。い、今はどうなんですか?」
すると、鞍馬は芽依の言葉から悟ったのか、笑顔で答えた。
「安心してください。今はありません」
「よかった……」
「ちょうど、夜カフェ〈金木犀〉というカフェに酒呑童子がいると知ってから起きなくなりました。唯一、僕が生きる道はそこしかないと思い、夜な夜な店を探し回ってました」
「そうだったんですか……」
「おかげで、金木犀で天童さんと鴑羅さんに出会えた。それからほんの少しずつだけど、気持ちにも変化がおきましたよ」
「でも、その……金木犀の話ってどこで聞いたんですか? 金木犀ってネットで検索しても出てこないのに」
「禊を課せられたあやかしなら、一度は耳にする話だと思います。何でも、やばいあやかしがやっているカフェがあるって」
「や、やばい……ですか?」
「困ったら金木犀を頼れっていうくらいですからね。ただ、そこにいるのは大あやかしの酒呑童子だから覚悟はしろって。そう聞くと。なかなか勇気が出なかったんですけど……」
「やっぱり、酒呑童子って大物なんですか?」
「はい。大物ですよ」
「……そうなんだ」
「大酒飲みで、気性が荒くて。問題ばかり起こすあやかしで手をつけらないといういい伝えが残っていますからね。禊を課してもすぐ破るという話は有名です」
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「でも、今の天童さんはそんな様子ありませんけどね」
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