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5章
blueでの新しい日常4
しおりを挟むどんどんマイナスの方向に考えが傾いていく。気を使う相手と暮らしていくうちに、まず、自分が悪いのかもと考える癖がついてしまっていた。
「そんな顔しないでください。勤務態度についてのクレームだと思うくらい、なにか思い当たるところでもあるんですか?」
「え? ……いえ。思い当たることは特に、ないんですけど、でも」
オーナーは落ち着いた声でわたしを遮った。
「それなら、自信持ってください。貴女は今までにそんなトラブル起こしたことないでしょう? 前の職場だってそうだったはずです」
彼は少し間を置いてから、わたしの目をまっすぐに見る。
「大丈夫。蔭山さんは、良いお仕事されています。貴女は、きちんとしている方ですよ。従業員としても、人間としても」
「……」
きゅうに、鼻の奥がつん、とする。身体じゅうの水分が、瞳に集まってくるみたいだ。わたしは、湧き上がってくる涙と、嗚咽を堪えるのに必死だった。俯いて、大きく、大きく深呼吸する。
なん、で……。この男性は。
わたしの、一番柔らかく脆いところをそんなふうに包むんだろう。毎日のように、君はダメだと言われているのに。
「な、んで……。そんなこと、わかるんですか」
「なんでって……。離れてしばらく経ってるけど、俺、ずっと先輩のこと見てたから。人間てそんなに急に変わらないでしょ」
少し低い声。
真面目な顔をして後輩くんはそう言った。
「もちろん、周りのスタッフも皆同意見ですよ。新人さんがどんな様子か把握するのは、店の持ち主としては当然ですからね」
さらりと「オーナー」は微笑む。
「だから、そんな話じゃないんですよ。あのですね、」
「オーナー! 蔭山さん行けそうですか?」
店長の黒田さんが廊下の向こうからやってきた。片手にはタブレットを掲げている。
「今、聞いてるところだ。彼女、時間はあるって言ってくれたよ」
「そうなんですね。でしたらここに地図がのってますから……」
二人がなにやらタブレットを覗いて話している。わたしは訳がわからず、きょとんとしてしまう。
「えと、なんのお話だったんでしょうか……?」
「新しくできたカフェの偵察……、かな」
「え」
黒田さんが不敵に微笑む。
「駅にできた新しい店、ちょっと目立ってるでしょう?
早めに行ってメニューをチェックしとかないと!」
「この付近の新店舗はどれもライバルになり得る。外観から客層まで掴んでおくのは当然だよ」
オーナーも頷いていた。
「店のサイト見るだけじゃわからないから、当然試食もするんだ!もちろん、これは仕事だからね!」
興奮気味の黒田店長は少ししょんぼりしてしまった。
「けど、全部僕が行くわけにもいかない。本当は全部食べたいけど。だから、新店舗ができたらスタッフみんなで順番に視察に行ってるんです。今回は、新人の蔭山さんにもぜひ参加してほしくて」
彼は目を輝かせてわたしに迫ってきた。
「あなたの感性で、一番美味しそうなメニュー、食べてきてください!そして、感想を教えていただきたい。オーナーはたいてい雰囲気やら客層やら見てるんで、味の確認はあなたに任せます!」
「は、はぁ……」
黒田店長は再び、タブレットでその新店舗のメニューをチェックし始めた。隣でオーナーも覗き込んでいる。
三十代男性が立ったまま二人揃って作戦会議をしている姿は、できるビジネスマンそのもののはずだが、なんだかわたしには男の子二人がわちゃわちゃとしているように見えてしまった。微笑ましくて、今のいままで溢れそうだった涙が引っ込んでゆく。
(たのしいな。嬉しくて……、楽しい)
こわばっていた頬が柔らかく緩む。立ちっぱなしだったせいで張っていたふくらはぎの筋肉までも、ほどけていくようだった。
ふと、タブレットから目を上げた上月くんと視線が絡まる。わたしは、自然に、彼に微笑んでいた。感謝を込めて。
彼は一瞬大きく目を見開いたあと、ふ、と視線を外し黒田店長との会話に戻っていく。
さらさらの黒髪に隠れた頬が、ほわりと朱に染まったていたのは、わたしには見えなかった。
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