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13 愛しき日々 春 3
ルビアが帰ってきた夜、二人はこれからのことを打ち明けた。
「そうですか。ナギ一人なら出られそうなのですか」
「ええ。私が試してみても、まだ無理そうだった」
レーゼは、考え込みながらいった。
「……というか、もしかしたら、私がナギを閉じ込めていたのかもしれない」
「どういうことです?」
「私はずっと誰かを待っていた気がする。だからナギが来た時すぐにわかった。私は嬉しくて、放したくなかったのよ。だから、結界は私の意志を感じ取ったのかもしれないって」
「いくらご先祖様が作った結界でも、そんなことまでできるものでしょうか?」
ルビアは疑わしそうに言った。
「わからないわ。でも、冬中考えて、この塔の周りの世界だけじゃあ、ナギには狭いって思いはじめたの。結界の緩みが進んだのも、そんなことも関係してるのかもしれない」
「……」
「そして今は信じられる。ナギならきっと、ゾルーディアを滅ぼして私を助けてくれるって」
レーゼはナギを見上げ、ナギは包帯の下の少女の瞳を強く意識した。
「そうだ。結界はきっとあと少しで破れる。そしたら俺はすぐにでもここを発つ。一刻も早くレーゼを助けたい」
「わかりました。私はレーゼさまの元を離れられないから……ナギ、あんたに希望を託すわ。使えるものなら<シグル>だってなんでもいい、どうかあの憎らしい魔女を滅ぼして」
ルビアも心を決めた様子で言った。もはや、レーゼの母と言ってもいい彼女も、レーゼの運命についてずっと憂えてきたのだった。
「レーゼ、俺の額には入れ墨がある」
ナギは伸びてきた前髪を上げた。
「知ってる。最初にナギを見た時に気がついたもの」
「知ってる?」
「見えないけどわかったの。形はわからないけど、ナギの体でそこだけ、とても冷たい」
「ここには古代文字で数字が刻まれている。シグルとしての俺の番号、九十六が」
レーゼはその部分に指先で触れた。それはごく小さいのに、彫った者の悪意が込められているような気がする。
「やっぱり冷たいね」
「レーゼ、頼みがある」
そう言ってナギはいつも使っている小さな刀子をレーゼに渡した。
「な、なに?」
「この刺青を抉り取ってくれ」
「ええっ! そんな、無理よ。私位置がわかるだけで見えないのに!」
レーゼは驚いて首をぶんぶん振った。
「それでいい。もう俺はシグルじゃないんだ。だから、レーゼの手で。レーゼに削ってほしい」
「ルビアに」
「ルビアじゃだめなんだ」
「レーゼ様。ナギは名前をくれたレーゼ様に、過去を切り取ってほしいのですよ。大丈夫、私がお教えしますから。ナギ、それを貸して」
ルビアは、沸かした湯に刀子の刃を浸し、その間に薬や布を用意する。レーゼはまだ決心がつかず、うつむいたままだ。
「でも……きっと痛いわ。不器用だから、ナギを傷つけてしまう。たくさん血が出る」
「痛みなんて慣れてる。もっと酷い怪我を追ったことだってあるし、ろくな手当もされなかった。さぁ」
ナギはそう言ってレーゼに刀子を握らせた。
「……どうしても?」
「ああ。レーゼはよく言うだろ? 私を信じてって。俺はレーゼを信じてる。レーゼは俺を信じられるか?」
「うん」
レーゼはしっかりと頷いた。
「決まりだ。位置はわかるな」
「わかる。はっきり」
「よし。思い切ってやってくれ」
ナギはベンチに身を横たえた。レーゼはしばらく考えていたが、やがて、確かめるように指先で額を探り、息を詰めた。
「レーゼ。怖がらなくていい」
「わかった」
レーゼは包帯の下で目を閉じた。五感を澄ますと、そこだけ黒く浮かび上がる染みがはっきりと見える。
「そこです。あまり力まずに、刃先を滑らせて」
ルビアのいう通り、レーゼは刃を皮膚に食い込ませる。その感触は刃物を持ったことのない少女をぞっとさせた。
「大丈夫だ、レーゼ」
ナギが声を掛ける。レーゼはできるだけ傷が大きくならないように、皮膚の表層を切り取り、流れる血はルビアが布で受けた。
刃物を持ったことのないレーゼの指先はおぼつかない。熱いナギの血がレーゼの指先を濡らし、立ち上る鉄の香りに震えてしまう。
「あ!」
刀子の先が突いたレーゼの指先から、血の玉が滲み出した。
それは細い指先を伝い、ナギの傷にぽたぽたと落ちる。二人の赤い血が混じり合った。
「ど、どう? 痛い? ごめんね」
「大丈夫だ。レーゼは大丈夫か? 今、怪我をしたんじゃないのか?」
「うん、刃の先でちょっと突いたけど、全然大したことない。ナギの方こそやせ我慢してるんじゃない?」
「痛くない。むしろ何だかいい気持ちだ」
ナギの言葉に力を得て、レーゼは黒い染みを感じなくなるまで、刀子を使った。
「もう冷たくて黒いものはないわ」
レーゼはホッとして刀子を脇に置く。ルビアが消毒液を浸した布でナギの額を抑えた。
「待っててね! 私に考えがあるの!」
「……」
ナギが目を閉じる。
──不思議だ。
最初は確かに少し痛かったのに……今はちっとも痛くない。
何か不思議な感覚……力が漲るというのか。
レーゼは塔屋の二階にある自分の部屋へと駆け込んだ。
わずかな物しか入っていない私物箱の底から、レーゼは小さな袋を取り出す。それには王家の紋章が刺繍されていた。
「ごめんね! ナギ、遅くなった!」
「平気だ。レーゼこそ大丈夫か?」
落ち着いた声が返ってきてレーゼは安心する。
「ナギ。これを見て」
レーゼは袋から小さな石を取り出した。そこには青く輝く双晶の宝石があった。ナギの瞳よりも薄く、レーゼの元の瞳より深い。
心臓の形にも見えるそれは、不思議な輝きが力となって渦巻いているようだ。
「これ、私の五歳の誕生日にお母さまがくれたの。私の守り石だって。でも、そのすぐあと魔女がやってきて、全部なくしたけど、私とこの石は残った。だからきっとこれはナギを守ってくれる。ルビア、これ二つに割れる?」
レーゼは美しい青石をルビアに渡した。
「お母さまから頂いた宝石を割るのですか?」
「いいのよ。私が傷を押さえるわ」
「……」
ルビアはもう何も言わずに、石を布を敷いた台の上に置くと、道具箱から小さな鑿と槌を持ち出し、宝石の根本に突き立てて打った。双晶の石は、きれいな断面を見せて二つに割れる。
「一つちょうだい」
レーゼはルビアに言って額の布を取った。傷口には軟膏が塗り付けられているが、まだ血は止まっていない。
「レーゼ? どうした?」
ナギが不思議そうにしている。
「今からこの石をあなたの額に埋めるの」
「ええ? レーゼ、それはだめだ。それはレーゼを守るものだろ」
「私のことはナギが守ってくれるからいいの」
そう言って、レーゼは生々しい傷跡に宝石をあてがった。傷口に宝石がぴたりとはまる。まるであつらえたように。
「痛くない?」
「いや」
「今、布で縛るわ。薬も塗ってあるからしばらく取ってはだめよ」
「ああ」
「これで、ナギは全部ナギになった」
「そうだ、レーゼのナギだ」
ナギは何事もなかったように起き上がった。
「そしてここが俺の……家? そう……家だ」
家という概念の薄いナギだが、それでも言葉としては知っている。<シグル>では他の人間と交わる時のために、必要な知識を最低限教えられたからだ。
ただし、自分達とは縁のない「知識」としてだが。
「だから俺の帰る場所はここだ。レーゼのいる場所だ」
「買ってきたなめし革で額当てを作るよ。防具にもなる丈夫なものを」
ルビアが額の汗を拭った。さすがの彼女も緊張したらしい。やれやれというように、荷物を解きに向かう。
「俺も手伝ってくるよ」
ナギは傷のことなど忘れたように、元気よくルビアの後を追った。
その背中を見てレーゼは思う。
ナギはもうすぐここを出ていく。
そしてその先は……ああ、私にはもう見えないわ。
でも、誓ったのだから。
レーゼはそっと自分の指に口づけた。先ほど刀子で傷つけた場所だ。ぴりりとした痛みが走る。
私だって、耐えられるわ。
耐えて待って、帰ってきたナギを迎えるの。
翌日から、ナギの鍛錬はさらに苛烈なものとなった。
魔女を倒すために自分を鍛えるのはもちろんだが、結界の弱くなったところを突き崩すためでもある。
裸足で岩山を登り、枝から枝へと飛び、川を渡る。冬眠から目覚めた野生の獣を一人で倒し、強い弓で猛禽を射た。
シグルの印をレーゼに取り除いてもらい、青い石を額に冠してから身体能力が向上したように思う。どんどん力が湧いてくる。自分でも戸惑うくらいに。
だが、ナギは構わなかった。強くなれるならなんでもいい。自分の体のことなどどうでもいい。
レーゼを助けるためなら。
毎晩レーゼは傷だらけのナギの手当てをした。
「私のためにこんなに怪我して……私がナギを痛めつけてるんだね、ごめん……ごめんね」
レーゼは泣いてるようで、包帯が濡れていく。
「謝るな、レーゼ。俺ならなんともない。むしろ体の調子はいいんだ。どんどん力や技が習熟しているくらいだ」
「でも……いつも血の匂いがする」
「それは生まれつきだよ」
「ナギ!」
レーゼは細い腕を伸ばして、少年の頭を抱きしめた。
「ありがとう……」
ナギは大人しく抱かれながら甘い香りを吸い込む。
短い春は終わりかけていた。
そして、ある日──。
「レーゼ」
すっかり陽も落ちた頃、ぼろぼろに傷ついたナギが塔に帰ってきた。
「結界を破った」
「ナギ!」
崩れ落ちてしまったナギをレーゼが支えようと駆け寄るが、支えきれずに二人して草むらに倒れてしまう。
レーゼは伸しかかるナギの重みを感じた。体の重さと、心の重みを。
「レーゼ様!」
ルビアがすぐに二人を助け起こす。
「ナギ! なんて無茶をするの! この数日間、一度も帰ってこないで!」
「ごめ……」
「ルビア。いいの、許してあげて、私はわかってたの! わかってて言わなかったの!」
「レーゼ……俺は」
疲れ切ったナギがレーゼの上で眠りかけていた。
その心地よい重みを身体中で受け止めながら、レーゼもまた目を閉じる。ナギの頭を抱きしめながら。
「ナギ、決して無理はしないで。私にはわかるの。この痣が私を取り込むまで、まだだいぶ時間がある。ゾルーディアは時々私を覗いて確かめているのよ。だから決して、無茶はしないで」
翌朝。
朝靄の中、ナギは旅立つために、塔屋の外へ出た。穏やかな春の朝だが、空気はまだひんやりと冷たかった。
見送りはレーゼ一人だ。花の咲くつる草が絡まる塔屋の前に、心細そうに立っている。
「待っていて、レーゼ。必ず帰るよ」
「うん。待ってるから、ナギ。帰ってきてね」
まるでそれが自然なことのように、二人は口づけあう。
幼いふれあい。
レーゼもナギも、自覚はしていなかったが、それは確かに愛という名の絆だった。
***
旅立ち。この章終わりです。
さぁ、どんどん面白くなってきますよ!
ついてきてください!
双晶の宝石は水晶類(アメシストなど)に多いのですが、この物語は架空ですので、タンザナイトのような色の宝石をイメージしています。
TOPのイメージは多分アメジスト。
「そうですか。ナギ一人なら出られそうなのですか」
「ええ。私が試してみても、まだ無理そうだった」
レーゼは、考え込みながらいった。
「……というか、もしかしたら、私がナギを閉じ込めていたのかもしれない」
「どういうことです?」
「私はずっと誰かを待っていた気がする。だからナギが来た時すぐにわかった。私は嬉しくて、放したくなかったのよ。だから、結界は私の意志を感じ取ったのかもしれないって」
「いくらご先祖様が作った結界でも、そんなことまでできるものでしょうか?」
ルビアは疑わしそうに言った。
「わからないわ。でも、冬中考えて、この塔の周りの世界だけじゃあ、ナギには狭いって思いはじめたの。結界の緩みが進んだのも、そんなことも関係してるのかもしれない」
「……」
「そして今は信じられる。ナギならきっと、ゾルーディアを滅ぼして私を助けてくれるって」
レーゼはナギを見上げ、ナギは包帯の下の少女の瞳を強く意識した。
「そうだ。結界はきっとあと少しで破れる。そしたら俺はすぐにでもここを発つ。一刻も早くレーゼを助けたい」
「わかりました。私はレーゼさまの元を離れられないから……ナギ、あんたに希望を託すわ。使えるものなら<シグル>だってなんでもいい、どうかあの憎らしい魔女を滅ぼして」
ルビアも心を決めた様子で言った。もはや、レーゼの母と言ってもいい彼女も、レーゼの運命についてずっと憂えてきたのだった。
「レーゼ、俺の額には入れ墨がある」
ナギは伸びてきた前髪を上げた。
「知ってる。最初にナギを見た時に気がついたもの」
「知ってる?」
「見えないけどわかったの。形はわからないけど、ナギの体でそこだけ、とても冷たい」
「ここには古代文字で数字が刻まれている。シグルとしての俺の番号、九十六が」
レーゼはその部分に指先で触れた。それはごく小さいのに、彫った者の悪意が込められているような気がする。
「やっぱり冷たいね」
「レーゼ、頼みがある」
そう言ってナギはいつも使っている小さな刀子をレーゼに渡した。
「な、なに?」
「この刺青を抉り取ってくれ」
「ええっ! そんな、無理よ。私位置がわかるだけで見えないのに!」
レーゼは驚いて首をぶんぶん振った。
「それでいい。もう俺はシグルじゃないんだ。だから、レーゼの手で。レーゼに削ってほしい」
「ルビアに」
「ルビアじゃだめなんだ」
「レーゼ様。ナギは名前をくれたレーゼ様に、過去を切り取ってほしいのですよ。大丈夫、私がお教えしますから。ナギ、それを貸して」
ルビアは、沸かした湯に刀子の刃を浸し、その間に薬や布を用意する。レーゼはまだ決心がつかず、うつむいたままだ。
「でも……きっと痛いわ。不器用だから、ナギを傷つけてしまう。たくさん血が出る」
「痛みなんて慣れてる。もっと酷い怪我を追ったことだってあるし、ろくな手当もされなかった。さぁ」
ナギはそう言ってレーゼに刀子を握らせた。
「……どうしても?」
「ああ。レーゼはよく言うだろ? 私を信じてって。俺はレーゼを信じてる。レーゼは俺を信じられるか?」
「うん」
レーゼはしっかりと頷いた。
「決まりだ。位置はわかるな」
「わかる。はっきり」
「よし。思い切ってやってくれ」
ナギはベンチに身を横たえた。レーゼはしばらく考えていたが、やがて、確かめるように指先で額を探り、息を詰めた。
「レーゼ。怖がらなくていい」
「わかった」
レーゼは包帯の下で目を閉じた。五感を澄ますと、そこだけ黒く浮かび上がる染みがはっきりと見える。
「そこです。あまり力まずに、刃先を滑らせて」
ルビアのいう通り、レーゼは刃を皮膚に食い込ませる。その感触は刃物を持ったことのない少女をぞっとさせた。
「大丈夫だ、レーゼ」
ナギが声を掛ける。レーゼはできるだけ傷が大きくならないように、皮膚の表層を切り取り、流れる血はルビアが布で受けた。
刃物を持ったことのないレーゼの指先はおぼつかない。熱いナギの血がレーゼの指先を濡らし、立ち上る鉄の香りに震えてしまう。
「あ!」
刀子の先が突いたレーゼの指先から、血の玉が滲み出した。
それは細い指先を伝い、ナギの傷にぽたぽたと落ちる。二人の赤い血が混じり合った。
「ど、どう? 痛い? ごめんね」
「大丈夫だ。レーゼは大丈夫か? 今、怪我をしたんじゃないのか?」
「うん、刃の先でちょっと突いたけど、全然大したことない。ナギの方こそやせ我慢してるんじゃない?」
「痛くない。むしろ何だかいい気持ちだ」
ナギの言葉に力を得て、レーゼは黒い染みを感じなくなるまで、刀子を使った。
「もう冷たくて黒いものはないわ」
レーゼはホッとして刀子を脇に置く。ルビアが消毒液を浸した布でナギの額を抑えた。
「待っててね! 私に考えがあるの!」
「……」
ナギが目を閉じる。
──不思議だ。
最初は確かに少し痛かったのに……今はちっとも痛くない。
何か不思議な感覚……力が漲るというのか。
レーゼは塔屋の二階にある自分の部屋へと駆け込んだ。
わずかな物しか入っていない私物箱の底から、レーゼは小さな袋を取り出す。それには王家の紋章が刺繍されていた。
「ごめんね! ナギ、遅くなった!」
「平気だ。レーゼこそ大丈夫か?」
落ち着いた声が返ってきてレーゼは安心する。
「ナギ。これを見て」
レーゼは袋から小さな石を取り出した。そこには青く輝く双晶の宝石があった。ナギの瞳よりも薄く、レーゼの元の瞳より深い。
心臓の形にも見えるそれは、不思議な輝きが力となって渦巻いているようだ。
「これ、私の五歳の誕生日にお母さまがくれたの。私の守り石だって。でも、そのすぐあと魔女がやってきて、全部なくしたけど、私とこの石は残った。だからきっとこれはナギを守ってくれる。ルビア、これ二つに割れる?」
レーゼは美しい青石をルビアに渡した。
「お母さまから頂いた宝石を割るのですか?」
「いいのよ。私が傷を押さえるわ」
「……」
ルビアはもう何も言わずに、石を布を敷いた台の上に置くと、道具箱から小さな鑿と槌を持ち出し、宝石の根本に突き立てて打った。双晶の石は、きれいな断面を見せて二つに割れる。
「一つちょうだい」
レーゼはルビアに言って額の布を取った。傷口には軟膏が塗り付けられているが、まだ血は止まっていない。
「レーゼ? どうした?」
ナギが不思議そうにしている。
「今からこの石をあなたの額に埋めるの」
「ええ? レーゼ、それはだめだ。それはレーゼを守るものだろ」
「私のことはナギが守ってくれるからいいの」
そう言って、レーゼは生々しい傷跡に宝石をあてがった。傷口に宝石がぴたりとはまる。まるであつらえたように。
「痛くない?」
「いや」
「今、布で縛るわ。薬も塗ってあるからしばらく取ってはだめよ」
「ああ」
「これで、ナギは全部ナギになった」
「そうだ、レーゼのナギだ」
ナギは何事もなかったように起き上がった。
「そしてここが俺の……家? そう……家だ」
家という概念の薄いナギだが、それでも言葉としては知っている。<シグル>では他の人間と交わる時のために、必要な知識を最低限教えられたからだ。
ただし、自分達とは縁のない「知識」としてだが。
「だから俺の帰る場所はここだ。レーゼのいる場所だ」
「買ってきたなめし革で額当てを作るよ。防具にもなる丈夫なものを」
ルビアが額の汗を拭った。さすがの彼女も緊張したらしい。やれやれというように、荷物を解きに向かう。
「俺も手伝ってくるよ」
ナギは傷のことなど忘れたように、元気よくルビアの後を追った。
その背中を見てレーゼは思う。
ナギはもうすぐここを出ていく。
そしてその先は……ああ、私にはもう見えないわ。
でも、誓ったのだから。
レーゼはそっと自分の指に口づけた。先ほど刀子で傷つけた場所だ。ぴりりとした痛みが走る。
私だって、耐えられるわ。
耐えて待って、帰ってきたナギを迎えるの。
翌日から、ナギの鍛錬はさらに苛烈なものとなった。
魔女を倒すために自分を鍛えるのはもちろんだが、結界の弱くなったところを突き崩すためでもある。
裸足で岩山を登り、枝から枝へと飛び、川を渡る。冬眠から目覚めた野生の獣を一人で倒し、強い弓で猛禽を射た。
シグルの印をレーゼに取り除いてもらい、青い石を額に冠してから身体能力が向上したように思う。どんどん力が湧いてくる。自分でも戸惑うくらいに。
だが、ナギは構わなかった。強くなれるならなんでもいい。自分の体のことなどどうでもいい。
レーゼを助けるためなら。
毎晩レーゼは傷だらけのナギの手当てをした。
「私のためにこんなに怪我して……私がナギを痛めつけてるんだね、ごめん……ごめんね」
レーゼは泣いてるようで、包帯が濡れていく。
「謝るな、レーゼ。俺ならなんともない。むしろ体の調子はいいんだ。どんどん力や技が習熟しているくらいだ」
「でも……いつも血の匂いがする」
「それは生まれつきだよ」
「ナギ!」
レーゼは細い腕を伸ばして、少年の頭を抱きしめた。
「ありがとう……」
ナギは大人しく抱かれながら甘い香りを吸い込む。
短い春は終わりかけていた。
そして、ある日──。
「レーゼ」
すっかり陽も落ちた頃、ぼろぼろに傷ついたナギが塔に帰ってきた。
「結界を破った」
「ナギ!」
崩れ落ちてしまったナギをレーゼが支えようと駆け寄るが、支えきれずに二人して草むらに倒れてしまう。
レーゼは伸しかかるナギの重みを感じた。体の重さと、心の重みを。
「レーゼ様!」
ルビアがすぐに二人を助け起こす。
「ナギ! なんて無茶をするの! この数日間、一度も帰ってこないで!」
「ごめ……」
「ルビア。いいの、許してあげて、私はわかってたの! わかってて言わなかったの!」
「レーゼ……俺は」
疲れ切ったナギがレーゼの上で眠りかけていた。
その心地よい重みを身体中で受け止めながら、レーゼもまた目を閉じる。ナギの頭を抱きしめながら。
「ナギ、決して無理はしないで。私にはわかるの。この痣が私を取り込むまで、まだだいぶ時間がある。ゾルーディアは時々私を覗いて確かめているのよ。だから決して、無茶はしないで」
翌朝。
朝靄の中、ナギは旅立つために、塔屋の外へ出た。穏やかな春の朝だが、空気はまだひんやりと冷たかった。
見送りはレーゼ一人だ。花の咲くつる草が絡まる塔屋の前に、心細そうに立っている。
「待っていて、レーゼ。必ず帰るよ」
「うん。待ってるから、ナギ。帰ってきてね」
まるでそれが自然なことのように、二人は口づけあう。
幼いふれあい。
レーゼもナギも、自覚はしていなかったが、それは確かに愛という名の絆だった。
***
旅立ち。この章終わりです。
さぁ、どんどん面白くなってきますよ!
ついてきてください!
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TOPのイメージは多分アメジスト。
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