名もなき春に解ける雪

天継 理恵

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春の章 遠くに咲く花2

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 図書委員になって、最初の委員会の後。憂鬱な当番を割り振られてしまい、私はいきなり次の日の昼休みに、委員の仕事をすることになってしまった。
 貸出や返却をしたり、本を棚に戻したり。貴重な休み時間や放課後に今後週一で入らなくちゃいけなくなって、早くも後悔でいっぱいになる。

「委員会やっとくと内申よくなるんでしょ?ポイント稼ぎじゃん」

 他人事のような美樹に、「じゃあ美樹がやってよ」って不機嫌に言いかけて、でもすぐに「それもそうだね」って言葉に変えた。

 お昼休みはいつも美樹たちとおしゃべりしてるけど、今日はのんびりしてる暇はない。すぐにお弁当を食べて、図書室に行かなきゃいけない。
 私は口の中のおにぎりを早めに飲み込んで、お弁当箱を片付け始めた。美樹たちはおしゃべりに夢中になってて、食べるのが全然進んでない。
 食べ終わったのは、私ひとり。みんなが盛り上がってるのに、仕方なく席を立つ。

「じゃあ行ってくるね」
「おー、いってらー」
「頑張ってー」

 美樹、凛、優里と真由香に見送られる。でも背中越しに楽しそうなおしゃべりが聞こえると、除け者になったみたいで急に寂しくなる。
 教室を出る時、ちらっと振り返ってみる。美樹たちは彼氏の話題に夢中で、私の方なんて気にもしてない。

 ——いいんだけど、別に。

 強がるように呟いて。私は、そっと教室を後にした。
 教室の扉を閉めた途端、みんなの声が遠ざかる。出てすぐの廊下の窓に目を向ければ、風に揺れる散り際の桜が、かろうじて枝にしがみついているのが見えた。

 もうほとんど散ってるのに——なんだか、必死だな。

 ふとそう思ったけど、私、どうしてそんなこと思ったんだろう。
 意味不明な感情は、あんまり気分のいいものじゃない。私は深く考えないように桜から目を逸らすと、足早に図書室へと歩いていった。

***

 目指した図書室は、一年の教室がある二階から、ひとつ上の三階の奥にあった。
 階段を上がるとそこは二年生の階で、知らない先輩たちがいっぱいいる。……さすがにちょっと、肩身が狭いかも。
 廊下の隅を小さくなって歩いて、図書室の扉を開く。その瞬間、南向きの室内が、眩しい光で私を出迎えた。

 図書室って、もっと暗いとこだと思ってたのに。

 暖かな日差しが差し込む本の棲家は、中学の図書室よりずっと立派だ。
 本棚はよくあるスチール製じゃなくて、年季の入った木製。大きいのから小さいのまでずらりと並んでて、どの棚にも本がぎっしり詰まってる。
 歴史ある学校だけあって、昔の本もたくさんあるみたい。さすが私立。お金かかってるなぁ。

 初めての図書室に圧倒されながらも、私はカウンターに座っていた委員の先輩に声をかけた。たしか、二年の鮎沢あゆさわ先輩。委員会の時、ちょっと話したことがある。

「先輩、お疲れ様です。交代に来ました」

 挨拶すれば、返却された本を整理していた手を止めて、鮎沢先輩は席を立った。

「ありがと。悪いんだけど、もし手が空いてたら、この返却された本を本棚に戻しといてくれる?出来るところまででいいから」

 ……さっそく仕事を頼まれちゃった。委員の仕事だし、仕方ないんだけど。
 ちょっとだけ億劫な気持ちを隠しながらも、「わかりました」って素直に答えれば、鮎沢先輩は図書室を出て行った。残された私は、思わずふぅって息を吐く。

 ひとりになって、カウンターから改めて室内を見回す。目の前に広がる図書室は、思っていたよりも広くて綺麗で、なんだか青春映画のワンシーンっぽくも見える。

 食べ終わってすぐ来てる生徒が多いのか、意外と利用者はいるみたい。みんな長机に並んで座って、思い思いの本を読んでる。中には勉強道具を広げている子や、机にうつぶせて寝てる子もいる。
 人がそれなりに居るわりに、室内は驚くほど静かだ。本をめくる音、本棚から本を取り出したり戻したりする音だけが響いてて、声すら出しちゃいけない空気が漂ってる。
 図書室の雰囲気ゆえなのかな?それとも、でかでかと貼られた「私語厳禁」ってポスターが効いてたりして。
 
 昼休みが終わるまで、あと二十分。終わり際は貸出依頼が多くなるって聞いてたから、私は今のうちに頼まれた本を片付けることにした。
 本の山から数冊取って、背表紙を見る。貼られた小さな白いラベルは、分類や著者の苗字を示すシールだって教わった。とはいっても、分類なんて全部は覚えてないんだけど。
「913は……たしか、日本の小説だったよね。で、アサダはアの棚で……」
 カウンターにある本棚の配置図であたりをつけて、席を立つ。

 最初に手に持ったのは、『けだものの檻』っていう、布張りの分厚い小説。作者の名前を見ても、まったく誰かわかんない。
 本のことはよく知らないけど、みんなが読むのって、いわゆる有名な作者の本ばかりだと思ってた。こういうマイナーなの、読む人もいるんだなぁ。よほど本好きなのかな。

 ……どんな子が、この本を借りたんだろう?

 眼鏡をクイっと上げそうな、真面目そうな女の子かな?黒髪で規定通りのロングスカートで、いかにも優等生!って雰囲気の……。

 そんな想像をしてたら、目の前の棚と棚の間から、ひとりの女子生徒が音もなく現れた。

 気づいた途端、目が自然とその子に向かう。


 ——その瞬間、時が止まった。


 日差しにきらきらと輝く、長くてまっすぐな黒髪。
 規定通りに長い、シワのない制服のスカート。
 それだけ見れば、さっきまでの妄想みたいなのに……現実は、全然違った。


 ——きれい。


 真っ白になって、ただそれだけを思った。
 瞬きも忘れて、目の前の子だけをじっと見つめてた。

 透き通るような白い肌。
 ぱっちりとした凛々しい瞳。
 均整の取れた目鼻立ち。
 黒い髪と白い肌、紺色のセーラーっていう地味な色合いの中で、唯一うっすらと色づいた、赤い唇。

 その姿は、絵画から抜け出てきたみたいに綺麗で、現実感がなくて。

 彼女がいる周りだけが、切り取られた別世界みたいだった。そこだけ時間が、わざとゆっくり流れてるんじゃないかって……そう、疑っちゃうくらい。

「……なにか?」

 私の視線に気づいた彼女が、平坦で涼やかな声をかけてきた。

 目と目が合った瞬間、私の心臓がぎゅんと焦る。
 ぱちぱちと無駄な瞬きをしては、気まずさに視線を泳がせてしまう。

「ごっ、ごめんなさい!その、あの、綺麗だなって思って……!思わず、じっと見ちゃいました……っ!」

 上手い言い訳もできないまま、本音を口にしちゃう。自爆だって気づいて、慌てて顔を伏せたけど……矢のように強い彼女の目は、まっすぐ私を射抜いてくる。

 ——不快に思ったかな。絶対思ったよね。だって、笑顔もなければ、声もちょっと冷たいし。

 急に怖くなって、不安に眉が寄る。第一印象が大事だってあれだけ心掛けてたはずなのに、笑顔も挨拶も、何ひとつ用意できなかった。

 彼女は、何も言わなかった。

 流れるように下がった視線が、私の手の本に落ちる。数冊抱えた私の姿を見た彼女の瞳が、ふっと和らぐ。

「……君は、図書委員なのかな」
「え!?あ、はいっ!昼休みの当番で、本を戻そうと思って、それで戻す場所、どこかなって探してて……っ!」

 問いかけられて、もう一度視線を合わせる。
 澄んだ瞳にびくつきながら、なんとか質問に答えると、彼女は深く観察するように私を見る。
 まさか、会話を続けられるなんて思わなかった。嫌な顔して、避けられると思ったのに。

「……なるほど。見たところ一年のようだし、まだ図書室の配置は把握していないか」

 ひとり納得した彼女が、すっと手を伸ばし、私の持っていた本を手に取る。

「これは私が借りたものだからね。自分で戻すよ」

 そう言って迷うことなく、彼女は背の高い本棚の一番上のスペースに、本をそっと埋め込んだ。

 『けだものの檻』

 どマイナーだと思ってた知らない本が、彼女の手によって、あるべき場所に帰る。

「……この本、あなたが借りてたものだったんですね」

 偶然に驚けば、見上げるように本を戻した彼女が、もう一度私に視線を戻した。
 小さく動いた首に、艶やかな黒髪が揺れる。さらりと、音も立てずに。

「なかなか面白い本だったよ。ずっと探していたんだけど、絶版になっていてね。まさかそれが、学校の図書室にあるとは思わなかったよ。……灯台下暗しとは、このことだね」

 彼女の瞳が急に輝いて、言葉に熱がこもる。この本と出会えたのがよっぽど嬉しかったのか、さっきまでの無表情が崩れてる。
 完璧な美しさが揺らいで、ちょっとだけ親しみやすさを感じるかも……。ホントに、ちょっとだけだけど。

「……全然知らない本なんですけど、そんな貴重なものだったんですね」
「そうだよ。この学校は歴史が古いから、蔵書の数も多くてね。いろんな本の初版だったり、絶版になったものだったり、価値のある書籍が山ほどあるんだ」
「……とっても詳しいんですね。図書室、よく利用されてるんですか?」
「いや、まだ五回目だよ。つい先日、入学したばかりだからね」
「えっ!一年生なんですか!?そんなに詳しそうなのに!?」

 あまりに驚いて、思わず大声を出しちゃった。周りからじろりと鋭い視線が集まって、私は慌てて口元を手で押さえる。そんな私に、彼女は愉快そうに唇を緩める。

「そう、こう見えても一年だよ。でも気にしなくていい。知ったように語ったのは私だし、年齢よりも上に見られることは、昔から慣れているからね」

 スマートな物言いをする彼女は、見た目の大人っぽさだけじゃなく、言動の全てが洗練されていた。低身長で童顔家系の私とは、真逆で大違い。どこをどう見ても、美人で素敵なお姉さんって感じで、とても同い年とは思えない。

 ——というか、一年?じゃあ、もしかしてこの子が……。

 ふと、美樹たちとの会話を思い出す。あれはたしか、入学三日目。同じ一年に、とんでもなく綺麗な子がいるって噂を聞いた。


「六組にさ、すんごい綺麗な子がいるんだって」

「ああいうのなんていうの?大和撫子?和風美女って感じの、めっちゃ美人な子」

「でも、なんかすごい変な子なんだって。愛想悪いし、喋り方もおかしいらしいよ。大げさで堅苦しくて、どっかの教授か!って友達が言ってた」

 優里と凛が六組の子から聞いたって噂は、すっかり笑いのネタになってた。みんなが笑うから、私も一緒になって笑ってたけど……正直、ちょっとだけもやっとした気持ちになってた。

「その子の名前がさ、また凄いんだよ。どっかのお姫様みたいで」


 そう言って聞かされた名前は、たしか——。


白雪しらゆきなぎさ……さん?」

 私がぽつりと名前を口にすると、彼女は一瞬だけ、小さく瞳を見開いた。

「……ああ。私のことが、噂にでもなっていたのかな」

 すぐに理解して、表情が消える。その冷えた様子に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
 

 ——あんな噂されて、いい気分になるわけない。


 こんなに綺麗なんだもん。白雪さんを見れば、誰だって目を奪われちゃう。
 美しさへの憧れってみんな持ってるから、どうしたって気になっちゃうだろうし……でもこれだけ美人だと、憧れられるより前に嫉妬されちゃったり、浮いちゃったりもするのかも……。

 そんなことを考えてたら、白雪さんの視線がすっと、私から離れた。
 その瞬間、私は見放されたみたいに寂しくなる。
 
 窓の外に向いた横顔は、やっぱり綺麗だ。
 ううん、「綺麗」なんて、そんなありきたりな言葉じゃ足りないと思った。
 でもそれ以外に、どんな言葉を使えばいいのかわからなくて。国語の成績がイマイチなことが、こんなに悔しいって思う日が来るとは思わなかった。

 髪も、肌も、瞳も。全部モノクロなのに、どうしてこんなに目を引くんだろう。
 カラフルな世界にひとりだけ、混ざることを拒んだような色だから……なのかな。


 ——でも、なんとなく、思った。


 白雪さんは、誰も触れないような遠くで咲いてる、高嶺の花なんだって。


「すみませーん。本借りたいんですけどぉ」

 夢心地の空気を割るように、カウンターから生徒の声がした。ハッとする私に、白雪さんが振り向く。

「呼ばれているようだね。無駄な立ち話に付き合わせてしまったかな」
「そんなことないです!むしろ私の方こそ、じっと見ちゃってごめんなさい!」
「慣れているから気にしなくていいよ。それじゃあ」

 なんのためらいもなく、白雪さんが身を翻す。
 ——その向けられた後ろ姿に、私の胸が突然、チリッと火花を起こす。

「あ、あのっ!白雪さん!!」

 咄嗟にまた、大声を出しちゃった。
 じろっと周囲の視線が集まる。けど今度は気にもせず、白雪さんが振り返るのを待った。

 ゆるり、と。
 優雅なしぐさで、彼女は不思議そうに振り向く。

「また、図書室来ますか!?私、週一で当番なんで……あの、お昼とか、放課後とか……だから、その、えっと……!」

 呼び止めたはいいけど、何を言いたいのか自分でもよくわからなかった。でもこのままお別れしちゃうのが惜しくて、私は必死に言葉を探した。
 白雪さんは、そんな私に、もう一度唇を緩めてくれる。

「……名前は?」
「え?」
「君の名前。聞かせてくれるかい?」

 その緩やかな微笑みに、突然、頭の中が全部ふっ飛んだ。だってそんなこと、聞かれるなんて思ってなかったから。

 ——だけど私は、ほとんど反射みたいに口を開いてた。

「はい!一年一組の、桜井羽澄ですっ!」

 先生に当てられたような私の名乗りに、白雪さんは「そうか」って短く頷いて、そしてほんの少しだけ……瞳を、柔らかく細めた。


「休み時間や放課後はほとんどここに来てるから、きっとまた会うこともあると思うよ」


 そう答えてくれた白雪さんは、強まった日差しに輝いて。


「……じゃあ、仕事頑張って。またね、桜井さん」


 ——そう言って、音もなく、去っていった。


 私の……名前を、呼んで。

 ………………………私の。

 ………………。


「あのぉ、早く貸出してほしいんですけどぉ」


 イライラした声が聞こえて、ハッと我に返った。
 いけない、私いま、完全に意識がどっかいってた!でもそれくらい、去り際の白雪さんが綺麗で見惚れちゃって……!

「すっ、すみません!今行きますっ!」

 慌てて返事をして、バタバタとカウンターへ戻っていく。
 ……白雪さんはもう居ない。クラスに戻っちゃったのかな。


 ——結局、戻せた本は一冊だけだし、貸出業務は忘れちゃうしで、図書委員としての初仕事は散々な出来だった。

 ……それでも、そんなことすらどうでもよくなるくらい。

 白雪さんの眩しさが。
 呼ばれた名前が。

 陽だまりのように、ずっと——胸の奥で、揺れ続けていた。

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