上 下
2 / 82

序 「事件に救いなどない」

しおりを挟む
     序

  開幕 五分前
  開幕ベル

 『事件に救いなどない。』


  開幕
 
 ギイッ、ギイッ。
 
 静寂に響くのはスプリングの立てる耳障りな雑音。
 リズムは一定。それはあたかもメトロノームのようだ。
 
 ギイッ、ギイッ。
 
 途切れることなく続く音は、ソファでくつろいでいる男が持っている器具から発せられたものだ。男は何の感慨もなく、手の中で玩ぶように器具から音を立てている。
 握力を鍛えるため、器具の使用目的はその一つに限られている。男は、スプリングを軋ませながら、呼吸のように握力を鍛えていた。
「その耳障りな音を止めていただけますか?」
 次に響いたのは涼しく冷たい声音。口調こそは丁寧だが、声音に乗せた圧力は有無を言わせぬものがある。
 声音は、ソファの正面のデスクから投げかけられていた。
 デスクに着いているのは、声音のままの雰囲気を持つ整った顔立ちの男だ。年齢不詳という言葉がぴったりなほど、人間らしさは皆無だ。精緻な彫刻のような顔に、白すぎる肌と動かない表情は、大理石で出来た美術品を思わせる。肌の白を際立たせるように、男の服装は黒一色で統一されていた。黒のスーツ、黒の手袋、黒の髪。唯一の例外は、サファイアのように輝く両の瞳だけだろう。

 ギイッ、ギイッ。
 
 美術品のような男の忠告も気に留めず、スプリングは軋み続ける。
「つまみ出されたいのですか?」
 そこで、ようやくスプリングの音が止んだ。
 代わりに、ソファの男が揶揄するような声を上げた。
「誰がつまみ出すんだ?」
 目の前の美術品と比べると見劣りするのは仕方ないが、その男は人好きのする顔だ。中の上という判断が妥当だろう。年齢は、二十代くらい。どこか悪戯めいたような瞳の輝きといい、笑みの絶えない口元といい、全身から漂う人懐っこそうな雰囲気といい、氷点下の彫刻の男とは対照的な空気を持っている。
「お前が俺をつまみ出してくれるのか?」
 悪戯な瞳が更に輝く。悪戯な視線の先には、美術品の男の黒い手袋がある。
 そこで、美術品のような男は、眼光に鋭さを上乗せした。
「分かったよ。そんなに睨むなよ。冗談だよ。」
 笑い声を上げながら、男は肩を竦めて見せる。降参だとでも言いたそうだ。
 ソファの男が器具をポケットにしまいこんだところで、ようやく美術品の眼光から鋭さが消える。
 二人の男がいるのは、応接室と呼ばれている部屋だ。

『凍神探偵事務所』

 都市の喧騒を避けるように大通りから離れ、住宅街からも離れているため、用がないものは近づくことのない寂れた場所に、その建物はひっそりと人目に付かず建っている。年季の入った外観も、キレイにはしてあるものの長年風雨に晒されてきたダメージは拭いきれていない。通行人が目を留めて入ってくることなど皆無と言ってもいい。そこは、そんな建物だ。
「それで、今日は何の御用ですか?」
 青い瞳の持ち主とは思えぬほどの流暢な言葉は、美術品のような外見と冷然とした態度と相まって、不審感と警戒心しか抱かせない。
「遊びに来ただけ。」
 明朗な笑顔と弾む声は、男の親しみやすさを倍増させる。
「困りましたね。ここは探偵事務所なのですが。」
 大仰にため息をついて見せるが、困っているわけではない。男の声には人間らしい体温が感じられなかった。
「いいだろ?ヒョウ。どうせ、客なんて、あんまり来てないんだから。もし、客が来たら俺だっておとなしく帰るからさ。」
 とびっきりの笑顔でのお願いだったが、ヒョウと呼ばれた美術品の男は視線も合わせずにデスクの上の書類に視線を落としていた。多分、お願いなどに興味もないのだろう。
「ちぇっ、どうせ忙しくなったことなんてないくせに。無視だよ。」
 拗ねる男。だが、ソファに深く腰を落ち着けたまま、そこから動く気はなさそうだ。
「全く、世間っていうのは不公平だね。こんなに暇な探偵事務所が経営難に陥らないなんて。むしろ、何だか儲かってるみたいだし。趣味の延長みたいないい加減さで、法外な料金ぼったくって、それでも仕事が来るんだから。」
 男は室内を見回すと、大きなため息をついて見せた。室内に整えられた調度品類は、たいした知識のない目にも高価だと理解できるほどの格式高い様式で揃えられている。品良く飾られた室内は、建物の外見の侘しさとは別物だ。玄関の扉を開けると、外観から抱いていた内部のイメージが一瞬にして崩れ去る。別世界だ。
 梅雨も終わり、これから夏の盛りだというのに、心地よい風が吹きぬける室内は静寂が支配権を握り、情緒感が漂う程度の蝉の声は、風流の一言に尽きた。
 しばらくして、吹きぬけた風に鈴の音が混じる。

 リン、リン、リン。

 涼しげでリズミカルな心地のよい音色。
 少しずつ大きくなる鈴の音に、コツコツと足音も混じる。
 そこで、美術品の男は書類から視線を上げた。男の口元に微かな笑みが浮かんでいる。
「ヒョウ先生?」
 鈴の音とともに室内に現れたのは、一人の可憐な少女だった。裾にレースの施された黒一色のワンピースを着て、首には銀色の鈴の付いたチョーカーをつけている。愛らしい声音に、見た者全てに笑顔と陶酔を呼び起こすかのような天使のような美貌。全体的に色素の薄い雰囲気や表情の欠落した顔は、神聖さを感じさせる。長い睫毛に縁取られたパッチリと開いた眼で、長い足を組んで座っている美術品の男を見つめている。肩口までで切り揃えられた髪と、首に付いた鈴が、少女が動くたびに同調する。
「リン。準備は出来ましたか?」
 リンと呼ばれた少女は、大きく頷いた。少女の意志に賛同するように、首の鈴もその身を揺らす。
「では、そろそろ行きましょうか?」
 机の上の一輪挿しから、青いバラの花を抜き取り、男はコサージュとして黒いスーツの胸ポケットに挿した。胸に加えられた青の色彩は、男の双眸と同色だ。
 そして、男は椅子から立ち上がる。スラリと伸びた男の立ち姿。
 そこで、男はやっとそのサファイアのような瞳にソファの男を映した。
「私もあいにくと忙しいもので、貴方のお相手ばかりはしていられないのですよ。」
 仰々しく一礼して見せる男。顔には仮面のような笑みが浮かんでいた。

  幕は上がり、
   探偵が舞台の中央で仮面のような笑みを湛えている。
    探偵が導くのは真実か?それとも悲劇か?
     観客の見守る中、事件は静かに始まっていた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

言いたいことはそれだけですか。では始めましょう

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,074pt お気に入り:3,568

役目を終えて現代に戻ってきた聖女の同窓会

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,642pt お気に入り:76

名探偵・桜野美海子の最期

ミステリー / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:71

嘘つきカウンセラーの饒舌推理

ミステリー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:0

隅の麗人 Case.2 腐臭の供儀

ミステリー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:4

最初に私を蔑ろにしたのは殿下の方でしょう?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:17,916pt お気に入り:1,963

悪女と呼ばれた死に戻り令嬢、二度目の人生は婚約破棄から始まる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,700pt お気に入り:2,474

ある公爵令嬢の生涯

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:4,987pt お気に入り:16,125

猫屋敷古物商店の事件台帳

ミステリー / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:180

処理中です...