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9話 新婚生活の始まり?
しおりを挟むぴぴぴ、ちち、という賑やかな小鳥の鳴き声が聞こえる。歌うようなおしゃべりをしているような、なんとも楽しげな音色だ。
心地よい響きに、リリシアは微睡のなかで微笑んで大きく寝返りを打った。
(なんて、気持ちいいのかしら……)
陽の光が、ふわふわと柔らかく瞼を撫でる。芳しい花の香りのなかで彼女は夢うつつにぼんやりと考えた。こんなに深く眠れたのは久しぶりだ。もうずっと、夜が明ける前に仕方なく誰よりも早く起きていたのだから。
瞼の裏がチカチカと優しく明滅する。もう、日が昇ってどれくらい経つのだろう。いつもなら、とっくに侍女がバタンとドアを乱暴に開けてくるのだが、一向にその気配はない。それに、なぜこんなに、花の香りが漂うのだろう。
(あっ……)
そこでリリシアははっと目を開けた。慌てて身を起こし、あたりを窺う。
大きな装飾窓を覆う分厚い布の隙間から、陽の光がちらちらと覗いていた。薄明るく見覚えのない室内に、花があちこちに飾られている。そして壁際には真っ白なドレスを纏ったトルソーが。繊細なレースを幾重にも重ねた袖口、真珠を散りばめた胸元の輝きは朝の光にも誇らしげだ。
これは昨日、彼女が身につけた花嫁衣装だった。
(こ、ここ、は……そうだわ。私……昨日婚礼式を。そしてこのお屋敷に)
ここはデインハルト卿の館だ。リリシアは今日からこの屋敷の夫人となったのだ。
リリシアは深く目を閉じる。宴の後、ひどく苦しくなったこと、肩の痛みやそしてセヴィリスのことが蘇る。彼女はそっと肩へ手をやった。
昨日のことが少しずつはっきりとしてくる。。自分はセヴィリス・デインハルトに嫁ぎ、このグリンデル領の館に迎えられた。
だが、夫となったセヴィリス卿はリリシアと夫婦生活を送るつもりはないといった。なぜなら彼女を迎えたのは、聖騎士として『魔印』という恐ろしい魔物の呪いから守るためだから。
「……守るために、婚姻を」
リリシアはぽそりと呟く。
貴族の婚姻は、子種のため、財産のため、爵位のため。だがセヴィリスはそのどれも違う。もちろん、愛ですらない。
リリシアの頭に、『妖精あたま』という言葉がぽわりと浮かぶ。
(これから、どうなるのかしら……)
相変わらず外では小鳥が呑気に朝の挨拶を交わしている。彼女は途方に暮れて、まだ見慣れぬ天井のシャンデリアを見上げた。
「奥様、リリシア様。お目覚めですか?」
扉の向こうで控えめな声が聞こえた。リリシアは慌てて寝台を降り、扉を開ける。そこには昨日彼女の世話をしてくれた女性達のうちの一人が立っていた。水甕とリネンを手にしている。彼女は驚いたようにリリシアを見ていた。
「お、おはようございます。奥様」
「お、おはようございます……」
互いに戸惑って挨拶をする。女性は目をぱちくりとさせていた。
「あの、奥様、お支度のお水をお持ちしました……」
「まぁ、わざわざありがとうございます。重いでしょう、どうぞこちらへ」
女性は驚いた表情のまま、備え付けられた優雅な装飾の甕受けに水甕を置く。リリシアは彼女に再び礼を言った。
「ありがとうございます。あの、ごめんなさい。朝は忙しいのに」
「と、とんでもない。これが私の仕事ですから。あの、奥様……」
彼女は戸惑いながらリリシアを見ている。
「なんでしょう」
「扉をご自分で開ける必要はございません。朝のお支度は私どもの仕事ですから、その、貴女様はお返事するだけでいいのですよ」
リリシアははっと赤くなった。
「ご、ごめんなさい……。その、いつも自分でやっていたから」
ベルリーニ家では彼女は自分のことはほぼ自分でやっていた。使用人たちは意地悪なわけではなかった。だが、リリシアの世話を焼いているところを夫人たちに見つかると彼らがいびられるのだ。そのせいで使用人たちもなんとなくリリシアを敬遠していた。
女性はさらに驚いた顔をしたが、なにも言わず微笑むと深く腰を落とし頭を下げた。
「サラと申します。奥様の身の回りをお世話いたします。この館では貴女様が主人です。なんでもお言い付けくださいませ」
「あ……り、リリシアです。よろしくお願いします」
リリシアは躊躇いながら挨拶を返す。奥様と言われるとなんともぎこちない気持ちになる。サラはリリシアより4、5歳は年上に見えた。彼女は明るく微笑むと、
「お加減はいかがですか?昨日はよくお休みになれましたか?」
と尋ねてきた。
「え、ええ……大丈夫……っ」
(お加減って……、ほんとうなら昨夜は初夜、のはず……)
リリシアは慌てて寝台を振り向いた。
血の跡も、乱れた敷き布もない、なんの痕跡もないまっさらな寝具。新婚初夜の寝台にあるまじき美しさである。かろうじてセヴィリスが座っていた椅子だけが残っている。彼女は恥ずかしさと居心地の悪さでいっぱいになりながら何度も頷いた。
「な、なんともない、です……」
「それはよかったです。セヴィリス様から具合が悪ければお休みになられるようにと言いつかっておりましたので」
サラは気遣わしげに彼女の肩のあたりを見つめた。
「あ……そ、そういえば」
昨夜セヴィリスが手当てをしてくれたおかげなのか、ここのところずっと続いていた肩の疼きは消えていた。そっと肩布を外してみる。歪な円の印は相変わらずそこにあって黒く不気味にリリシアを見つめている。でも昨日のような激しい違和感はもうなかった。
「聖水が効いたのでしょう。よかったですね!もしご気分が悪くなったらすぐに仰ってください」
(サラさんは、どこまで知っているのかしら……)
ふと、そんな疑問がよぎる。
「……ええ、ありがとうございます」
「それでは朝のお支度を始めますね。なにをお召しになりますか?髪型はどのような形がお好きですか?」
サラはテキパキと動きだす。まっすぐな金髪を一つに結んだ彼女は窓を開け放つ。そして、リリシアを鏡台の前に座らせた。
「だ、大丈夫です。自分で……」
「まぁ、いけませんわ。奥様。私どもの仕事を奪ったらなにもすることがなくなってしまいます。さあ」
彼女は大きな櫛を取り出し、リリシアの髪を梳かしはじめた。
「とても綺麗な栗色ですね」
リリシアは恥ずかしそうに笑う。
「寝不足が続いていたからなのか、最近はぱさぱさしてしまって……」
「そんなこと! すぐに艶のある御髪になりますよ! 私にお任せを。この館でセヴィリス様の奥方様のお世話をすること、……とても楽しみにしておりましたの。こんなに可愛らしい方をお迎えできて本当にうれしいですわ」
サラはにこにことはりきって楽しそうだ。
「わ、私は……」
『結婚生活をするつもりはない』
セヴィリスの言葉が蘇る。
(妻というのはただの肩書きだけなのに……)
「大丈夫、どんなご事情があれ、貴女様はこの家の奥様ですよ。皆もそのつもりでおります」
鏡越しにサラと目が合う。彼女は安心させるように頷いていた。この館の主人が聖騎士という役目を担っていることは、彼女たち使用人も知らないはずはない。
ともかく、サラはリリシアの魔印のことはわかっているようだった。だからこそ、なんとも言い難い気持ちになる。肩書きだけの妻なのだから。
「あ、ありがとうございます……サラさん」
「サラ、とお呼びください。奥様」
なんだかいたたまれない気持ちになってしまい、リリシアは曖昧に微笑む。
そして、リリシアにとって驚きの新婚生活が始まったのである。
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