世界でひとつ、君の歌声〜命を諦めた彼と、夢を賭けた私の再生譚〜

山口三

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 最初に聞こえたのは、ガラスが割れる音だった。誰の肘が触れたのかは、もう分からない。

 次に、鈍い衝撃。押し返したはずの身体が、想定よりも軽く、そして——不自然な角度で、崩れた。

 骨に響く、嫌な感触。

 山崎は、自分が何をしたのかを理解するより先に、地面の冷たさを感じていた。

 ——違う。

 反射的に浮かんだ言葉を、心の中で打ち消す。やりすぎた、のではない。
 止めた――その先を、読めなかった。

 視界の端で研次が倒れている。勢いのまま、縁石に身体を打ちつけたようだった。ピクリとも動かないが、呼吸があるのかどうか、暗がりでは判別がつかない。

 少し離れた場所で、悦子が呻いた。もつれた足のまま転び、舗道へ叩きつけた手が小刻みに震えている。

 ——立て。

 ——動け。

 そう思ったが、声にはならなかった。

 街灯の光が赤く滲んで見えた。血なのか視界の揺れなのか、判断がつかない。

 通行人の悲鳴。誰かが携帯を取り出す気配がした。

 山崎は立ち上がり、息を整えようとしたが、うまくいかなかった。
 胸の奥が、妙に静かだった。

 ——守った。

 その言葉が、遅れて浮かぶ。

 誰を、とは考えなかった。考えれば、線が一本につながってしまう。まだだ。ここで理解してしまえば、立っていられなくなる。

 遠くでサイレンの音がした。

 この国には、もういられない。それだけは、即座に判断できた。

 山崎は踵を返し、闇の中へと急いだ。

 決して振り返ることなく。

 そして——その背中を、暗がりの向こうから見ている男がいた。

 物陰に身を寄せ、息を潜めていた。倒れた研次と、うずくまる悦子。そして、去っていく山崎。

 男は、ゆっくりと口角を上げた。

 ——そうか。
 ——ここで、終わらせたつもりか。

 足音が遠ざかるのを待ってから、男は研次に近付いた。

 研次を見下ろすその目には、恐怖も焦りもなく、ただ——長い間、胸の奥で燻っていた感情だけがあった。——あいつが、山崎が邪魔だった。




 救急外来は、夜中でも騒がしかった。

 消毒液の匂いと、機械音。慌ただしく行き交う看護師たちの足音に混じって、低い声で指示が飛ぶ。

 刑事の真鍋は、廊下の壁際に立ち、腕時計に視線を落とした。搬送からもう二十分以上が経っている。

「……上田研次さん、ですね」

 医師が近づき、低い声で告げた。

「到着時は意識不明でしたが、心肺停止ではありませんでした」

 真鍋は、わずかに眉を動かす。

「ただし、外傷が思ったより深く……転倒だけでは説明しづらい圧痕があります」

 医師は一拍置いた。「途中で急変しました。蘇生を試みましたが……」

 真鍋の脳裏を、現場で感じた“もう一人分の気配”がよぎった。その先は、聞くまでもなかった。

「死亡確認は?」

「はい。先ほど」

 真鍋は小さく息を吐いた。事件になる。

 少し離れた処置室の前では、もう一人の被害者が治療を受けている。

「上田……悦子さんの方は?」

「意識障害が強く、脳へのダメージも大きいですね。命は取り留めていますが……」

 医師は言葉を選び、首を振った。

「回復の見込みは、現時点では何とも」

 真鍋はメモ帳を閉じた。通報は通行人からだった。口論、もみ合い、転倒。

 だが——傷の状態に違和感が残る。

 凶器は見つかっていない。防犯カメラも、決定的な角度は捉えられていなかった。

 ——複数の手が、介在している可能性。真鍋はそう直感した。




 病院から数キロ離れた場所に、その事務所はあった。

 看板は出ていない。表向きは、古い倉庫を改装した運送会社だ。深夜だというのに、建物の奥の一室だけに灯りが灯っていた。

 畳敷きの部屋の中央に、低い卓。上座には、白髪交じりの男がどっしりと座っている。

「……で、山崎は?」低く、重い声だった。

「まだ捕まってません。今は潜らせてます」

 答えた若い衆は、わずかに背筋を伸ばした。

「そうか」

 男――組の幹部は、ゆっくりと茶を口に運んだ。

「相手は?」

「男が一人死亡。女が意識不明です」

 室内の空気が、わずかに沈む。幹部は眉ひとつ動かさなかった。

「山崎が、無駄な真似をする男か?」

「いいえ。むしろ逆です。必要と判断したことしかやらない奴で」

 その言葉に、幹部は小さく笑った。

「だから気に入ってる」

 卓の縁を、指先で軽く叩く。

「頭が切れる。感情で動かない。仕事も早い……それに、あいつは“後始末”ができる」

 若い衆は、何も言わない。

「今回も、そういうことだろう」幹部は立ち上がり、窓の外を見た。

「守るものがあった。それだけの話だ」

 沈黙のあと、幹部は振り返る。

「表沙汰にはさせるな」

「はい」

「山崎は?」

「国外に出します。ルートは確保済みです」

「中国だな」

 断定だった。

「しばらくは向こうで仕事をさせろ。——戻ってきたら、肩書きを一つ上げる」

 若い衆が目を見張る。「上位幹部、ですか?」

 幹部は、静かに言った。

「あいつは“使える”男だ。その代わり、もう戻れない場所が増えただけだがな」

 その言葉は、評価であり、宣告でもあった。





 その話を、面白く思わない男がいた。

 山崎より少し年上。現場も金も、人も動かしてきた。だが、決定的に“上”からの覚えが悪い。

 ——なぜ、山崎なんだ。

 男は、事務所の廊下でその報告を聞いたとき、無言で笑った。

「中国行き、か」声だけは穏やかだった。

「ええ。幹部の判断です」

「そうか……それは、大変だ」同情するような口調。だが、胸の内では違った。

 ——これで、邪魔者はいなくなる。

「じゃあ、手配は俺が手伝ってやる」自分から申し出た。

 若い衆は少し迷ったが、首を縦に振った。「助かります」

 ——当然だ。誰も、裏を疑わない。これは“山崎のため”なのだから。

 男は山崎と向き合ったときも、同じ顔をしていた。

「災難だったな。でも、ここにいればもっと厄介になるぞ」

「……ああ」山崎は短く答えた。

「中国なら、仕事はいくらでもある。向こうの幹部も、お前の腕を評価してるんだ」

 それは、嘘ではなかった。

「しばらく骨休みしてきたらいいさ」

 その言葉に、山崎は小さく息を吐いた。

「骨を休める、か」

 どこか皮肉を含んだ笑いだった。男は、その表情を見て確信した——こいつは、何も疑わない。

 準備は、驚くほど早く整った。偽名の書類、現地の連絡先、車、深夜の便。
 すべて“完璧”だった。完璧すぎるほどに。

 出発前夜、男は一人、酒を飲んだ。

 ——あの夜、あいつは“終わった”と思っただろう。
だが、俺は終わらせてやっただけだ。

「これで、道は空く」誰に言うでもなく、呟く。

 山崎は、生き延びれば儲けもの。死ねばそれまで。どちらに転んでも、男に損はない。

 ——いや。ひとつだけ、確かな利益があった。

 山崎がいた席が、空く。




 搭乗口の前は、夜の割に明るかった。白い照明が、床の汚れまで容赦なく照らしている。

 山崎は、壁にもたれて立っていた。荷物は少ない。必要なものだけを選び、不要なものはすべて切り捨てた。

 ——これでいい。

 舞子の顔が浮かぶ。
 歌っているときの、あの無防備な横顔。無理をして笑うとき、ほんの一瞬だけ視線を逸らす癖。

 あいつは、気づいていない。そして、気づかなくていい。

 兄だと名乗れば、舞子は立ち止まる。自分の人生より、誰かの過去を背負おうとする。

 そんなことをさせるために、ここまで生き延びてきたわけじゃない。

 ——俺は、影でいい。人を殺した人間が、光に立つ資格はない。

 携帯を取り出し、画面を一度だけ開く。
 舞子の名前は、直接は登録していない。必要な情報は、別の場所にある。

 仕事の動き。公演の日程。体調の噂。

 十分すぎるほどだ。

 これから先、会うことはない。声をかけることも、名乗ることも。

 搭乗案内が流れた。

 山崎は背筋を伸ばし、列に加わった。
 
 ——行け。

 心の中で、短くつぶやく。

 舞子がどこまで行くのか、それを見届けるのが、俺の役目だ。
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