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森の怪異
しおりを挟む「此度の戦略は、水攻めだ。」
伊藤家の領地である薩摩の地図を前に、紅楊は切り出した。
「水攻め……ですか?」
重臣達は確かめるように言葉をくり返すとザワつき出した。
本来水攻めとは攻城する側、つまり司馬軍が行うものである。
堤防を築いて城を取り囲み、河川の水を引き入れて水没させる作戦なのだ。
堤防の規模にもよるが、人力も金も時間もかかる大掛かりなもの……当然、そんなことを悠長にやっている時間などない。
「小娘。嵐により溜まった水をここから流すことは可能か?」
そう言って紅楊が指さした地図の部分は、堤《つつみ》だった。
堤とは土木技術によって作られた貯水池のことである。
山の中腹にある大きなため池で、幾つもの水門を設けて適量な水流になるように制御していた。
毎年鉄砲水が起こっては辺り一面水浸しになっていた薩摩の地を守ってくれている大切なものだ。
紅楊の狙いが分かった……人為的に洪水を起こさせるつもりだ。
「支流からの流れを調節する水門が七個ありますので、それを全て全開にして、堤から流れ出る大水門を閉めれば可能かと思います。でも、どれほどの水流になるかはやってみないと……」
「洪水が起こったと思わせる程度で良い。明朝、東から押し寄せる水に虚をつかれた司馬軍は西へと逃げるであろう。そこを横から突く。」
地形から読み解くに、堤から溢れた水は渓谷を流れて城を囲む司馬軍へと一直線に向かうだろうと紅楊は説明した。
一丸の城は洪水が起きても浸水しないように小高い丘の上に建てられた城だから大丈夫……
「司馬軍の行先に広がる荒野は元は沼地で水はけが悪い。ひと度雨が降ればぬかるんで人も馬も足を取られるだろう。そこを崖の上に潜んだ我ら秋月軍が、弓の雨を降らせ撃滅《げきめつ》する。」
紅楊の頭の良さと閃きには関心するばかりだ。これなら上手くいくかも知れない。そう思ったのに……
「殿!くるかも分からない嵐に頼るのは危険過ぎます!」
「待機していることを勘づかれれば、逆に我らが攻め入れられるかも知れませぬ!」
「ここはやはり援軍が揃うのを待つべきです!」
ここの重臣達は年寄りが多いせいか、危険を恐れて安全牌《あんぜんぱい》を切ろうとする。
これではいくら名案でも進めることが出来ない。
耳障りな横槍にうんざりしていたら、紅楊が脇に差した刀を目にも止まらぬ速さで地図の真ん中へと突き立てた。
「黙れ。それ以上話せば脳天から肛門まで突き刺す。」
異論を受け付けないそのど迫力に、衣擦《きぬす》れの音さえしないほどに静まり返った。
「とはいえ小娘に案内人をやってもらわねばこの計画は実行出来ん。やるのかやらんのかはお前が決めろ。」
考えるまでもない、即答でやります!と言って立ち上がった。
では早速と意気込みながら部屋を出ようとしたら、待てと呼び止められた。
「誰か小娘の護衛役として付いて行ってやれ。」
「そのような者は必要ありません。」
あれだけ反論していたのだから誰も進んで手を上げるはずがない。
黙りの我慢比べなんかが始まったら時間の無駄だ。
「水門の開け閉めくらいなら一人で行けます。」
「馬鹿か。途中の道で山賊に出会ったらどうする?」
「ヤっつけます!」
「言うとは思ったが一人で行かせるわけにはいかん。」
いくいかんの押し問答をしばらく続けていると、襖が音もなくスっと開いた。
「どこに一人で行こうとしておるのじゃ?」
現れたのは墨染めの僧衣・直綴《じきとつ》をまとい、頭には竹を薄く削った網代笠《あじろがさ》を深く被った位の高そうな僧侶だった。
「照景か。よう戻った、ご苦労。」
……照景、なの?
お坊さん姿の照景……なんて神々しいっ!
戻るのは明日だと聞いていたのにもう帰って来たんだ。
嬉しくって抱きつく勢いで駆け寄ったのだが……
「阿古姫殿……大人しく待っておると言うたのはわしの聞き間違いだったか?」
あ、これ……微笑んではいるけれど全然違うぞ。体中から穏やかではない空気が漂っている……
そういえば紅楊から怒らすなよと忠告を受けていたっけ。
どうしよう……背中からダラダラと汗が流れてきた。
紅楊が経緯を手短に説明すると、照景はハアとため息を漏らした。
「なるほどな……そういうことならばわしが付き添う。」
やっと長旅から帰ってこれたのに、休む間もなく嵐の中での山登りか……
照景には凄く申し訳ないけれど、これほど心強い用心棒はいない。
紅楊は二日後に出陣予定だった兵を緊急招集し、三千の兵とともに司馬軍の横腹を突ける崖の上へと移動を開始した。
一方私と照景は堤へと、肥後にも付いて行った三人の家臣とともに向かった。
この者達は三兄弟で名を一郎・二郎・三郎といい、長旅で疲れているだろうに嫌な顔一つせずに引き受けてくれた。
行けるところまでは馬を走らせ、伊藤家の領地に入ると徒歩へと切り替えた。
途中降り出した雨は激しさを増してきて、特に風は簑《みの》と笠《かさ》が持っていかれそうになるほどに吹き荒れていた。
「戻るのは明日だと聞いていたのですが、随分と早いお帰りでしたね。」
隣を歩く照景に話しかけたのだが、ああとだけ素っ気ない返事が返ってきた。
大人しく待てなかったことをまだ怒っているのだろうか。
あれだけ念押しされた約束を破ったのだから当然か……
落ち込む私に気付いた三兄弟が、耳打ちするかのように話しかけてきた。
「照景様は肥後ではずっと、阿古姫様が寂しがってはいないかと気に病んでおられました。」
「早く会いたいとおっしゃるので、それならばと帰りは早駕籠《はやかご》に乗ったわけです。」
「途中の宿場町で阿古姫様にお土産を買いたいと言われた時はたまげました。正体を勘づかれますとお止めしましたが……」
「お前らはなにを余計なことをっ……!」
えっ……照景が?
見ると照景の頬が真っ赤になっていた。
怒っているのだとばかり思っていたけれど……
「わしの帰りを待たずに阿古姫殿は出ようとしていたのだ。そりゃ、イジけたくもなる。」
……まさかイジけていただけだなんて……
照景ってちょいちょい可愛い。そんな子供っぽいところにも胸がキュンてしてしまう。
早く会いたいと願う気持ちは同じだったんだ……
照景の着物の裾を引っ張り小声で伝えた。
「……お帰りなさい、照景殿。」
なんだかすっごく照れる。
照景も照れながら“ただいま”と返してくれた。
いつもの笑顔にホッとした次の瞬間、ガバっと抱き締められて茂みへと押し込まれた。
「ちょっ……照景殿!大胆すぎますっ!」
「静かに阿古姫殿。誰かおる。」
三兄弟も近くの茂みへと身を隠すと、鉄臭い匂いが鼻をかすめた。
暗闇から山賊が一人、フラフラとしながら現れた。
仲間とはぐれて道に迷っているのだろうか……こちらには気付く様子はなく、私達の前を素通りして向こうの暗闇へと去っていった。
「仲間も近くに居るやもしれぬ。早急にこの場を通り過ぎよう。」
今の人……血の匂いがしていた。きっと大怪我だ。
仲間割れでもしたのか崖からでも落ちたのか……
罪のない人を何人も襲っていたような連中だ。自業自得だろう。
予想以上の暴風雨に苦戦しつつも、七個ある水門を順番に開けていった。
水門は木製で出来ており、それぞれの支流が堤に合流する地点に設置されている。
木製の板を上下に動かすことで水流の調節が行えるのだ。
堤へと流れる水量は勢いを増し、排出が追いつかずに既に飽和状態となっていた。
後は大水門を閉めれば行き場を失った水は溢れ出すだろう……
堤の水が戦の役に立つとは思ってもみなかった。
このまま順調にいけば夜明けまでには間に合うだろう。
最後の目的地へと足早に進んでいると、どこからかむせかえるような血の匂いが漂ってきた。
これは……一人や二人の量じゃない………
私の異変に気付いた照景がどうした?と心配そうに覗き込んできた。
「大量の血の匂いか……それは見過ごせぬな。」
三兄弟に辺りを捜査させると、しばらくして三郎が悲鳴を上げた。
行って見ると、森の中で山賊の集団が皆殺しにされている光景が飛び込んできた。
一面血の海で何人殺されているのかも分からないくらいに遺体がぐちゃぐちゃにされていた。
「阿古姫殿は見るでない。」
惨劇から庇うように照景が胸で顔を隠してくれた。
血の匂いが濃すぎて頭が変になりそうだ。
一体誰がこんな酷いことを………まるで地獄絵図だ。
照景がなにかに気付くと、低く抑えた声で三兄弟に警告した。
「みな騒ぐな。ゆっくりと後ろに下がれ。」
少し離れたところからぴちゃぴちゃという不気味な音がする……
照景の腕越しに見えたソレは、岩のような巨体で死体に口を突っ込み、むさぼるようにして食っていた。
全身黒褐色で胸部には三日月形の紋様─────……
──────────ツキノワグマだ………
この時期の熊は冬眠のための十分な脂肪を蓄えなければならず、エサを求めて活発に動き回る。主なエサはクリやブナなどの果実だ。
でもそれらが不作の年だと、人里まで下りてきて稀に人を襲うことがある。
一度人の味を覚えた熊は、その後も幾度となく人を食らう……
食事中の熊に悟られないように、極力気配を消しながら後退りをした。
「……たす……助けてくれえっ……!」
まだ生き残っていた山賊が一郎の足にしがみついた。
物音を聞き付けた熊が、食べるのを止めてゆっくりとこちらに顔を向けた。
口の周りを血でべったりと染まらせ、新たな獲物を見つけた目はギラつき、牙を好戦的に剥き出しにした。
体を反転させると、助走もなしに一郎目掛けて突進してきた。
巨大な体からは想像出来ないほどの速さだ。
三郎が矢を放ったが、分厚い皮膚に全て弾かれてしまった。
一郎はしがみつく山賊を振り払うのに手間取り、熊の攻撃を避けきれずに爪で皮膚を切り裂かれてしまった。
刀を抜いて猛然と走り出していた照景は、熊が振り下ろした腕に片足を乗せるとそれを踏み台にして高く飛び上がり、熊の右目を突いた。
熊が怯んだ隙に二郎が怪我をした一郎を安全な場所へと素早く運ぶ……
山賊は熊に踏みつけられて絶命していた。
私は……その場から動けずに呆然とするしかなかった……
今目の前に起きていることなのにまるで現実身がなかった。
熊は目から血を垂れ流しながらも大きく唸ると、照景を威嚇するようにして立ち上った。
デカい………7尺(2m以上)はあるんじゃないだろうか。
こんなの……どうやって倒せっていうの………
「二郎は一郎を連れて山を下りろ。三郎は阿古姫殿と先に水門に行け。」
それって……照景一人であの熊の相手をするってこと?
熊は異様な臭気を放ちながら刀を構える照景を見下ろしていた。
「嫌ですっ……ともに戦います!」
「駄目じゃ!夜明けまでもう時間が無いっ。」
山賊相手とはわけが違う……
あんな凶暴で巨大な熊を刀だけで倒すだなんていくらなんでも無謀すぎるっ!
このまま二度と会えなくなったら……
そう考えるだけで恐怖で強ばる私を解すかのように、照景は柔らかな笑顔を見せた。
「必ず帰ると約束する。阿古と祝言を挙げたいからな。」
……照景……
いつしか雨は上がり、分厚い雲の切れ間からは朝日が差し込み、山の頂きを明るく照らし始めていた。
「早く行け!みなを救うのじゃ!!」
照景目掛けて振り下ろされる熊の爪に心臓が止まりそうになった。
照景はヒラリとそれをかわして刀を振り下ろすと、熊の手首から先がゴロンと土の上に落ちた。
見事な太刀筋で骨をも一刀両断にしたのだ。
腕を切り落とされた熊は怯むどころか怒り狂い、おぞましいほどの唸り声を上げて照景を睨みつけた。
「阿古姫様、照景様なら大丈夫です。早く参りましょう。」
三郎に押されるようにしてその場を去り、大水門を目指して森の中をかけ抜けた。
水門を閉めたら直ぐに照景の元へと戻ろう……
そう思って懸命に走っていたのに、ようやく大水門が見えてきたところで異変に気付き、愕然とした。
「……なに、これ……」
堤を囲む堤防の一部に亀裂が入り、今にも決壊しそうな状態だったのだ。
堤防は中に木で骨組みを作り、土を山型に盛って踏み固めたものだ。滅多な雨にも壊れないように頑丈な作りにしてあるはずなのにっ……
「阿古姫様っ!早く大水門の扉を閉めましょう!」
「駄目!そんなことをしたら水圧が増して堤防がもたない!!」
ここが決壊したら一丸の城に流れていかないどころか、熊と死闘を繰り広げている照景の元へと行ってしまう。
こんな水の量が一気に流れたら、照景とて一溜りもないっ……
両手で土を掴んで亀裂にねじ込んだ。
三郎と必死に塞ぐも、新しい亀裂が次から次へと広がっていくだけだった。
駄目だ…このままじゃ………
私は照景の笑った顔が好きだ。
胸にストンと落ちてくる、あの笑顔が大好きなんだ。
その照景の優し気な笑顔が、水とともに消えていった。
そんなっ───────……
────────そんなことはさせないっ!!
「三郎はこのまま亀裂を修復しといて。」
「阿古姫様はっ……どこに行かれるのですか?」
「一丸の城側の堤防を壊しに行く。」
「へっ?壊すって………ちょ、阿古姫様?!」
三郎を残して大水門へと走った。
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