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山の中へ
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朝起きて、アキと母がまだ眠っているのを確かめる。
一番鳥も鳴く前は、空気のすべてがひんやりと冷たい。
狩りの仕度をして、山へは向かわずに村の中へと進んだ。ほとんどの家はまだ眠っているが、アキを探すのを手伝ってくれた旅籠の者は、もう忙しく働いているはずだ。
村で一番にぎやかになる通りを一本抜けると、旅籠に着く。裏口のほうへ回ると、幾度か見たことのある顔を見つけた。
「おはよう」
声をかけると、若者が顔を上げる。
「アキの兄さん。……昨日は、大変だったね」
神妙な顔に、妹を労わってくれる色を見つけて、少しほっとする。
「いいや、手伝ってくれてありがとう。他の人は?」
「にわとり小屋のほう。これから朝餉を作るから、卵を取りに行ってる」
「ありがとう」
そこへ向かうと、手伝ってくれた顔ぶれと、そうではない者が混ざっていた。
呼び止めて、手伝ってくれた者には礼を言い、そうでない方にはなるべく穏やかに話をした。
「アキはさらわれて、怪我をして帰ってきたんだ。しばらく充分に働けないかもしれないが、どうか元気になるまで待ってやってくれないか」
すると、若者たちは顔を見合わせた。
そして、どこか安心した風に、小さく笑った。中の一人が、頷きながらこちらへ向く。
「お大事にって伝えてください。あたしたち、アキの変なうわさが聞こえてくるから、どうしちゃったのかなって心配してたの」
「ああ、伝える。……アキのことを、何か言う人がいたら、さっきみたいに話してやってくれないか。茶化すうわさは俺も聞いたよ。困っているんだ」
「わかった。でも、人さらいだなんて怖いわ。駐在さんがいてくれたらいいのに」
いたら、呼べただろうか。アキが自分のみに起きたことを一から話さなければ、きっと年長の者どもの家を調べることはできないだろう。
旅籠の面々と別れて、商店の通りへ出る。
通りを掃いている女性たちが、口々にアキのことを聞いてきた。心無いうわさのことを、みな知っているようだった。だから、また同じ説明をした。
気の毒に、という顔を見せてくれた者と、疑わしい、という顔を見せた者が、半分くらいだった。
「皆さんも気をつけてください。それから、昨日はアキを探すのを手伝ってくれて、ありがとうございました。お子さんたちに伝えてください」
気の毒だという顔を浮かべてくれた女性の何人かは、アキの友人の母親だった。
「わかったよ。ケイ、妹を大事にね。お母さんも心配してたから、よくよく気をつけてやるんだよ」
「はい、ありがとうございます」
礼を言ってその場を後にする。
それから、アキの友人の家を回り、礼と説明を繰り返した。どの家もわかってくれたが、近所ではそんなふうでもないということを、聞かせてくれたところもあった。
タルには直接礼を言いたかったが、昨日働きづめでやっと寝たところだと聞いて、またあとで来ると告げた。
もう何本か路地を行けば、猟師たちの多く住む場所だ。
行く気など起きなかったが、行かねばならない。
自分達に不利になる話を、白状するとは思えない。しかし、問い詰めなければ気が収まらない。
どうしてアキがあのような目に遭ったのか、理由がわからねば二度目に怯えることになる。
だが、聞きたくもない。
家族に向けられて実際に牙を剥いた悪意など、ひとかけらだって聞きたくない。
よく知った男の口からなど、余計に。
それでも、道を進んだ。
家々の共同の水場で、猟師たちが狩りの仕度をしていた。
年かさの者たちは何人か集まって、朝の狩りへ出かける。しかし、今日は若い者たちも結構な数が集まっていた。昨日、俺が殴った者たちもいた。目が合うと気まずそうにそらした。大きな痣になっていた。
「どうした、ケイじゃないか」
何事かを話して盛り上がっていた中の一人が、気付いて声を上げる。
全員が、薄く笑っていた。話の通じないものだとすぐにわかった。だから、まっすぐに銃を使う年かさの前へと立った。
「話がしたい。来てくれ」
「なんだ、ここじゃだめか?」
「いいから来い」
胸倉を掴むと、やれやれとため息をついて、大人しくついてきた。
物陰まで引きずるように連れてきて、問い質す。
「……どうしてアキを」
「何のことかわからんよ、アキがどうしたってんだ」
にやついた笑いを浮かべる男の首を絞めぬようにするのが、これほどつらいとは思わなかった。
「さらわれて、火薬のにおいのする場所へ閉じ込められた。お前、何か知っているだろう」
すると年かさは、げらげらと笑い出した。そうして、おうい、と声を上げる。わらわらと、男たちが寄ってくる。
「なあ、ケイは俺のことを例の色男だと思っているらしいぞ。光栄なことだな」
大声で笑い、みなを見渡した。はらわたの煮えくり返る思いで、男を揺さぶる。
「そんなこと一言も言っていない! 俺は、お前がアキをさらったんだと言っているんだ! ほかに火薬のある家などないだろう!」
男は眼を細めて、神妙な顔になる。
「匂いがしたんだってな。うちは火薬の匂いがするだろうよ。銃を使う家はみんなそうだ。山を崩す爆薬のある家だって、火薬を売る商人の家の蔵だって、同じ匂いがする」
しかし、そこで男は再び、げらげらと笑った。
「いや、すまんなあケイ。確かにうちだよ、アキがいたのは」
ぎり、と男を掴む手に力が入る。しかし、なぜだか周りの人間もみな、一様ににたにたと笑っていた。
「ごまかせんなあ。あの子がうちの納屋で男とよろしくやってるところを、言いふらしちまったからよ」
ぶつん、と頭の中で何かが切れる音がした。
とめどなく、あらん限りに叫んだ。
畜生、黙れ、殺してやる。ぜったいに殺してやる。
いつの間にか、男を殴っていた。馬乗りになって、殴り続けた。
目の奥が焼けるような怒りで、景色のすべてが赤く染まって見えた。
若い者たちが自分を押さえる。放せと叫べど、手足が動かぬ。
畜生。畜生。
焼け付く怒りの眼前で、年かさが頬を腫らして薄く笑いながら立ち上がった。
「考えてみろよ、ケイ。俺はとんだおしゃべりだ。――初物食いをしたなら、もっと大声でひけらかすさ、なあ?」
笑った。
俺以外のすべてが笑った。
下卑た嘲りはすべて、血を流したアキに向けられていた。
同じ言葉ばかりが、阿呆のように口から流れ出た。
――殺してやる。
みんな、みんな、殺してやる。
男から引き剥がされたのは、覚えている。
それからどうやって戻ってきたのか、ふらふらと、足は山へ向かっていた。
慣れた獣道が、やけに静かだ。
風の音も、葉の触れ合うさざめきも、山鳥たちの高い声も、何も聞こえない。
草木を掻き分ける自分の足の立てる音だけが、共に山道を歩く。
もうすっかり覚えた道なき道を、一心に進んだ。
細い煙の立ち上る粗末な庵が見えて、急に、音が戻ってきた。
沢を流れる水のせせらぎ。木々の降らせるざわめき。獣たちが息づく気配。
そうしたたくさんのものに囲まれながら、庵の入り口にかかる、重い暖簾を押し上げた。
「――琉璃、いるか」
草の匂いが満ちた庵の中で、琉璃は何一つ変わらぬ様子で、乾いた材料を鉢の中で叩いていた。
「何をしに来た」
無愛想な声がずいぶん久しく感じられる。
入り口に立ったまま、変わらぬ姿を見下ろした。
「……毒を売ってくれ」
口をついて出た言葉は、やけに乾いていた。
心の中は、それよりもっと乾いていた。
琉璃は叩く手を止めぬまま、ぼそりと口を開いた。
「何に使う?」
わかっているような口ぶりだった。しかし、言葉にした。
「人を殺す」
琉璃は眉の一つも動かさず、次の材料を鉢へ放り込んだ。
「高いぞ」
粉々に砕けてゆく鉢の中を眺めながら、構わない、と彼に答えた。
一番鳥も鳴く前は、空気のすべてがひんやりと冷たい。
狩りの仕度をして、山へは向かわずに村の中へと進んだ。ほとんどの家はまだ眠っているが、アキを探すのを手伝ってくれた旅籠の者は、もう忙しく働いているはずだ。
村で一番にぎやかになる通りを一本抜けると、旅籠に着く。裏口のほうへ回ると、幾度か見たことのある顔を見つけた。
「おはよう」
声をかけると、若者が顔を上げる。
「アキの兄さん。……昨日は、大変だったね」
神妙な顔に、妹を労わってくれる色を見つけて、少しほっとする。
「いいや、手伝ってくれてありがとう。他の人は?」
「にわとり小屋のほう。これから朝餉を作るから、卵を取りに行ってる」
「ありがとう」
そこへ向かうと、手伝ってくれた顔ぶれと、そうではない者が混ざっていた。
呼び止めて、手伝ってくれた者には礼を言い、そうでない方にはなるべく穏やかに話をした。
「アキはさらわれて、怪我をして帰ってきたんだ。しばらく充分に働けないかもしれないが、どうか元気になるまで待ってやってくれないか」
すると、若者たちは顔を見合わせた。
そして、どこか安心した風に、小さく笑った。中の一人が、頷きながらこちらへ向く。
「お大事にって伝えてください。あたしたち、アキの変なうわさが聞こえてくるから、どうしちゃったのかなって心配してたの」
「ああ、伝える。……アキのことを、何か言う人がいたら、さっきみたいに話してやってくれないか。茶化すうわさは俺も聞いたよ。困っているんだ」
「わかった。でも、人さらいだなんて怖いわ。駐在さんがいてくれたらいいのに」
いたら、呼べただろうか。アキが自分のみに起きたことを一から話さなければ、きっと年長の者どもの家を調べることはできないだろう。
旅籠の面々と別れて、商店の通りへ出る。
通りを掃いている女性たちが、口々にアキのことを聞いてきた。心無いうわさのことを、みな知っているようだった。だから、また同じ説明をした。
気の毒に、という顔を見せてくれた者と、疑わしい、という顔を見せた者が、半分くらいだった。
「皆さんも気をつけてください。それから、昨日はアキを探すのを手伝ってくれて、ありがとうございました。お子さんたちに伝えてください」
気の毒だという顔を浮かべてくれた女性の何人かは、アキの友人の母親だった。
「わかったよ。ケイ、妹を大事にね。お母さんも心配してたから、よくよく気をつけてやるんだよ」
「はい、ありがとうございます」
礼を言ってその場を後にする。
それから、アキの友人の家を回り、礼と説明を繰り返した。どの家もわかってくれたが、近所ではそんなふうでもないということを、聞かせてくれたところもあった。
タルには直接礼を言いたかったが、昨日働きづめでやっと寝たところだと聞いて、またあとで来ると告げた。
もう何本か路地を行けば、猟師たちの多く住む場所だ。
行く気など起きなかったが、行かねばならない。
自分達に不利になる話を、白状するとは思えない。しかし、問い詰めなければ気が収まらない。
どうしてアキがあのような目に遭ったのか、理由がわからねば二度目に怯えることになる。
だが、聞きたくもない。
家族に向けられて実際に牙を剥いた悪意など、ひとかけらだって聞きたくない。
よく知った男の口からなど、余計に。
それでも、道を進んだ。
家々の共同の水場で、猟師たちが狩りの仕度をしていた。
年かさの者たちは何人か集まって、朝の狩りへ出かける。しかし、今日は若い者たちも結構な数が集まっていた。昨日、俺が殴った者たちもいた。目が合うと気まずそうにそらした。大きな痣になっていた。
「どうした、ケイじゃないか」
何事かを話して盛り上がっていた中の一人が、気付いて声を上げる。
全員が、薄く笑っていた。話の通じないものだとすぐにわかった。だから、まっすぐに銃を使う年かさの前へと立った。
「話がしたい。来てくれ」
「なんだ、ここじゃだめか?」
「いいから来い」
胸倉を掴むと、やれやれとため息をついて、大人しくついてきた。
物陰まで引きずるように連れてきて、問い質す。
「……どうしてアキを」
「何のことかわからんよ、アキがどうしたってんだ」
にやついた笑いを浮かべる男の首を絞めぬようにするのが、これほどつらいとは思わなかった。
「さらわれて、火薬のにおいのする場所へ閉じ込められた。お前、何か知っているだろう」
すると年かさは、げらげらと笑い出した。そうして、おうい、と声を上げる。わらわらと、男たちが寄ってくる。
「なあ、ケイは俺のことを例の色男だと思っているらしいぞ。光栄なことだな」
大声で笑い、みなを見渡した。はらわたの煮えくり返る思いで、男を揺さぶる。
「そんなこと一言も言っていない! 俺は、お前がアキをさらったんだと言っているんだ! ほかに火薬のある家などないだろう!」
男は眼を細めて、神妙な顔になる。
「匂いがしたんだってな。うちは火薬の匂いがするだろうよ。銃を使う家はみんなそうだ。山を崩す爆薬のある家だって、火薬を売る商人の家の蔵だって、同じ匂いがする」
しかし、そこで男は再び、げらげらと笑った。
「いや、すまんなあケイ。確かにうちだよ、アキがいたのは」
ぎり、と男を掴む手に力が入る。しかし、なぜだか周りの人間もみな、一様ににたにたと笑っていた。
「ごまかせんなあ。あの子がうちの納屋で男とよろしくやってるところを、言いふらしちまったからよ」
ぶつん、と頭の中で何かが切れる音がした。
とめどなく、あらん限りに叫んだ。
畜生、黙れ、殺してやる。ぜったいに殺してやる。
いつの間にか、男を殴っていた。馬乗りになって、殴り続けた。
目の奥が焼けるような怒りで、景色のすべてが赤く染まって見えた。
若い者たちが自分を押さえる。放せと叫べど、手足が動かぬ。
畜生。畜生。
焼け付く怒りの眼前で、年かさが頬を腫らして薄く笑いながら立ち上がった。
「考えてみろよ、ケイ。俺はとんだおしゃべりだ。――初物食いをしたなら、もっと大声でひけらかすさ、なあ?」
笑った。
俺以外のすべてが笑った。
下卑た嘲りはすべて、血を流したアキに向けられていた。
同じ言葉ばかりが、阿呆のように口から流れ出た。
――殺してやる。
みんな、みんな、殺してやる。
男から引き剥がされたのは、覚えている。
それからどうやって戻ってきたのか、ふらふらと、足は山へ向かっていた。
慣れた獣道が、やけに静かだ。
風の音も、葉の触れ合うさざめきも、山鳥たちの高い声も、何も聞こえない。
草木を掻き分ける自分の足の立てる音だけが、共に山道を歩く。
もうすっかり覚えた道なき道を、一心に進んだ。
細い煙の立ち上る粗末な庵が見えて、急に、音が戻ってきた。
沢を流れる水のせせらぎ。木々の降らせるざわめき。獣たちが息づく気配。
そうしたたくさんのものに囲まれながら、庵の入り口にかかる、重い暖簾を押し上げた。
「――琉璃、いるか」
草の匂いが満ちた庵の中で、琉璃は何一つ変わらぬ様子で、乾いた材料を鉢の中で叩いていた。
「何をしに来た」
無愛想な声がずいぶん久しく感じられる。
入り口に立ったまま、変わらぬ姿を見下ろした。
「……毒を売ってくれ」
口をついて出た言葉は、やけに乾いていた。
心の中は、それよりもっと乾いていた。
琉璃は叩く手を止めぬまま、ぼそりと口を開いた。
「何に使う?」
わかっているような口ぶりだった。しかし、言葉にした。
「人を殺す」
琉璃は眉の一つも動かさず、次の材料を鉢へ放り込んだ。
「高いぞ」
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