声なし王女と教育係

白藤結

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第一部

二章(1)

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 王女は貪欲に手話を覚えていった。その早さは目覚ましく、手話を紡ぐ手の速さもすぐにルークを超えることとなった。矢継ぎ早に繰り出される言葉の数々に、もう少し緩めてくれ、と言わざるを得ないほど。

(それくらい、王女殿下は不自由なさっていたのだろうな……)

 親友であるオリオンの屋敷の一室で。ルークは書物をたぐりながらそんなことを思っていた。パタリと本を閉じ、今も王城にいる王女のことを考え、そっと息をつく。
 ――王女と出会ってから一年の月日が経っていた。ほかの人との会話でタイムラグが減るのがよほど嬉しかったのか、王女が手話の習得にやる気を出し、約半年ほどで手話の講義は終わった。仕事があるため一緒に講義を受けれないエッタという侍女に、講義後復習も兼ねて教えていたのも一因だろう。

 その次の社交のマナーなどを教える段階では、王女はお茶会などに憧れでもあるのか、それらを必死に覚えていった。そこで発覚したのだが、今まで王女の教育係となった者は基本すぐに辞めていったため、どうやら王女は足りない知識をエッタから教わっていたとのこと。

 エッタは子爵令嬢だ。しかもかなり落ち目の家で、彼女の収入が貴重な財源となっているほどの。そのため彼女が受けてきた教育も周囲の人を立てるものばかりで、それを学び、しかも王女は話せないためイレギュラーな行動を取らざるを得なかったことから、社交が奇妙なことになっていたのだと思われた。

 とりあえずそれを矯正すれば社交に関しても大丈夫そうだったため、今は経済学など、専門的なことを教えているのだが――それがなかなか進まない。少し説明するだけですぐにつまづき、その解消のために時間を費やしてしまうと、すぐに講義終了の時間となってしまうのだ。
 はぁ、とルークはため息をつく。

(やる気がないわけではないのだろうが……)

 毎回毎回、「どうしてこれがわからない?」というところでつまづく。あまりにも初歩の初歩だから、ルークの説明もしどろもどろになりがちで……
 くしゃり、と前髪を握った。今まで教えてきたことあるのは学院の生徒――すなわち一定の教育を受けてきた者たちで、王女のような人物はいなかったから、どう教えれば良いのかわからない。
 自らの力不足が恨めしかった。

 そのとき、コンコン、とノックの音が鼓膜を揺らした。ちらりとそちらを向けば、いつの間にか開いていた扉をオリオンが叩いたらしい。彼は少しだけ部屋に入った状態で扉に手の甲を軽くあてながら、にこにこと笑っていた。扉が開いたことにも気づかないほど思考に没頭していたよう。

「どうしたの? そんなに悩んで」
「いや……ちょっとな……」

 言っていいことなのかと迷い、言葉を濁す。
 王女の情報はあまり出回っていなかった。それこそ、平民ならば王女がいるということすら知らないと思われるほどに。貴族内でも詳しいことはあまり知られておらず、話せないということと、優秀ではないそうだ、という情報が噂として流れている程度だ。

 その理由はおそらく、王女が話せない上に社交界デビュー前でほとんど公の場に出ていないからだろうが、もしかしたらルークが把握してないだけで情報が規制されている可能性もある。実際、留学先だった隣国のラウウィスはそうだった。暗殺の危険から守るためか王族の情報はかなり厳重に制限され、年齢と名前、そして性別くらいしかわからないものだった。

 ――ルーク。
 ちらりと脳裡によぎった蜜色の髪を慌てて振り払う。今は彼のことは関係ない。ルークが仕えているのはシャールフの王女、クラリスだ。〝彼〟ではない。

「ルーク? どうかした?」
「……なんでもない」

 オリオンに声をかけられ、ルークは慌てて取り繕った笑みを浮かべた。察しているのかもしれないが、彼は〝あの事件〟のことを知らない。気持ちを話すことなどできやしなかった。
 けれど彼は不思議そうな面持ちを隠すことなく。何とか誤魔化そうと考えて……結局、今悩んでいることを話すことにした。特定の誰々と言わなければ大丈夫だろう、と判断して。

「オリオン、何もわかっていない人に経済学を教えるのならば、どうすればいいと思う?」
「そりゃあもちろん、根気よく教えるしかないでしょ」

 その返答に、思わず、「だよなぁ」と間抜けな声を漏らした。自然と肩が下がる。今までのようにひたすら教えていくしかないのか――と思うと、なんだかひどく疲れてきた。はぁ、と、重たいため息をつく。
 そのとき、「だけど――」とオリオンが続けた。

「やっぱり工夫は必要だと思うよ。どういう状況かはわからないけど……たとえば実地で教えたりとか。そもそもルークのことだから、基礎をすっ飛ばして応用までいきなりやってない? きちんと基礎を全部教えてから定着したら応用にいかないと、ほかの人はついていけないよ?」
「だけど、それでは時間が――」
「その考えがダメなんだよ。ほかの人はルークほど物覚えがよくないんだから、ゆっくりじっくり教えて定着させないと」

 うーん、とルークは唸る。ほかの人が自分ほど記憶力がない、というのは、学院とかで一緒に机を並べたからわかっていた。けれど、王女は今までもルークの教育についてきていたから、それなりに良いはず……と思ったところで、ふと脳裡につまらなさそうに講義を聞く王女の姿が浮かんだ。なんとなくそれが引っかかり、ルークは記憶をたぐる。

 手話や社交の作法を教えていたとき、王女は楽しそうにしていた。顔を華やかせ、貪欲に知識を求めていた。しかし今はそんな気概が感じられない。ひどくつまらなさそうに講義を聞いて唸るだけで、目は輝いておらず、講義後はエッタに言語学の本を持ってきてもらい――どうやら彼女はそちらの方面に興味関心があるようだった――、自分から経済学などの知識を得ようと行動していなかった。

 ということはおそらく経済学とかに興味はないのだろう。だから学ぼうとせず、知識が定着せず、なかなか講義が進まないのではないだろうか。

(だとしたら、興味を持っていただけるためにどうすれば良いのだろう?)

 それこそオリオンの言うように工夫だと思われる。何か工夫をして、王女が経済学とかにも興味を向けるように……
 オリオンの言葉を反芻した。実地で教える――すなわち身近に感じさせる。そうすればもしかしたら王女にもわかりやすくなるのかもしれない。基礎を理解し、それが自らの生活に深く関わっていると知ったら、興味を持てるかもしれない。
 そんなことを考えながらうんうんと唸っていると、「ルーク」とオリオンに呼ばれた。顔を上げれば、オリオンが笑顔を浮かべていた。

「ところで君の教えている方・・・・・・・・は、どれくらい経済のことを理解しているの? 君の当たり前がその人の当たり前だとは限らないから、そこらへんの擦り合わせは大切だよ」

 その言葉に、ルークはオリオンの黒々とした瞳を見つめた。
 ルークは今まで「異動になった」と言ったことはあっても、「とある人の教育係となった」と言ったことはなかった。もしかしたらここ一年のルークの様子からそれを悟ったのかもしれないが……

(……いや、今はよそう)

 貴重な助言だ。まずはそれについて考えたほうが良いだろう。
 そう判断し、「ありがとう」とルークは口にした。オリオンは笑みを深めると、「じゃあ、研究に戻るから」と言い残して去っていった。
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