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六章
鉢合わせ9
しおりを挟むこの空間は、ドアばかりだ。
きっと、どこに入っても、間違いか、正解かもわからない道へと繋がっている。
エレベーターを降りたわたしは、カードキーの番号を頼りにホテルの廊下へとおそるおそる踏み出した。
左右に現れる同じ形のドアは、明かりが抑えられた廊下の中で、まるで異空間に浮かんでいるみたい。
番号だけが違う。
その一つひとつが自分の過去や、現在のどこかへ繋がっていそうで、なんだか途方に暮れてしまう。
誰もいない廊下に、ひとりぼっち。
また、込み上げてきそうになる涙を堪えてわたしは、カードキーの数字が示すドアを探した。
なかに入り、キーを差し込むと、明かりがつき、真っ白な壁を照らした。
(あ……結構広い……んだ。ホテルなんて、何年ぶりだろう)
飛び込んだビジネスホテルには幸い空室があった。
「夜景の見えるお部屋と、山が見えるお部屋、どちらも同じ価格でご用意できますが、どういたしますか?」
フロント係の女性は丁寧に尋ねてくれたが、わたしはそんなこと、どうでもよかった。
「どちらでも大丈夫です」
そう答えると、彼女はバッグひとつしか持っていないわたしをちらりと見て、優しい言葉で「では、こちらを」とキーを手渡してくれた。
そうして入った部屋は、分厚いカーテンの向こうに美しい夜景の広がるこの部屋だったのだ。
白とグレーを基調にした清潔感のある部屋に、大きなベッドがひとつと、デスク。そしてテレビ。
広くはないが、一人で過ごすには十分すぎる。
わたしはゆっくりと室内を周り、浴室を覗いた。
こんな時でもなければ、広いバスルームと大きな鏡面にはしゃいでいたかもしれない。
だが、鏡に映る、疲れ切った顔を見てそこから逃げるようにベッドへと突っ伏した。
(やっちゃった……。出てきてしまった)
さっきから心臓がドキドキして、胃の辺りをなにかが締め付けてズキズキと痛い。
これは、緊張と不安のせいなのだろうか。
夫に腹を立て、家を飛び出していま、こんなところにいるのだ。
(怒ってるっていうより、いまは、なんだろ、胸のなかがぼっかりと真っ黒になってる感じ。よく、わからない)
ベッドを覆う白いシーツはパリッと糊がきいていて、頬に少し、チクチクとする。わたしは、ひどい喉の渇きを覚えた。
小さな冷蔵庫には、ミネラルウォーターが2本入っている。
(これって、お金かかるのかな?)
昔のホテルなら、間違えて飲んでしまうと結構な額を請求されたものだが、これはどうなんだろう。
今の仕様がわからなくて、デスクの説明書を確認するのも面倒で、わたしは備え付けのポットでお湯を沸かし、ティーパックのお茶を飲むことにした。
(せっかく家出したのに、こんなこと気にしてるの、馬鹿みたい。もっと豪勢になにかできたらいいのに)
美味しいものを食べたくても、全くお腹が空いていない。むしろ胃がきりきりと痛いのだ。
「はは……。バカみたい」
わたしは乾いた笑い声を漏らした。
何度も、オムライスが飛び散ったシーンと、彼の罵倒を思い出してはやるせなくなるのに、いま、ここに一人でいることが、悪いことをしているみたいに思えるのはなぜなのか。
三十五年生きてきて、こんなに心細かったことはない。
「モラルハラスメント」
そんな単語がふっと浮かんだ。
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