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5. 白の余韻
しおりを挟む「なんかさ、その人ちょっと怖くない? ストーカー気質っていうか、」
「そんなことないよ! それに、「その人」じゃなくて、末田さん!」
スマートフォンから流れる彩可の言葉に、私は被せ気味に反論した。
「だって、店の前で待ち伏せしてたんでしょ?」
「待ち伏せじゃなくて、待っててくれただけ! それに、私を窮地から救ってくれたし」
化粧水を染み込ませたコットンをパタパタと頬に当てながら、頬に集まった熱を冷ます。
金曜の夜、昨晩の出来事を彩可に電話で報告した。全く気の乗らない合コンに参加したこと。ヒールのせいで転びかけた私を、優しく助けてくれた末田さんとの出会い。合コンが終わってから彼と過ごした、楽しい時間のこと。
彩可ならこの出会いをきっと喜んでくれるに違いない。そう思っていたのに、彼女の反応は予想と全く違っていた。
「末田さんとは、出会った瞬間から感じるものがあったの。それに、昨日の夜は彼に助けられっぱなしで。だから、ストーカーとかそういうのとは全然違うの!」
そう力説しても、彩可からは気の無い「ふーん」の一言を返してくれるだけで、ちっとも納得していないのが手に取るように分かった。
「そもそも、新しい出会いがあるかもって、背中を押してくれたのは彩可でしょ?」
ついつい強くなってしまった語気を誤魔化すように、コットンをゴミ箱へ放る。
「それはそうだけどさー。あ、あっちはどうなったのよ? あの、新しい部署の先輩!」
「え? もしかして、菊地さんのこと? どうなるも何も、菊地さんはただの仕事の先輩。何かが起こるわけがないじゃない」
乳液のボトルに手を伸ばしながら、私は今日の会社での出来事を思い返した。
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「昨日、あのあと大丈夫だったか?」
朝、エレベーター前で偶然、菊地さんと出くわした。挨拶するなり、彼は私の足元を指差しながらそう問いかけてくれた。
「なんとか、無事に乗りきれました」
昨日は本当にありがとうございました、と小さく頭を下げれば、気にするな、と青年のような笑顔が返ってくる。その爽やかな笑顔に、心臓が小さな音を立てた。
「昨日の今日で、新しい靴なんてなかなか用意できなかっただろ?」
「はい。なので、家に予備で取ってあった古いパンプスにしました。靴擦れしやすいからあんまり履きたくなかったんですけど、転ぶよりましかな、と思って」
そこまで話して不意に思い出したのは、前日の末田さんの背中から包み込んでくれた優しい体温と、私をそっと導いてくれた手の温もりだった。本当に、王子様みたいだったな。思わず頬が緩んでしまいそうになるところを、咳払いで誤魔化した。
「そうか。まあ、壊れた靴のままじゃないのは安心したけど、靴擦れもひどい時は大変だろう?」
心配だなあ、と言いながら足元にじっと視線を向けられて、なんだか得体の知れないむず痒い感覚が一瞬で全身に走った。慣れない感覚ではあったものの、不思議と嫌悪感はなく、むしろ……いや、職場で、しかも朝からそんなことを考えるのは間違っている。それに、先程まで末田さんのことを考えていたくせに、すぐに菊地さんを意識してしまうなんて。私は、自分の単純さを呪った。
「大丈夫です。じつは、靴擦れ防止のために、かかとに絆創膏貼っておいたんで。週末にでもゆっくり、足に合った新しいパンプスを買いに行こうと思います」
「ならいいけど。でも、女性って本当に色々と大変だよな」
菊地さんがそう言ったところで、エレベーターが到着した。本当ならば、後輩である私が先輩のためにボタンを押して扉を開けておかなければいけない。なのに、既に菊地さんの大きな手がボタンに伸びていて。先に入れ、ともう片方の手で促されれば、それに従うしかない。私は頭を下げて先に鉄の箱の中に収まる。こういうところ、菊地さんは本当にスマートで紳士だ。
彼が無事に扉の内側に入ったのを確認したところで、閉ボタンを押す。閉まりかけた扉の隙間から、微かにこちらに駆けてくる人物が視界に入った。私は思わず、反射的に開ボタンを叩いてしまった。
「ありがとうございます!」
そう言いながら入ってきたのは仁科さんだった。乗っていたのが私と菊地さんだと気づいた瞬間、彼女は安心したように小さくため息を漏らした。軽く朝の挨拶をしながら、再びエレベーターの閉ボタンを押し直す。
「中谷さん、昨日は急だったのに参加してくれてありがとうね」
私に向けられた仁科さんの言葉に、笑顔で小さく首を振る。ちらり、と盗み見た菊地さんの表情は、一切変わらない。
「でも、次からは無理して参加してくれなくて良いからね。彼氏さんに悪いことしちゃったかなって、申し訳なく思ってて」
「え?」
予想外の仁科さんの言葉に、私は自分の耳を疑った。
彼氏さん?
って、誰の?
「昨日、心配で店まできてくれてたんでしょ? お開きになるまでわざわざ外で待っててくれるなんて、優しい彼氏さんじゃない」
誤解だ。末田さんのことを、彼氏だと誤解してるんだ。否定しないと。そう思っている間も、仁科さんは口を止めなかった。
「よくよく考えてみたら、お店に入る前にも、二人で話してたものね。私が頼んじゃったから、気を遣って来てくれたのよね。それは本当に感謝してるけど、彼氏さんが心配するようだったら、次からは断ってくれて良いんだからね?」
ウィンクまでしそうな雰囲気の仁科さんに、私はただ戸惑った。「違うんです。彼氏じゃないんです。昨日、偶然、初めて会った人なんです。全部、誤解なんです」そう答えようとして、私は誰にこれを伝えたいんだろう?
付き合っている人なんていない。この空間で、私は誰にそれを伝えようとしているんだろう?
仁科さんではない人物に、自然と私の意識は向かった。
「へえ、中谷の彼氏ってどんな人だった?」
耳に届いた低い声に、私の心臓が嫌な音を立てた。
「一瞬しか見てないからあんまり覚えてないんだけど、なんか、モデルみたいにスラーってしてて、背が高くてさ。茶髪で、色白? なんかこう、オーラ? ってのがあって、なんか人目を引く感じの人」
「一瞬だからあんまり覚えてないって言うわりには、めちゃくちゃはっきり覚えてるじゃん」
クツクツ、と喉仏から出ているような独特の笑い声。それは仕事の合間に聞こえる、私の癒しの音の1つだった。なのに、今はその笑い声がひどく残酷に聞こえた。
「違うんです、その人は彼氏なんかじゃないんです。信じてください!」そう伝えたところで、一体何になる? そもそも、どうして必死に菊地さんの誤解を解きたいと思っているの?
自分が惨めでバカらしくて、途端に心が冷えていくのを感じた。
昨日の帰り道からずっと、昨晩の末田さんとの出来事に浮かれていたくせに。一人で思い出しては頬を染めていたくせに。今朝、菊地さんと挨拶を交わしてからも、末田さんのことを思い出していたくせに。
それなのに、今、菊地さんの目の前で、そんな自分を必死で否定しようとするなんて。虫が良すぎる、どころの話じゃない。私は一体、何がしたいんだろうか?
エレベーターが止まり、扉が開く。自然と指が開ボタンを押した。ありがとう、とお礼を言いながら降りていく仁科さんと言葉を交わしながら、当たり前のように彼女に続いていく菊地さんの背中が、なんだかひどく遠くにあるように思えてしまった。
その日、菊地さんとの会話はなんだかいつもよりも素っ気なく感じた。彼は公私混同するようなタイプじゃない。だから、これは勝手な私の思い込みでしかない。そう分かっているのに、なぜだか私の中で菊地さんとの何かが、終わってしまったように感じた。まだなにも始まっていない、菊地さんは存在していることすら知らなかったであろう、何かが。
*************************
バチン、と乳液のボトルの蓋を開けて、現実に意識を引き戻す。
「とにかく、会社の人とプライベートで何か、っていうのは、私は考えてないから」
手の平に液体を広げながら、彩可だけでなく自分にも言い聞かせるようにして、言葉を放つ。
「あっそ」
呆れたような彩可の物言いに、私もため息を漏らす。私は一体、何を意固地になっているんだろうか。
「で? その末田さん? とは連絡先の交換ぐらいしたわけ?」
ため息混じりの彩可の言葉に、思わず口角が上がる。そうだ、私が今考えるべきことは、末田さんのことだ。
「まあね」
予想以上に弾んだ自分の声に、自分でも驚いた。まるで、青春時代そのものな声と感情に、私の心は自然と躍る。
末田さんとの関係に難色を示す彩可に、この事を伝えるべきだろうか。いや、考えるのはよそう。彩可にだったら、なんだって話せるのだから。私は、ゆっくりと口を開いた。
「明日、一緒に買い物に行くんだ」
スマートフォンから聞こえる一際大きな驚きの声に、私は自分の言葉が親友にしっかりと伝わったことを理解した。
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