隠遁薬師は山に在り

あつき

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戸は立てられぬ

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 震える妹を抱きかかえて、ようよう家に帰った。
 アキの友人から、俺が連れ帰ると聞いた母が、家で待っていた。
 憔悴しきったアキを抱きしめて、泣きながら寝床へと運んだ。
 詳しくわけを話す気にはなれず、しかし何も言わぬわけにもいかず、男に乱暴されたようだと伝えた。母はひどく悲しんだが、生きていればまずはそれで良いと、アキのそばから離れなかった。
 宿を出るときに、タルと少し話した。
 アキが抜けた穴を、全部埋めて帰るから、すぐ見舞いにはいけないと、申し訳なく頭を下げてきた。
 人が足りぬことで余計な詮索をされるのは困るから有難いと告げて、彼とは別れた。
「……食いたいものは、あるか?」
 薄い布団の中で、ぼうっとしているアキに声をかける。アキはこちらを見ぬまま、ゆるゆると首を横に振った。母が差し出す白湯だけは飲む。水が飲めるのならば、腹が空いたと感じるまでは、無理に食べさせたくもない。
 口当たりの良い粥でも作っておこうと、芋を笊へ用意する。少し米を混ぜてから潰して味噌を溶かせば、飲むように喉を通る。
 洗うために、外の水場へ出ると、陽が落ちて、空が赤い。
 村のあちらこちらで、夕餉の仕度の細い煙がのびている。
 ――昨日は、この空を、峠の向こうで見た。
 アキはここから見ていたのかもしれない。そうして、仕事へ向かう前に背筋の一つでも伸ばしたのかもしれない。
 なぜ、一緒にいてやらなかったのか。
 唇を噛んで、乱暴に桶を掴む。雨水を溜めた大甕から、水をすくってざぶざぶと笊の中身へかける。手で擦れば、泥に汚れた皮が、つるりときれいな肌を見せる。
 一緒にいてやれば、俺は、妹を守れただろうか。
 旅籠に用があるから、アキを送っていくと言われたら、安心して預けてしまったのではないだろうか。
 きっと、そうしただろう。
 アキだって、何も疑わずに着いて行っただろう。
 子どものころから知っている男だ。疑うか疑わないか、そんなことを思いつくことすらない、当たり前に関わるだけの人間であったはずだ。俺と、アキの中では。
 今すぐに、あの男の家へ言って、問い質したい。
 本当にお前なのかと。なぜ妹を傷つけたのかと。
 しかし、消沈した女二人だけを家に残して、どこかへ行けるわけもない。
 何より自分が、傷ついた家族と一緒にいてやりたかった。
 水が滴る笊を抱えて、家へ戻ろうとする。と、戸口のそばに男が二人、立っていた。
「誰だ!」
 思いがけず、気の立った声が出た。
 アキを連れ去った男たちが様子見に来たのだと、瞬間でそう思った。
 しかし驚いた顔で振り返ったのは、毛皮屋の親父と息子だった。
「……なんだ、あんたらか」
 怒りを向ける相手ではない顔を見て、力が抜ける。
「どうしたんだ。今日は、悪いが家には上げてやれない」
 すると親父の方が、わかっているという風に、首を振った。そして、戸口から少し離れた畑のほうへと向かう。息子と一緒に、それに倣った。
「話しておいた方が、良いと思って来たんだ。……このおしゃべりのところに、若い猟師が持ってきた話があってな」
 親父は息子の頭を、ぐわんと掴む。息子は決まり悪そうに、視線をそらした。
「アキを探すのをこいつも手伝ったんだが、見つかってから、どうも様子がおかしいから聞いたら吐いた。……いなくなったアキが、男と会っていたと、若い猟師連中に聞いたんだと」
 眉をひそめた。おかしな話が伝わったものだ。
「俺たちは、アキがどうしていなくなったのか知らん。お前に聞いていないからな。ただ、旅籠のうわさで、怪我をしたようだとは聞いたよ。かわいそうに。……アキは、仕事を放り出して男と遊ぶような子じゃないだろう。こいつが聞いた話は、ずいぶんひどい尾ひれがついてると思う。……お前の耳に入る前に、知らせた方が良いと思って来たんだ。ここに来る前に少し寄り道をしてきたんだが、だいたいどこの家も、アキは男と遊んでいたからいなくなったと聞いているようだった」
「……だれがそんなことを、言いふらしているんだ」
 頭が、怒りで煮え上がってくる。
 身体がぶるぶると震える。
 なだめるような言葉をかけてきたのは、息子だった。
「俺が聞いたのは、お前とよくつるんでる猟師だよ。……ほら、若いのが何人かいただろう」
 そう言って、名前を何人か教えてくれた。
「……一緒に、小間物屋の連中もいたから、商店の地区には、広まっちまってると思う」
「そいつらは誰から聞いたか、知らないか」
 どちらの顔も見られなかった。視線を落として、転がっている小さな石を、じっと睨みつけた。
「わからん。ただ、猟師の方がよく喋っていたから、あの仲間たちのどこからか、広がったんじゃないかな」
「……そうか」
 ほとんど毎日顔を合わせては、他愛もない話を交わしていた者たちを思い出す。
 仲間という言葉を、彼らに添わせることは、もう二度とないだろうと、心の底が冷え切った。
 黙りこくった自分を置いて、親子はそれじゃあと帰って行った。
 見送ることもできず、笊を抱えて、石を睨みつける。
 土のにおいのする風が通り過ぎたとき、かすかな笑い声が聞こえた。
 顔を上げると、畑の囲いの脇に、さっき聞いた若い猟師が何人か、こちらを冷やかすように見ていた。
「なあ、ケイよ」
 中の一人が寄ってきて、にやにやと笑った。
「お前の妹、傷物にされたって、本当か? 見舞ってもいいか?」
 ――なにも考える間もなく、手が出た。
 相手の顔面を、真っ直ぐ殴りつけた。
 倒れた男の腹を踏みつけようとして、周りの人間に邪魔された。
 突き飛ばされて、尻を着く。
 殴った相手を引きずるようにして、みんな逃げ出した。
「――くたばれクソが!」
 散り散りの後姿にぶつけた罵倒が、届いたかなどわからない。
 よろりと立ち上がって、笊を抱えなおして、家へと戻った。
「ケイ、どうしたの。外が騒がしかったけど」
 土間では、母が火を吹いていた。
 なんでもない、と首を横に振って、台所へ芋を並べる。
 包丁で皮をむきながら、母へ声をかけた。
「……明日は、朝一で村の中を回ってくる。アキを探す手伝いをしてくれた人に、礼を言わないと」
 母は小さくため息をついたが、そうだね、と言った。
「頼むよ、ケイ」
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