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1 序
──くる!
それは確かな予感。
その午後も、レーゼは一人でベンチに座っていた。
秋の陽が優しく降り注いでいる、古びた塔のささやかな前庭。
目の前には畑や、井戸、鳥小屋などがあるが、明暗しか感じられないレーゼの目には、形あるものはぼんやりとしか映らない。
でも、もう長いことここで暮らしているから生活は普通にできる。レーゼは感覚も鋭敏だし、自分でも説明できない不思議な力もある。
今日の空は暗く、フードを揺らす風は少し重い。
雨になるのだわ。
でも降るのは、多分午後。
感覚は鋭くても、その意味までは伝わらない。わからなくていいと思っていた。
しかし、その時の彼女には、はっきりとわかったのだ。
自分のやるべきことが。
──くる! 行かなくちゃ!
レーゼは、ぱっと立ち上がった。
見えるのだ。
静かに。でも、すごい勢いで、レーゼのところへ向かっている。
両側から覆いかぶさる黒い壁、恐ろしい勢いで遠ざかっていく空、やがて来る衝撃と押し包んでくる重く冷たい水。
それは間違いなく落下の感覚だった。
「……っ!」
レーゼはぶるりと体を震わせる。
青く澄んだ水は体を飲み込み、明るさはどんどん遠ざかる。背中を下にして沈んでいくのだ。
苦しくて必死でもがく手が宙を掻く。無数の泡が立ちのぼる。
やがて暗転。
それは気を失ったのだ。
ああ、こちらに流れてくる。
ひどく冷たい。
冷たくて、悲しい何かがこちらに向かってくる。
再びレーゼは目を閉じ、視力の代わりに発達した五感の糸を、張り巡らした。
幼い頃、魔女に全てを奪われてから、この感覚だけがレーゼのたった一つの武器であり、生きる縁だった。
下だ。
この塔の地下。深い。
人だとだけわかる。
冷たくて、悲しくて、そして──。
「とても熱い」
レーゼは喉の奥でつぶやき、向こうに見える塔屋へと駆け出す。
それを待っていたように、空は急に光を失い、崩れかけた塔の先端に触れそうなほど低くなった。蔦に絡まれた崩れ掛けの古い塔が、この八年間レーゼを隠し守ってくれた彼女の住処だった。
「急が、なくちゃ」
レーゼは走った。
彼女は知っている。
この優しく静かな牢獄から解き放たれる日は、おそらく来ないことを。
放たれる時があるとすれば、おそらく死の瞬間だろう。
それがいいのか、悪いのか、わからない。生きている間に解放されることを、自分が望んでいるのかすらもわからない。
──だけど!
私は、それを見なくてはならない。
触れなくてはならない。
伝えなくてはならない。
そして、わからなければならない。
もうすぐ雨が降る。この地方の秋は雨の日が続くのだ。
ひゅう、と湿った風が通り抜け、レーゼの粗末なマントを吹き上げる。深く被ったフードが外れた。
現れた頭部は鼻の上まで包帯に覆われ、着込んでいるのはざっくりとした粗末な衣服。服からはみ出たか細い手足もまた、布で巻かれている。
醜く、異様な風体。
けれど唇だけは、ぽつんと紅い。
その唇がうっすらと弧を描いた。
あなた、来たのね。
待っていて。
私、すぐに行くわ!
それは確かな予感。
その午後も、レーゼは一人でベンチに座っていた。
秋の陽が優しく降り注いでいる、古びた塔のささやかな前庭。
目の前には畑や、井戸、鳥小屋などがあるが、明暗しか感じられないレーゼの目には、形あるものはぼんやりとしか映らない。
でも、もう長いことここで暮らしているから生活は普通にできる。レーゼは感覚も鋭敏だし、自分でも説明できない不思議な力もある。
今日の空は暗く、フードを揺らす風は少し重い。
雨になるのだわ。
でも降るのは、多分午後。
感覚は鋭くても、その意味までは伝わらない。わからなくていいと思っていた。
しかし、その時の彼女には、はっきりとわかったのだ。
自分のやるべきことが。
──くる! 行かなくちゃ!
レーゼは、ぱっと立ち上がった。
見えるのだ。
静かに。でも、すごい勢いで、レーゼのところへ向かっている。
両側から覆いかぶさる黒い壁、恐ろしい勢いで遠ざかっていく空、やがて来る衝撃と押し包んでくる重く冷たい水。
それは間違いなく落下の感覚だった。
「……っ!」
レーゼはぶるりと体を震わせる。
青く澄んだ水は体を飲み込み、明るさはどんどん遠ざかる。背中を下にして沈んでいくのだ。
苦しくて必死でもがく手が宙を掻く。無数の泡が立ちのぼる。
やがて暗転。
それは気を失ったのだ。
ああ、こちらに流れてくる。
ひどく冷たい。
冷たくて、悲しい何かがこちらに向かってくる。
再びレーゼは目を閉じ、視力の代わりに発達した五感の糸を、張り巡らした。
幼い頃、魔女に全てを奪われてから、この感覚だけがレーゼのたった一つの武器であり、生きる縁だった。
下だ。
この塔の地下。深い。
人だとだけわかる。
冷たくて、悲しくて、そして──。
「とても熱い」
レーゼは喉の奥でつぶやき、向こうに見える塔屋へと駆け出す。
それを待っていたように、空は急に光を失い、崩れかけた塔の先端に触れそうなほど低くなった。蔦に絡まれた崩れ掛けの古い塔が、この八年間レーゼを隠し守ってくれた彼女の住処だった。
「急が、なくちゃ」
レーゼは走った。
彼女は知っている。
この優しく静かな牢獄から解き放たれる日は、おそらく来ないことを。
放たれる時があるとすれば、おそらく死の瞬間だろう。
それがいいのか、悪いのか、わからない。生きている間に解放されることを、自分が望んでいるのかすらもわからない。
──だけど!
私は、それを見なくてはならない。
触れなくてはならない。
伝えなくてはならない。
そして、わからなければならない。
もうすぐ雨が降る。この地方の秋は雨の日が続くのだ。
ひゅう、と湿った風が通り抜け、レーゼの粗末なマントを吹き上げる。深く被ったフードが外れた。
現れた頭部は鼻の上まで包帯に覆われ、着込んでいるのはざっくりとした粗末な衣服。服からはみ出たか細い手足もまた、布で巻かれている。
醜く、異様な風体。
けれど唇だけは、ぽつんと紅い。
その唇がうっすらと弧を描いた。
あなた、来たのね。
待っていて。
私、すぐに行くわ!
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