婚約者が記憶喪失になりました。

ねーさん

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 どうやら俺の頭からは、学園の三年生の頃から馬車の事故に遭うまでの記憶がスッポリと抜け落ちている、らしい。
 俺にとっては三年になり、生徒会長に選ばれたのはつい昨日の出来事だ。
 しかし現在の俺は学園を卒業し、アルヴェルの侍従として王城で働いている、らしい。
 事故から一か月が経ったが、現状、腕と脚を怪我して入院中の身なので、実感は更々ない。
 アルヴェルや妹たちが随分と大きくなって大人びていてるし、自分の顔を鏡で見ると確かに大人の顔をしている。三年経っていると納得せざるを得ないのだが。

 何より驚いたのは、俺に婚約者がいた事だ。

 セシリア・アボット。
 アボット子爵家の長女で、クセのある赤毛、琥珀色の瞳の……何というか、平凡な令嬢だ。
 アボット家は特に家格が良い訳でも悪い訳でもなく、セシリア嬢の父や兄も特に目立つ処がある訳でもなく、縁を結んでも我が家に損も得もない。
 それなのに俺はセシリア嬢と交際を始めて一年足らずで婚約を申し出たらしい。そしてそれは不思議な程早く成立している。
 そもそもセシリア嬢に「恋」をしたのか?俺が?

「シルベスト、よりによってこの三年を忘れるなんて最悪だぞ」
 シルベストに気を遣って話題を選ぶ家族とは違い、アルヴェルはいつもハッキリとそう言うのだ。
「…何度言うんだ」
 少しうんざりとして言うシルベスト。
「思い出すまで何度でも言うさ」
 腰掛けたベッドから立ちあがろうとすると、アルヴェルは立て掛けてあった松葉杖を取るとシルベストに差し出した。
「腕も骨折しているから松葉杖を片方しか使えないのが難儀だな」
 シルベストは松葉杖を受け取ると、それを支えにして立ち上がる。
「話を逸らすなよ」
「逸らすつもりはないが、覚えていないものはどうにもならない」
 杖と片足で少しづつ足を進め、病室の扉の前に立つと、一緒に歩いて来たアルヴェルが扉を開けた。

「…あ」
 開けた扉の向こうに、セシリアが立っている。
「アルヴェル」
 シルベストはアルヴェルを睨む。
 セシリアと一緒に来ていたなら言えよという視線だ。
 アルヴェルはそっぽを向いていた。
「あの、ちょっとシルの…シルベスト様の顔が見れたらなーなんて思いまして」
 セシリアはバツが悪そうに人差し指で顎を掻く。
「どうぞご覧になってください」
 シルベストは無機質な声で言う。
 シルベストは自分の顔の造作が整っている事を知っている。その顔と公爵家の嫡男という立場が異性からの興味を引いている事も。
 顔。セシリア嬢も俺の顔が好きなのだろうか。
 それに彼女が「シル」と呼びかけて「シルベスト様」と言い換える事がよくある。そう呼ばれていたのか。俺が。
 セシリアはほんの数秒シルベストを見つめると、ニコリと微笑んだ。
「ありがとうございました。お邪魔しました。では、失礼します」
 頭を下げて、セシリアは廊下を早足で歩いて去って行く。
「……」
 シルベストは黙ってセシリアの背中を見送った。

「セシリア嬢はシルベストを困らせるから行かないって言ったんだが、僕が強引に連れて来たんだ」
 アルヴェルが肩を竦める。
 俺を困らせる、か。
 確かにセシリア嬢に会うのは少し憂鬱だ。
 俺が彼女のどこを好きになって、婚約したのか、どうしても思い出せない。
 会う度に彼女の瞳に浮かぶ「期待」が「落胆」に変わるのを見るのも辛い。
 俺が彼女に会うのを憂鬱に感じているのを、彼女に見透かされているように感じるのにも、歯痒さがある。
「行かないと言うなら無理に連れて来るな」
 シルベストがそう言うと、アルヴェルはまた肩を竦めた。

「覚えていないものはどうにもならない」
 これは私がいないと思って言ったんだけど、
「無理に連れて来るな」
 これは敢えて私に聞こえるように言ったんだろうな…
 セシリアは病棟の廊下の壁にもたれてシルベストの言葉を反芻する。
「やっぱり困らせちゃった…」
 会いたい。顔が見たい。
 でも、私を知らないシルを見るのは辛い。
 シルも私と会う時はいつも困ってる。できたら会いたくないと思ってるのも感じてる。
 記憶が戻るのか、戻るとすればいつなのか。戻らないかも知れない。
 ずっと…このまま「シル」は帰って来ないのかも知れない。それは泣きたいくらい辛いけど…シルの言う通りどうにもならないんだよね…

「セシリア」
 女性の声がして顔を向けると、シルベストによく似た女性が眉を寄せてセシリアの方へ近付いて来ていた。
「クラリッサ」
 クラリッサはシルベストの妹で、セシリアより一つ歳下で学園の三年生だ。
「お兄様のお見舞い?」
「ええ。クラリッサも?」
 セシリアはニコリと笑う。
 クラリッサはため息を吐いた。
「…今のお兄様とは何を話せばいいのかわからないわ」



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